最低の男 3

第三章 逃げる

 - 「言葉にできない感情だけが本当だよ」洋介は困った時にはいつも私にそんなことを言った。こいつは本当にダメなやつだな。思考からいつも逃げている。私はそう思ったが、それは私にとってもそれは同じだった。

 私の家にはグランドピアノがあった。私は本当はピアニストになりたかった。音大に通っていたものの、母の病気もあり、途中で断念した。彼はよくグランドピアノの下に潜って、私のピアノを聴いた。彼の好みは、ショパンだった。特にノクターンのNo.2とNo.20が好みだった。見た目に反して暗いやつだ。よく足をくすぐってくるので、その度に顔面を蹴り飛ばしてやった。

 ピアノがある部屋には、小さい窓があり、そこからは夕日がよく差し込んだ。窓は、少し曇りがかかっており、夕日は柔らかく、私たちを包み込むように部屋に差し込んだ。その時間はわずか15分程度と本当に短い時間であったが、私にとってはその時間が永遠の時間のように感じられた。あの時間のカラッとした空気と匂いは本当に好きだ。

 「君は、飽きるまでご飯粒を噛み続けたことがある?」

 この男は変だ。いきなりこんな質問をするなんて。

 「もちろん、あるわけないじゃない。」

 「そういう生活も悪くないんじゃないかって思うんだよね。」

 この男は、何を言い出すつもりなのか。

 「ちょっと遠出しないか?金が尽きるまで逃げてみたいんだ。」

 少し考えた。でも逃げるという言葉に惹かれた。私も逃げたかった。

 「行こう。」私は答えた。

 - そこから俺たちは旅を始めた。アテがあるわけではない。とりあえず北に行ってみることにした。先のことはそれから考えればいいのだ。とりあえず俺のポルシェは旅には不向きだ。気分が出ない。とりあえず売り払い、一番気分が出そうな車を中古で買った。途中でエンストでもしてくれれば最高だ。そこから野宿をして、普段の生活の便利さと命の大切さでも実感できないだろうか。そんなことを数秒だけ思ったが、本当は今まで散々遊びすぎて金がなかったので、旅行費用を賄うためであった。

 仕事はとりあえず有給をできるだけ出した。母が危篤になり、看病が必要だと言った。いつ治るかはわからないのでいつ帰れるかもわからないと。もちろん嘘である。3週間の休みは取得できたので、これが終われば仕事もそのまま辞めようと思った。27年間努力して、今の地位を手に入れたが、何だかどうでもよかった。自分には元からどこかに堕落したいという願望があった。悲劇こそが美しいと思っており、どこかで自分は挫折してその悲劇が訪れると思っていた。ただ実際には悲劇は訪れず、緩慢とした日々が続いていくだけであった。競争が競争を呼び、どこまで上に行っても上に上がいた。そんな世界から抜け出したかった。

 「北を目指そう。」

 洋介はハンドルを片手で握り、前方を見つめたまま、そう呟いた。

 「いいね、雪合戦がしたい。」

 結子が答える。彼女は出身が南であるため未だかつて積もるほどの大雪を経験したことがなかった。

 車は北上していく。ただただひたすらまっすぐな道路が続いていく。アスファルトの漆黒を車のライトが照らす。真っ白な中央分離帯が浮き上がる。それはどこまでもまっすぐで均一な白さだった。まるで今までの俺の人生みたいだと洋介は感じた。

 深夜のパーキングエリアは、高速バスと運送のトラック以外は停まっておらず、ほぼ人もまばらだった。

 「ねえ、熱々のたこ焼きが食べたい。」

 結子は言った。こんな深夜に無茶苦茶なことを言い出すやつだ。寒いから車からは出たくないらしい。仕方ない。幸いにもパーキングエリアはまだ電気がついており、俺はそこで冷凍のたこ焼きを購入した。こんなものは俺の人生の中でほとんど買ったことはなかった。だいたいの食事は外食で済ませてきたものだ。中国人の店員に対して温めを依頼し、熱々のたこ焼きを手が火傷しそうになりながらも車まで持ち運んだ。彼女はそれを本当に美味しそうに頬張った。俺も食べてみることにした。すごいうまそうに見えたのだ。本当は食べる気などなかった。

 「えー、少ないのに。一個だけね。」

 彼女はそう言ってふてくされながらも、一番大きいたこ焼きをくれた。今まで食べてきたどんな高級外食よりも美味しかったかもしれない。


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