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はたしてことばは無力であるのか、それとも...

私は「ことば」が時々怖くなる。

自分が発していることばで相手を傷つけていないか、昔から気になっている。

ことばの向かっている先が、たとえ相手でなくたって、私に向かっていたって、聞いている相手は「自分事」として捉えてしまう可能性がある。

作家の浅生鴨さんの「他人へ向けて発信することが暴力だと思っている」という発言を聞いたことを、以前の過去記事に書いたことがあるが、その時私は「そうだよなぁ」と妙に納得してしまった。

でも、それだけだとすごく苦しいんだ。

まさにその通りなのだけど、わかってはいるのだけれど、それだけではない側面をずっと考え続けていた。

だって、それだけであったら、私は何も言えなくなってしまうではないか。

ことばはそんなに無力なのだろうか。

そんな折

先日かすみさんというnoterさんの記事を読ませて頂いた。

かすみさんはとても「広がり」を持った人であると私は思っている。

ある時は俯瞰の視点、空の高いところから鳥のように
ある時は低く低く、地面すれすれで個と向かい合わせになって
また、深く深く潜ったかと思えば、浮上してきてみんなと楽しく浅瀬を泳いでいる時もある。

上手く言えないなぁ。ごめんなさい。

やっぱりことばって難しい。

他者に対しての熱がいつも高めで、相手に対してのフットワークが軽いので、移動距離が長距離だってものともしない感じがする。場合によっては瞬間移動みたいなものも使ってるんじゃないかなとも思う。
そして最近はどんどん自分自身に素直になって強くなっている印象を受ける。私はそんな姿を見て「あぁ、そのまま突き進んでほしいなぁ。でもきっといろいろあるから無理もしないでほしいなぁ」と相反するような思いを抱いている。

そんな風に感じていたところでのこの記事だ。

実は初めて読んだ時に「これは私のために書いてくれたんじゃないかな」と思った。まあ、冷静に考えればそんなスペシャルな事は起きることがない、錯覚だとも思った。そして思いの丈を短い文章の中で急いで綴ってメッセージを送った。

返ってきたメッセージを読んでびっくりした。

私に読んでほしかったと書いてあった。

私はそこで完全に肩の荷が下りてしまった。

息が少し吸いやすくなった感じがする。

「普通じゃない」「健康が一番」は傷をつける。でも相手がどんな思いで放ったかによって、受け手側が傷をつけなくてもいいんだ。悪意があったり、つらかったら距離を取ればいいんだとかすみさんは記事の中でおっしゃっていた。

それでも大丈夫だと思うんだ
何となく大丈夫な気がするんだ。
そう思っている方がずっと心が柔らかくいられると思うから。
ふかふかした心は言葉をいかようにも変えてくれるだろう。
変える??
ああ、そうだった。
わが家はカエルの地に魅かれて引っ越してきたんだ。

このカエルのところまでがセットで私はこの文章が大好きだ。


何かが私の中で変わる気がする。

というかもう「カエル

私は「励まし」というのが得意ではない。

「がんばれ」とか「負けるな」とか「大丈夫」ということば達をあんまり仕事でも普段の生活でも使いたくないと思ってきた。

だって目の前のこの人は精一杯頑張っているし、人生は勝ち負けでないし、私にとって大丈夫でもこの人にとっては大丈夫ではないかもしれない。

でも、エールを送りたいんだ。

一生懸命生きているあなたを肯定したいと思う。

そんな時に励ましのことばが見つからない。

でも、わたしはことばを信じたい。

ことばのちからを信じたいと思う。

あきらめたくないし、その人に合ったものを一緒に探していきたい。

すぐには見つからないかもしれないけど、今は見えないだけで、きっと想像して、動いて、積み重ねていくことで


私やあなたを1人ぼっちにしないことばを

みんなで紡ぐことができると思うから

たとえそれがたどたどしい不格好な形だって

「ことばは無力ではない」と思える今なら

大きな声で言えるような気がするんだ。

だからあなたもあきらめないでほしい。

きっとふかふかした心で受け止めてくれる人が必ずどこかにいることを信じて。


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