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命を救うことを嗤うな

 よく覚えている。去年の、まだしつこい残暑がアスファルトを熱している時節だった。その日は休日で、僕は家から二駅隣の町にレポートの参考文献を買いに行った。目当ての本を手に入れて、帰路につく。行きと同じ地下鉄のホームで、電車が来るのを待っていた。

ドサァッ

 突然左側で、何かが倒れる音がホームに響いた。振り向くと白髪の老婆が倒れている。僕はすかさず鞄を下ろし、老婆の側に膝を下ろして叫んだ。

「お婆さん!聞こえますか!?」

 返事がない。叫びながら肩を叩いても反応が無く、おまけに脈も呼吸もなかった。いわゆる心肺停止状態である。高校卒業間際に救命救急講習を受けていた僕は、初めてその現場に立ち会った。
 まずは周りの人に協力を求めた。集まってくれた方は三人のサラリーマン風の男性達。講習で習った通りに、彼らに指示を出した。

「あなたは駅員さんを呼んでください。あなたはAEDを持ってきてください。あなたは救急車を呼んでください。」

 駅員さんとAEDを頼んだ二人は快く引き受け走って行ったが、救急車を頼んだ男だけはその場に立ったまま何もしようとしない。そして衝撃的な一言を僕に放った。

「そういうのは、駅員さんに頼むもんだよ(笑)」

 (笑)をつけたのは悪意ではなく、本当にその男は笑いながら言った。何もしようとしない。そして僕とその老婆を眺めているだけ。頭が混乱した。講習で「助けを求めた時に断られた場合の対処法」など習っていない。駅員さんがいる改札口までは距離があり、それを待っていては救急車を呼ぶタイミングが遅れてしまう。周りにはその男以外誰もいない。
 僕は自分で救急車を呼ぶことにした。たまたま携帯にはイヤホンマイクをつけたままだったので、救急車を呼びながら胸骨圧迫に臨んだ。胸骨圧迫に集中しながら、現場の正確な位置を救急隊の方に知らせるのは至難の技だったが、なんとかこなすことができた。

 駅員さんが来た頃に老婆は意識を取り戻した。

「別に救急車なんていらないわよ!」

 元気そうに叫んでくれた。彼女を救急隊の方に引き渡して、僕は帰りの電車に乗った。

 目の前に意識も呼吸も無い人がいて、それを助けようとしている人がいて、助けを求められて、「そういうのは、駅員さんに頼むもんだよ(笑)」と言える神経が僕には分からない。とても寂しい出来事だった。
 救命救急の現場はコンマ1秒が勝負だ。心配蘇生を実施した場合、助かる確率は二倍以上向上する。これを読んでくださった皆さんには、もしこのような現場に遭遇したら、なるべく協力して欲しい。

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