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出会いが普通を作るのだ。

私は普通でありたいと思っていた。それと同時にクシヤマには他の誰でもなくクシヤマでだからと自分を特別視したい感覚も持ち合わせていた。普通って何?そんな事を私の25年間とコロナ禍の今の社会から考えたい。

家族の普通を形成する幼少期

私は父親が水道工事をしていて、母親がパートで働く家庭で育った。父親は亭主関白気質があって怖い所もあるけど、そんな父を上手いようにコントロールしてるのか、扱う母。喧嘩しているところを見たことないとすると、仲が良いのだと思う。両親が共にいて、適度に祖父母の家に行ったり、出かけたり、そんなのが当たり前だった。私が幼少期に見た周りもおんなじようだったし、これがいわゆる普通なんだと思っていたのだろう。

けど多分、小学生とか中学生くらいの時、これ買ってって言ったものがなかなか買ってもらえなかったり、周りの子たちが持っているものが凄く華美だったり、羨ましいけどうちでは無理だなーって諦めてたと思う。後はウチはお金ないから高校は公立一本だからと言われ続けてた。どうやったらお金をかけずに、行きたい高校に行けて、行きたくない高校に行かねばならないリスクを排除するのかをひたすらに考えていた。

私を形成した高校時代

そんな高校受験を経て、行きたかった高校に行くことに。京都市内では指折りの公立進学校。おんなじくらい勉強して、思いを持ってきた人たちの集まりだから、根っこの部分の価値観が似ているのだと思う。高校に入学してすぐ大学受験について話があった、だからこそ大学受験する自分には何の疑いも無かったし、実際当時は大学に行ってやりたいことがあったから、必死に勉強してたし、寝る間を惜しんで勉強するのが当たり前で、勉強しないと居場所を作るのが難しい環境だったから勉強してたのもあると思う。クラス、いや学校全体がセンター試験、国公立大の二次試験に照準を定めて努力していく学校。受験が団体戦、それが当たり前で普通と化していたのだ。

その中でも、くっしーはおもろいやつとか初めて会う人種とか言われ続けた。やってる行動とか目指すべき方向はおんなじだったはずだけど、不思議とか、いろんな事を言われた。それが悪い意味で言ってるのではないとわかってるからこそ、私は他とはちょっと違うから何か凄いことができるのかもしれない。という自己過信の入り口に立っていたのだと思う。よく言えば自信だと思う。でもこれをちょっと捻くれて自己否定感強めに捉えてしまうと、私は普通ではなくなるという恐怖に駆られるのだと思う。

多様化する大学時代

私は国立の経済学部(社会科学が全般的に学べるところ)に入学した。第一志望ではないのだけど、自分で選んだところ。
大学では法律の勉強をして、適度にサークルとかバイトをして過ごすという絵を描いていた。それは周りに勉強しつつ、学問以外にも楽しんでいる先輩大学生がたくさんいて、それを普通と思っていたからであろう。私は大学入ったら走りたいなーと思っていた。そんな時に国立だからサークルよりも部活の方が活発(というより体育館系サークルの選択肢が少なめ)でここではやっていけると思える環境があったから飛び込んだのだと思う。

何したい?というところの目標はこの時失っていた。元々は司法書士の知り合いに憧れを抱き、国立の法学部で法律の勉強をというところだったけど、結局のところ法律案外面白くないってことと、もっといろんな世界を知りたいという思いを持ち、やりたいこと探しの旅に、次ではやりたいこと探しの旅の終着点が公務員だった話を。

私のやりたいこと探しの旅

大学に入ってからのやりたいことの一つが教育の現場を知りたいだった。ただ教職を取るのは費用対効果がないように思えて断念。学校、陸上部、マクドのバイトと並行して塾講師のバイトをすることに。何で教育の世界に興味を持ったのかをここで少し。

