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ただ思いだすだけ

先日、医療職のエゴについて友人と話した。

患者さんや家族が望むべき展望を得られなかった時に、医療職は一緒にそこに思いを馳せて、悲しんだり悔しんだりすることがある。

けれどもそれはあくまでも
「医療職側の気持ち」に過ぎない。

「そこまで背負わなくていいから」

「それは私たちに起こった出来事だから」

「こっちはこっちでやっていくことだから」

と、彼女は言った。

まなざしは
とてもやさしく
気高く
そして、凛としていた。


私は

「それは....その気持ちは医療職のエゴですよね」

とつぶやいた。

「そう。でもそのエゴがあるから前に進める時もある。患者さんが助かる時もある。」

と彼女は言った。


それは、苦いコーヒーの中の

ほんのひとさじのお砂糖みたいに

甘さを残してくれていた。


この話を聞いた時に思い出した感触がある。


私が専門学校の学生の頃。

実習で訪れていた、県のがんセンターで、私は実習の日々を目まぐるしく過ごしていた。

リハビリテーションの実習では一人の患者さんを担当して、レポートを作成するのが当時のスタンダードとなっていた。
私が担当させて頂いた方は今の私と同じくらいの年齢の女性。

カルテには子宮のがんから様々な箇所に多発転移をしていると記載されている。病院入院を経て、今は病院の隣に建っている緩和ケアセンターで過ごしている彼女と、自室で初めて対面した。


髪の毛が短い様子から抗がん剤治療をうけていることがすぐにわかった。

私ににこりと笑いかけておだやかに挨拶を交わす。

目尻がくしゃっとなって
笑顔がひまわりみたいな人だなと思った。


彼女はうちに帰りたがっていた。

なぜなら自宅に愛する小学生のお子さんがいらっしゃったからだ。


ベットサイドにはお子さんとの写真が飾られていた。

彼女はお子さんたちがどんなにかわいいかをよく話してくださり、私も写真を隣で見ながら話を聞かせてもらっていた。

「うちへ帰りたいんだ」


「そのためにはまず車椅子に乗っていられないとね」


それが彼女の願いだった。


彼女のがんは骨や臓器に転移しており、腰から足にかけてまったく力が入らない状態になっていた。


そして、車椅子に乗るとお尻が痛くなってしまい、長時間そこに座っていることができない。


私と担当の先生と彼女は

『なるべく長く車椅子に座れるようになること』

『ベットから車椅子に上手に、できる限り自身の力を生かして、乗り移りができること』


の2点を目標として、リハをすすめていくこととした。

そこから彼女との二人三脚の日々がはじまった。


まずはトランスファーボードというつるつるとした滑りやすい素材の薄い板を使って、車椅子からベッドに移る練習だ。

私はほぼ初めて使う、使い慣れないボードを必死に扱いながら、彼女と車椅子に移る練習を繰り返し繰り返し行なった。

少しでも失敗してしまうと床へ落下してしまうリスクをはらんでいるため、毎回手にじっとりと汗をかいた。

ベットと車椅子の高さはどうか。
彼女についているおしっこのバッグはどこの位置にあるか。
L字型のベッド柵の角度と車椅子の付け方の角度はこれでいいのか。
トランスファーボードはお尻のどのあたりに差し込むべきなのか。坐骨下に入っているか。
両足の位置はこれでいいのか。
プッシュアップという腕に力を入れる技で、お尻が無事に車椅子まで移動できるのか。

