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何かと何かのあわいに辿り着けば

私たちの訪問看護ステーションの名前には「くじら」という文字が入っている。

なぜ「くじら」か?

この名前は私が尊敬している看護師さんがつけてくれた。

クジラの祖先たちは太古の昔、陸上に居たことが様々な研究から分かっている。ペルーで発見された化石で、再びその事実が裏づけられた。約4260万年に存在したと推定される、クジラの化石に関する論文が、科学誌の科学誌カレント・バイオロジー(Current Biology)に掲載された。
https://forbesjapan.com/articles/detail/26544

くじらは元々陸にいた。しかし今から5000万年ほど前に、海へ戻っていった。


くじらのように「自分が暮らしやすい環境を自ら選んでいく。生きる力を取り戻す」という思いが会社名に込められている。


ここで考えたい。

世の中の様々な物事はこの「陸と海」のように分かれているのではないのだろうか。

例えば「男性と女性」

「大人と子ども」

「貧乏と金持ち」

「働いている人と働いていない人」

「恋人がいる人といない人」

「結婚してる人としてない人」

「子どもがいる人といない人」

「日本人と外国人」

「戦争をする人と攻撃される人」

「頭がいい人と悪い人」

「綺麗な人と不細工な人」

「やさしい人といじわるな人」

「マジョリティとマイノリティ」

「健常者と障害者」

「認知症症状がある人とない人」

「親がいる人といない人」

「支援する人とされる人」

「病気の人と健康な人」

「がんになった人とならない人」

「目が見えない人と見える人」

「政治家と政治家じゃない人」

「白と黒」

「生きてる人と死んでいる人」

このように書くと境目がはっきりと分かれているように感じる。

でも、実際ははっきりとは分かれてはいない。

分かれてはいないのだが、ある特殊な環境によっては、時に痛烈に思うことがある。

あ、分かれてる」と。


人間はその時に痛みを感じ、高い壁を眺め、遠い分断された世界に対して憧れたり、憎しみをもったり、思いを馳せたりする。

そんな高い壁である境目は、ある種とても居心地が良く、安全でもある。隣にいる人と境遇は似ている訳だから共感しやすい。同調しやすい。

ここでまた考える。

この目の前にある境目は、果たして本当に高い壁であるのだろうか。

境目を作っているのは社会?相手?もしかして自分?

私はこの境目を、はっきりとしたものからはっきりとしないものへと変えていきたい。

そこで「あわい」である。

「あわい」とは、古い日本語で、着物を着る時に二方向から近づけて、「合い」と「合い」の動きが重なった場所を指す。そうした動的な動きを語幹として含んでいるのが「あわい」という言葉だ。(いのちを呼びさますもの 稲葉俊朗著より)

海と陸の境目は波が寄せては打ち返し、はっきりと境界線がわからない。そして時間によって刻々と変化していく。

このような場所を目指したい。

そう思った。
私はくじらのように強くない。くじらが少しずつ、己を変貌させて、体に負荷をかけて、環境の変化に適したように、私は今の身体や精神を変えていく力がない。

だから渚であり、浜辺であり、あわいである。

この境界線がない場所に「合い」と「合い」の動きが重なるように、お互いがほんの少し動くことで、ベクトルを向けていくことで、二つの世界が無理なく接続できるのではないか。波が寄せては返すようにやさしくつながることができるのではないかと思った。


そんなあわいの場所に辿り着きたい。

そのような場所を見つけたい。

それが私の願いだ。

そこでは、例え角がとんがっていても、目が大きすぎても、尾が小さくても、つがいがいなくても、属性を気にせず過ごせる。

誰でもただの生き物である。見た目も中身も気にせず、軽やかにしなやかに交流する。

そしていつかはくじらのような力強さを手に入れることができる生き物もあらわれるかもしれない。

そういう場面を見届けたい。変化を捉えたい。見つめていたい。

noteではこのあわいの場所を創り出そうともがいている人たちがいる。

あわいで己の苦しみを手放せる日がいつか訪れる。

彼ら彼女らが投げかけた問いが、高い壁を乗り越えて、お互いの世界をつなげる架け橋となっていくことをただただ私は見守り続けていきたいと思っている。

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