私は高校時代に言われたひとことでひきづっている。大学を目指して当たり前の環境にいた時に、お前を大学に行かせるお金があるんだったら、弟を行かせる。女は結婚するまでだから的な事を言われたことがある。その時はそれでも大学に行くんだというのと、結局行かせてくれてた親には感謝しかないのだが。もしお金があって不自由なく進路が選べたらって思ったことはあって。生まれる環境で人生というか、選択肢の数が決まるか、可能性が狭まるのって不平等だと思うようになってしまって。貧困の連鎖を断ち切るとか、可能性とか選択肢を増やすための教育環境を社会的に整えられたら良いのではと思うようになったのです。

ゼミの先輩とお話しする機会があって、某自治体で生き生きと働いている姿が見られた。自治体での出来る事の範囲は広くて、地域社会を良くする(この時は凄い漠然としたイメージしか無かったのだけど)一つの手段として自治体で働くという選択肢が生まれた。教育も公共性の高い事業だからこそ、切り口の一つとして有力なものとなった。
この選択肢を肯定できたのは、世間的に安定してて、周囲から否定されないからというのもあったのだと思う。

オモロイ人たちとの出会い

京都と滋賀を行き来しながら過ごす大学時代に、素敵な大人や大学生にたくさん出会えた。私が普通に授業を受けて、部活をして、バイトをしていただけだったら多分会えなかった人たち。大学生2年の時、私が自分探しをしていて、少しアンテナを伸ばしていた時に足を踏み入れた環境から繋がって。

いろあわせの北川さん、なんかしたいの大樹さん、PaKTのしゅーしさん、そしてそこから派生して出会えた沢山の人たち。今まで持ち合わせていなかった価値観や場のつくり方、つくる側になりたいとひたすらに思っていたし、そんなコミュニティで働くについてひたすらに考えて、生き方についても考えた。周りの世界は凄くキラキラしているかもしれないけど、置かれた環境で咲ける人間になりたい、自分の考え方や行動次第で何でも正解に変えられる気付いたのもこの頃である。

京都から東京へ

結局私は大学卒業を機に東京に引っ越す事になった。地元での就活は上手く行かなかったけど、外の世界を見に行くのも良いかもしれないと思っていた。もしかしたら、帰ってくることはないかもしれないと感じつつもそれは先延ばしにした。大事にしたいことは人それぞれ、いろんなあると思う。その中でも私が大事にしたのは、とりあえず地方自治体で働くこと、自立すること(これだけでも一本noteかける)だったかな。だから今の選択肢を選べたのだと思う。

健康で文化的な最低限度の生活

金銭的な感覚で言うと、衝撃が大きい3年間だった。私の普通を揺さぶり続けた。もし大学まで行こうとするならば、社会に出る時に数百万円単位での負債を持って社会に出る覚悟をする。だからってお金がかからないように、選択肢を減らさざるを得なくなるのか。支援者の立場として思うのは、いくつかの可能性を提示してその中で本人が選ぶべきもの。ただ道は多く提示したいと思うのだ。

見てきた世界が普通を作る。

こうあるべきという考え方がそもそもあるかは考えようだが、自分の中で普通となり、道しるべとなる価値観は、見てきた世界や人との出会いの中でできてくるのだと思う。あなたと出会わなかったら知りようのなかった世界はたくさん存在する。出会った世界の中から、こうありたいを作っていく。私の場合、大学に行って当たり前という価値観も、体育会の部活で活動するのが普通という感覚も、そんな環境で活動する人々に出会ったから生まれたものであろうから。

そして今でも私は走り続ける。走るということは、サボりたいと思って数日空いてしまうことがあったとしても、私の中では日常化している。フルマラソンを走ることも、月に一回レースにレースに出ていたことも、私の中では何の違和感もなく行なっている。社会人になってランニング を始めて出会ったから人々の多くが定期的にレースに出るような生活をしていたから。(あ、でも走るのも様々でレースに出るのも出ないのも個人の価値観というのも気づいたけど。)でもこれを外の世界から見たとき、フルマラソンを走るのも一大事、継続して走り続けるのは凄いと、ランニング の世界の外側にいる人からしたら、それは普通なわけもなく、変人として見えよう。そう私は自分は普通の人間と思っていても、周りからしたら不思議な人と化すのだということを体現する良い例である。

