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われらのピース

それはまるでこの世のものではないような景色だった。

一面の雲の上。太陽が白い光を放ち、雲や私たちを照らしている。

父は横にいた。私たちはただ呼吸だけをしていた。

小学4年。私は富士山に登頂した。父は登山が好きだった。私の兄と姉と同じように、父は私を富士山に登らせたかったのだ。


「先生、処置はどうしますか?」

看護師がこちらを見ている。私はふと我に帰る。ここは都内の大学病院。待合室のテレビには富士山が映っていた。あれから20年、私は医療の道に進んだ。

私はいつしか、父のことが疎ましく感じられるようになった。

父はお人好しが服を着て歩いているような人だった。仕事も手柄を人によこしてしまうし、親戚にもなめられている。そして彼はとことん運に見放されている。人をかばって怪我をしたり、挙句の果てに過度のお酒の付き合いが乗じて糖尿病まで患った。

私はそんな父が許せなかった。

偉い人になって、人を助けたい。私は父のようにはならない。勉学に勤しみ、論文を書き、学会発表にも明け暮れた。私はどんどん研ぎ澄まされた鋭利な何かになっていく。上を目指せば目指すほどさらけだされる。お前は「何を成している?」と常に緊張感は増していく。

担当患者さんのところに行き、指の傷を確認する。50代の男性。仕事場で機械を扱っていて、指と共に神経を損傷してしまい、うまく指を動かすことができなかった。

「これは動かせるようになるのでしょうか?」

男性は自身の指を見ながら言った。

「同僚が操作を誤ってね。咄嗟に動いてしまった。彼は無事だったから良かったと思います。ただ、この指が動かないと、我が子をなでることもできないのかなと思うとね....」

「なんでかばったのですか?自分が損をするだけじゃないですか。お子さんも悲しむんじゃないですか。」

私は咄嗟にこの男性に怒りをぶつけてしまった。

男性は一瞬驚いた顔をしていたが「悲しむかもしれない...けど、これは私が引き受けたこと。私に降りかかったものです。」

「すみません。こんなこと言うつもりじゃなくて」と私は彼に謝罪する。

「いえいえ...答えなんてないんじゃないですか?
こうしたいに答えはない。でもそこに...全てには愛があるのかもしれない。」

そう言いながら、彼はゆっくりと指を動かしはじめて、ピースを作った。

「はは、動きましたね。指。でもピースサインになってないけど。」

親指と小指をつけて他の3つの指は伸びたままのピース。


それは、父が私にしてくれた「あるサイン」と同じものだった。


「お前は小指、僕は親指。

このピースはわれらの特別のピースサインだ。

辛い時、我を見失いそうになる時、これを思い出して。いつでもこのようにお前を思っているよ。」

あの時、山頂で父はそう言った。


私は泣いていた。


そして、彼に向かってぎこちなく私も指を形作った。

ゆっくりと呼吸をする。

白いやわらかな光は、いつまでも私たちと病室を包んでいた。



(1200文字)



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