何回も練習して彼女は私と一緒にこの動作ができるようになった。

次は長く座る練習。

足をおろしていると痛みが強い。

なので、足の角度を少し上げることにした。


車椅子に乗った後はクッションや最新型の車椅子の機能を用いて、足先を高く上げるようにすることで、痛みがいくぶん和らいだ。

彼女は少しずつ長く車椅子に乗ることができるようになった。

その日はいつものように車椅子に乗って
センターの外を二人で散歩していた。

夏が近づいてきている強めの日差し

時折横切る白い雲

太陽が隠れ、グレーが濃くなる地面

コンクリートをはうアリ

彼女のカタチの良い後頭部

むせかえるような雑草の匂い

遠くからかすかに聞こえる
隣接している消防訓練校の号令

病院の室外機のモーター音


「家に帰れるかなぁ」



彼女は私を見ずに遠くを見ていた


私も彼女のことばを聞きながら


再び青い空をあおいだ。



数日後


私は彼女の訃報を聞いた。


私は指導者の発表を聞くために、緩和ケア学会に出かけていた。
学会から戻ってきた翌日の朝にその話を聞いた。

お腹の出血があり、そのまま急に逝ってしまったと看護師さんから情報が入る。



指導者は

「まあ、仕方ないことだ」

と呟いた。


「さあ、今日のスケジュールはまず病棟に行って....」

といつもの通り、飄々とした雰囲気で私に話し始めたが、私はその日はうまく気持ちを切り替えられなかった。


指導者はその後も多くを語らなかったが


「僕の仕事はこういう場所だから、こういうことはよくあることなんだ。」


「自分のやることをただやるだけだ。」


と話した。


私は亡くなった彼女を症例にレポートを書きはじめている最中であった。
彼女が亡くなったあとも当然ながらレポートは完成させなければならず、リハ提供時間が終わった夕方に、指導者と毎日顔をつきあわせて、内容を検討する日々を過ごした。

「帰りたい」

私は彼女の顔を思い出す。


結局帰らせてあげることはできなかった。

そんな私の微妙な表情を読み取ったのか指導者は言った。


「あのね、彼女は帰りたいって言ってたでしょ。
でもね、旦那さんは動かなかった。帰らせようと思えばあの状態だって帰らせられるんだよ。それでも動かなかった。
面会もそんなに来なかった…..。
君はまだわからないかもしれないけどね。
対象者の思いに添うのはおおいにけっこう。
でも、もっともっとまわりの状況をとらえること。どんな制度があって、どんなサービスが使えて、どんな福祉機器があるのか知ること。どんな治療をしていて、彼女を取り巻く生きてきた文脈があって....まだまだあなたは全然見えていない。
最終的には家族の決断だから。
私たちがどんなにこうしたい、ああしたいと思っても、それが叶わないことはたくさんあるんだ。
亡くなった家族は悲しそうでもあるが、どこかほっとした表情を見せることもある。私は長年ここにいて、そういうものをたくさん見てきた。人間ってのは一つの感情じゃないんだ。それは当事者じゃないとわからないことなんだ。」

「だから、そういうものをふまえて、また医者から指示があった新しい患者さんのところに行くだけだよ。自分が何を思うかはひとまず置いておくこと。」


私はもがき苦しみ、そして悩んだ。


指導者の言ってることは
今はわかる部分も多くなったが
当時はまだまだ理解することができなかった。

圧倒的に経験が足りなかった。

気持ちが納得していなかった。


冷たいな、この人、とさえ思った。


レポートは結局落第点をもらったが

「最終的な判断は学校に任せるから」
と指導者は言い
学校側はいろいろな状況を加味したのか
私に「合格」と判断をくだした。


月日が経ち、時々私はあの夏が近い日々のことを思い出す。


コンクリートの熱気の上で
彼女の車椅子を押した感触が
はっと蘇る。


ただ思いだすだけだ。


戒めのように
私の中に残っている
指導者のことばは


これからもふっと出てくるのだと思う。




後日談だが

私の元指導者はそれから地域の新聞のコラムの連載で

私と彼女が車椅子に乗り移る練習をしている写真を載せて、文章を寄稿していた。(友人が気づいて教えてくれた)


また、さらに数年前だが


私が作業療法士の全国学会で発表するために参加した年。
プログラムを見ると、元指導者がモーニングセミナーの司会と発表をする予定が書かれていた。当日、登壇している彼の講演を聞きに行くと、スライドでの発表中に、例の写真がまた出てきた。

「わたし若いなぁ」なんて


大きなスクリーンに映し出された
学生の頃の自分を見つめた後


発表後に
「写真の主です。おかげさまで….」

と挨拶を交わして

お互いに近況を話したのが

今ではいい思い出になっていることは

ここだけの話である。


今だから思う。


彼も忘れている訳でもない。

想いがない訳ではない。


きっと確かにあの日々は残っていて

でもそれはあくまでも自分の感情であって


それを力や糧にして

お互い前にすすんできただけなのだということを。

今、彼女と同じくらいの年になって

私はただ思うだけなのだ。









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