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保健室の片隅で

「もう早くあの世にいきたいよ」

とよく言われる。

言われる相手は私が日々関わっている利用者さん。特に歳を重ねた高齢者の方や精神科に通院している患者さんに多い。

私が就職したての頃は、この手の発言にどう応えたらいいのか悩むことが多かった。


明日を生きられず

今日をなんとか生きている


という状態の人は案外多いのかもしれない。


そしておそらくそういう人は

自分が今までできていたことができなくなってしまった

人の役に立てていない

自分の存在はお荷物であり、この世には不要である

自分の身の置き場がない


まわりに受け入れられていない感じが強い

といった意識的にも無意識にも自責の念が強いのではないのかなと思う。


机上の学びでは

このような発言は

スピリチュアルペインであるといったり

作業療法的には

個人的原因帰属の低下とあらわしたりする。


定義はけっこうだ。


しかし、定義だけだとお話を聞く側として、どのように対峙してよいのかまではわからない。


現在の私は概ねこういう話は割と動揺せずに聞くことはできる。

聞いている時にそこから意識的に離している自分もいるし、「わかるな」ととても近しいものを感じる自分もいる。そして、大事だと思っていることは、自分が動揺しないこと、そしてその話を聞いている時は「相手への励まし」は行わない、といったところなのかなと思う。

相手への励ましとは

そんなことない。あなたは立派ですよ

とか

みんなあなたが必要ですよ

とか

落ち込んでいてもしょうがないから
次にすすみましょう
楽しいことを考えましょう

とか

かなぁ、なんて思ったりする。


もちろん人はみんな全く違う価値観で生きているので、これが最適解だとは私も思っていない。人によっては対応を変えるようにしたいなとは思ってはいるけど。

ただその発言だけを
その時だけは
出てきたそのままで
いつも受け取りたいなと思う。


そして、それが案外難しいことであることは、やはりたくさんの本に書かれていて


その発言をしている人が近しい人であればあるほど、聞いている人も苦しいのだ。


好きな人が悩んでいる状態は

想像力が高い人ほど

自分の苦しみのように感じられるから。


そして、そんな状況に耐えられないから、早く解決したくなってしまったり、その感情が巻き起こっている原因を取り除く手立てを考えてしまったりするのだろう。自信を取り戻して、前のにこやかな楽しいその人に戻って欲しいと願っている、いるからこその相手のためのアクションなのだと。


そう私は考える。


というのも、私がそういう状態になった時にだいたいみんな動揺し、驚かれたり、励まされることが多いからだ。



でも、過去にそうではなかったことが何例かある。


私は高校を中退している。

要因は、持病の喘息の発作が続いて、出席日数が足りなくなってしまったこと。

発作がある時は病院に通院したり入院したりするので、学校を欠席することが多く


登校しても保健室にいることが多いので、必要な授業の単位日数はどんどん得ることが難しい状況になっていた。

私はさまざまな不安を抱えていた。

まず、このまま高校生活をまっとうできない可能性が高いことについて

親がお金を出して通わせてもらっている高校なのに、申し訳ないなと思った。

こんな子供を持ってかわいそうな親だなとも思った。

授業に出られないので、どんどん勉強についていけなくなっている自分が不甲斐なかった。

中学までは比較的成績もそれほど悪くなかったから、自身のプライドのようなものががたがたと崩れ始めていて

仲良くしてくれる同級生たちともふれあう時間も少なく、ひとりでいることを強く意識した。


ひとりだなと思った。


そして、誰もこの苦しみは共有できないなと思った。


自業自得だとも思った。


全ては自分のせいだし

自分の体をコントロールすることができない。


未来に対する地図が描けなかった。


保健室の片隅でよるべない毎日を過ごしていた。




「もう死にたい」



私はある日思わず口に出していた。


ことばの先にいるのは保健室の先生だった。


彼女は「うん。そうなんだね。」

と穏やかにこちらを見つめていた。


保健室通いの私が


学校の中で当時一番話をしていたのが保健室の先生だった。


彼女は、どの生徒に対しても、多弁なタイプではなく、感情も凪のようで、割と淡々とした反応をすることが多く


この時も、彼女の「いつも」は崩れなかった。


けれども、その眼鏡の奥からまなざすその視線は


私の発言を確実に受け止めようとしていた。


私は


今の自分を


否定も肯定もせずに


そのまま受け止めてくれること。


そして、死にたいという気持ちを否定せずに


ここにいていいんだと


許されたような気がして


うれしかった。


だめな自分でも


弱い存在でも


いてもいいんだと

何も言わない聞いているだけの彼女に


いのちをつないでもらったのだと思う。



私は自己肯定感が低いと自分では思っている。


それでもやっていけるのは
今までの経験や体験が積み重なってきていて
自分なりにできることも増えて
見通しがきくことが概ねできるようになったからだ。

自己有能感に支えられ、日々、母親であり、妻であり、社会人としての自分を、自分の役割をまっとうしようと生活している。


しかし、それがどうにもいかなくなる時もあって

人にとってはどうでもいいことや

取るに足らないささいなこと

けれども自分にとっては

尊厳を失ってしまいそうな感情をきっかけに

自分で自分をケアするのが間に合わずに

人に頼ることもできなくて

暗闇のような気持ちがどんどん大きくなって

時々、大きな闇にすいこまれてしまう。


「早くあの世にいきたいよ」

という相手を近しいと感じる自分がいて

私は目の前にいる人を

あの日の保健室の先生のように

そのまま受け止めたいなと今は思う。


人間は自分を愛することが案外難しい。

だからこそ、相手を愛したい。


相手の中の弱い自分を愛することで


自分に似た誰かを愛でることをとおして

自分自身を愛したいのだと思う。


そして弱さを抱えたまま


生きていられるように。


弱さから逃げずに


それをまるごと受け入れられるように。


せめて私のまわりのちいさなちいさな世界の中では

そんなことが許されることを

私は今日も祈っているのだ。


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