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失われた10年

 小学校受験は僕の20年の人生で最も無駄な時間とお金の浪費だったと思う。具体的にいくらかかったのかは知らないが、二つの塾に通っても学業成績が伸びることはなかった。僕が勉強できないことは幼稚園の頃から周囲の大人は分かっていた。だが途方もない(であろう)お金をかけて彼らは僕を私立の小学校に入れた。理由は二つあった。
「両親が共働きだから公立だと不良になる」
「熊谷家の長男だから私立じゃないといけない」

いや意味がわからん。こう言ったのは父と父方の祖母である。そもそも親族の僕より上の世代は皆小学校は公立だろ。しかも血縁者は両親だけじゃないんだから誰かしらがちゃんと面倒見ろよ(結果として見てくれていた)。今思えばツッコミどころしかないが、当時の僕にはそんな事情は知らないので、言われるがままに塾に通っていた。泣いて反抗した時は懲罰的にインフルエンザの予防接種の注射をされていた(痛いので懲罰として機能していた)。

 それでも勉強する癖はつかなかった。今でも席に座ってタスクをこなせた記憶がほとんど無い。幼い頃に限っては拒絶して泣き喚いた覚えしかない。僕が2歳頃から小学校卒業あたりまで、両親がいない日はベビーシッターさん(ポピンズ)が面倒を見てくれていた。両親は多忙で陽が昇っている時間はほぼ会えなかったので、実質乳母のような感覚だった。彼女たちが祖父に提出したノートには、「勉強をする時間になると必ずお腹が痛いと仰った。」「とてもイライラしたご様子」「必ず遊び出してしまう。」「勉強せずに泣いているとおじいさまがお叱りになった。」などと書かれていた。いやほんとご迷惑をおかけしました、、。

 だがある時塾でテストがあった。算数だったと思う。僕は75点だった。この数字は僕のそれまでの点数から比べたら高かったし、褒めてもらえると思って迎えにきた母親にそのテストを見せた。
「え、みんな95点以上とってるのに75点なの?」
しんどかった。この母の言葉が、当時5歳から今年22歳になるまでずっと尾を引いている。多分これからもずっと引きずると思う。成績が悪いと母は僕を叱った。なんで勉強しないのと言われた。僕としてはいや知らんしとしか思わないのだが、怒られたくはないから謝り倒すしかなかった。この頃から生きる意味があんまり分からなくなっていた。毎日景色がぼんやりしていた。

 しかしいざお受験本番となると、一応受かった小学校があった。だが僕は入学の段階で意気消沈していた。ただでさえ地獄のような小学校受験を乗り越えたのに、なぜまた6年間も席に座って勉強しなければならないのか、意味がわからなかった。なのでとにかく学校が嫌いになった。「学校に行きたい」と僕が言った日など、6年間で一度もなかったと思う。

 2年生に上がった時転校生がやってきた。仲良くはなかったが、ある日彼にこんなことを言われた。
「俺公立から来たから私立でやっていけるか不安だったけど、お前みたいな馬鹿がいたから安心したよ。」
はあああああ今の僕の寛大な御心で許してやれるが当時はなんて言えば良いかわからなかった。というより小学2年生にこんなことを言わせてしまうような世界線は滅びるべき。

 忘れ物もひどかった。本当にひどい。毎日文房具にしろ教科書にしろ体育着にしろ何かしら必ず一つ以上は忘れていた。忘れ物をしたらその科目は授業を受けさせてもらえないこともあった。5年生になってもランドセルそのものを忘れることもしばしばあった。忘れ物大魔王なんてあだ名をつけられてからかわれていた。
 整理整頓もできなかった。ロッカーにいろいろなものを詰め過ぎて壊れたことがあり、中のものを全部抱えて一日中教室の後ろに立たされたこともあった。とにかく何もできなかった。なんとかそれを変えようとも思わなかった。無気力に6年間を過ごした。

 この10年になんの意味があったろうか。地元の子供達と公園で遊ぶこともなかった。学校に行きたいと感じることもなかった。自分で何かを考えることもしなかった。ただただ、死なないように生きていくだけの日々だった。

 先生たちに「お前このままじゃ中学校でやっていけないぞ」と言われたが、てきとーに入った中学校で人生が変わった。それはまた別の話。読んでくれてありがとう。


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