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木がどこかで音もなく倒れていることを私は忘れたくない

雨降り。

ぽつぽつとフロントガラスに落ちていた雨音は、次第にぼつぼつぼつっと強い音に変化する。音の間隔は次第に狭くなって連続的になる。

車のワイパーが規則的に雨を横に払い除ける。

運転しながら私は色々なことを考える。

お友達のnoterさんのゆうゆうさんが
先日、コメント欄で

「諸法無我」

ということばを教えてくれた。

諸法無我とは「世の中のすべてのものごとは、つながりあっていて、個として独立しているものは一つもない」という意味です。

「習字ガイド」のホームページより

とかく私たちは、自分一人の力で生きているように錯覚するときがあります。一つのハンバーガー、一人の友だち、一つのネット情報…「出合う」ということは、いろんな矛盾や課題を抱えることです。それを私たちは苦しみだと感じています。苦を抱えることは当然なことなのですから、なかったことにするのではなく、取り込んでいく、“そっか、当然なんだ”“悩むって、つながっているから悩むんだ”と、ふと思う努力をしてみると、先入観を持っている自分、固定的な見方をしている自分に気づき、気づいた瞬間、今まで見えていた世の中が違って見えてきます。

この「諸法無我」に対していくつかなるほどと思うことがあった。
そして、過去に私の心の中にいくつか生まれた問いたち。
その問いたちはその時は解決に至らず、私の心の片隅でひっそりと出番を待ち続けていることが多いのだが、それらとまた紐づいて、新たな問いや考え、そして、今の時点での「答え」みたいなものが生まれたりする。

今回、思ったことの一つ。
それは、私は私以外のものたちとの関わりがあるからこそ、私自身を証明できるのであって、私が実存していることってかなり儚くて、脆くて、危ういのでは?という問いだった。

そんなことを最近考えていたら、娘も同じようなことを言い出したので、今日はそのことを書いてみたいと思う。

先日娘と一緒に、お友達家族に会いに出かけた。

娘は2人っきりになるとよくお話をする。この日の移動中も、自分の思っていること、思い出したことなどを取り止めもなくバスや電車の中で話してくれた。

その様々な話の中で「子ども哲学」の本の話になった。
それは彼女が小学生時代に夫が娘に買い与えた本で、私もうっすら記憶にあった。

娘は「その本を読んでこわくなった」と一言感想を述べた。
そして、彼女の中ではその読書体験は世界が大きく変わるものであり、かなりのインパクトがあったようだ。

いくつか話をしてくれたが

そのうちの一つが

もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとする。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのか?

というものだった。

これは、アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリーが提唱した考えで、様々な人への問いにもなっている。

私たちは木が倒れる時に音を出すことを、人生のどこかで耳にしていて知っているはずだ。なので、音を立てるのは当たり前である。しかし、その状況を観察するものがいなかった時に

音は立たなかった

という答えになる、らしい。

存在は、認知があって初めて成り立つ。

「有名な『シュレーディンガーの猫』の話とも似てるよね」と娘は続けて話した。

私が最近考えていることと、どこかで繋がっているような気もして、私の頭はまたゆっくりと動き出す。

ケアともつながるな、と思った。

ぼんやりとバスの窓から東京の街を眺めていて、そう思った。

倒れる時

どんなに音を立てていても

誰にも気づかれない。

倒れてしまったことさえ

気づかれないような

傷ついた木が

この痛みが

この世の中にはたくさんあるかもしれないことを

ふと、想像してみる。


それはどれだけ孤独で

どれだけかなしいことなんだろうと

木に想いをよせてみる。


私の好きな哲学者の永井玲衣さんが以前話していたことば。

無責任な放棄と自由の尊重は違う


多様性や個性が尊ばれる世界で

私たちはお互いに干渉し合うことに

ためらいを持つことがある。

しかし、ここに書かれているような

無責任な放棄を

私はなるべくしたくない。


私は木が倒れる音を

そばで聞いていたいと思う。

木がどんなに痛みを伴って

どんな悲鳴をあげているかを

聞くことのできる人間になりたいと願う。

在りたい自分。

これはもしかして
そのうちの一つなのかもしれない。


それはやさしいからとか
ケア職だからとか
そういうものでもない。
かといって
自分がしたいからとか
人からよく思われたいとか
気になってしまうからとか

そういうものも実はどれもしっくりはこない。

そして、私はいつでも
誰にでも
それができるわけでもないのだ。

どのように私以外の世界と
つながるのか
その世界の中で
私というものが
立ちあらわれていくのか。


バスの隣にいる娘の顔を見る。


娘は私に言った。

「お母さん。私は昔から変な妄想をしちゃうんだけどね。小さい頃に、大人は私の考えを全てわかってしまっているのではないかと感じた時があった。大きくなってから、そんなことはないってことがわかったんだけども。一つの癖だけがずっと残っていて。
それは、自分の中で『なんで自分が今こういうことをしているのか、なんで自分がこんなことを考えるのか』というのを、言い訳っぽく考えるようになった」

「自分を振り返るというか、この行動はこれこれこういう考えのもと、やってるんだよとか、いやそうじゃないなとか、どんどん深掘りする癖がついてるの。
でもね、それが今、私にすごく役立っているように思うんだよ。そうしていると、またどんどん自分が変化していくの」

私は娘が、なぜ今このように在るのか。

またひとつヒントをもらえたような気がする。


バスに乗っていた彼女の横顔を思い出しながら


私はまた運転に集中して
雨音を心地よく聴きながら
道の横で波打っている
海の向こう側を思いうかべた。

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