普通をぶっ壊す新型コロナウイルス

2020年2月、新型コロナウイルスが流行はじめのころ、東京マラソンの中止を皮切りに、全国各地のマラソン大会が中止となった。私が出る予定としていた静岡マラソンも同様だ。(思うところは色々あり、これだけでもnote一本出来上がる。)
世の中の一大事であったり、人の命を脅かす疫病だから、社会とウイルスが共存できるようになるまで、感染防止に舵切られ、今まで普通だったイベントごとがスポーツ界やその他業界を問わず、縮小だったり、中止になるのは仕方のないことと頭ではわかっていても、どうも心が受け付けない。私は当時静岡マラソンのために自分で他の色んなことの優先順位を下げて、走ることに注力していたから。

走るというのは私の日常の中で大切なものだけど、割とオプションだと思っていた。走らなくても生きていけるから。けれど、会いたい人に会えない。こないだまで普通に会っていた人と会うことでさえ憚られる世の中が何より辛かった。一人暮らし4年目。有難いことに、心の中に人がいる生活をしていたからこそ、そんな大切な人に会いたいという気持ちと今まで当たり前に会えていたことがとても素敵なことで大事にしたいことだと気付かさせられたのだ。

改めて、普通とは何だ。

普通を辞書で調べると、『特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。』って出てきた。
これを見ても漠然としているのだけど、私にとっての普通はマジョリティーなのかもしれない。多数派であること、一般的に良いとされているレールの上で生きていくことなのかもしれない。なにそれ、面白くない。書いてて自分でも思う。だけど、だからと言って何かしたいことがあるわけでもないし、リスクを取れるほど勇気ある人間でもない。目の前の事を一つずつこなしていく、自分にできる事をしていく中で、自分にとっての普通の生活を築いていくのかもしれない。

何かしたいけど、なにをしたいかわからない。

普通とか、やりたい!とか、という感情に改めて向き合うようになったのは合同会社なんかしたいのイベントに顔を出すようになったからでもある。


大学生の時は教育環境を整えることで貧困の連鎖を断ち切りたいって事を思っていたこともあるし、大学を卒業間際は社会を知ることで社会に対して関わろうとする人を増やしたいとも話していた。だけど具体的にどう行動していくかが考えに及ばなくて、結局のところ漠然としたい事はあるけど動き方もわからないし、私なんかに出来っこないってなってたんだと思う。今でこそ、この感情をなんとなく言葉に出来ているけど、当時はこれを文字化する事もできなかったし、ただ絵空事のように存在していた。だけど、何もないところから一から作るのは世間的にはマイノリティーで普通ではないと思ってしまってたから自分で感情に蓋をしていたのだと思う。だけど、ゼロからイチを作り出す人たちに大学時代に出会えたからこそ、そんな世界があることも知れて良かった反面、眩しくもあり続けるのだと思う。

漠然としたやりたい感情に蓋をしてしまうと、蓋をしたものはなかったものになるから、新たにやりたい事探しを始めてしまうらしい。普通に社会人をしながらも、何かに目標を持って行動していきたいと、そんな感情の向けられた先が、私の場合はランニング で、ランニング を通してやりたい事を探し始めたのである。それもランニング を通して目標に向かって努力するカッコいい人たちに沢山出会えたから。

話がループしてきた。

結局私にとって普通はマジョリティーと化してるものなのかも知れないけど、そんなマジョリティーの価値観も出会った人々が作る。どんな人と出会って、どんな世界を見てきたか、その積み重ねで、生き方の見本だったり、ストックが溜まっていって、自分にとっての判断基準だったり、ありたい姿ができていく。

treasure every encounter with others.

人との出会いを大切に。大学の頃からこの言葉を私の座右の銘としていた。大学時代の当時よりこの言葉の重みを今は感じる。あなたとの出会いが、相手の世界観を作っていく、そして私の世界観も作っている。そしてこれからも、出会いが価値観を作り続け、普通をも作りうる。そんな感覚を心に置いて過ごしていくことで、また悩んだ時に立ち返る場所ができるのではないだろうか。普通を変えたいのか、打ち破りたいのか、大切にしたいのか、ここ問いも不毛かも知れないけど、やりたいと向き合う時の一つの切り口なのだと思うのであった。

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