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ららら:右体27

 トマト缶を洗うときに指の付け根を切った。何が起こったかよくわからない感じ、見ると手袋が切れていて、その向こうには指があるはずだった。あとから記憶を辿ってみると尖ったところを撫でるようにして手を動かしていたみたいだった。指は薄い傷ほどよく痛む、というほどには痛まない。二度目につくったトマトソースのパスタは一度目のよりも数段美味しくなかった。余った肉を入れて、コンソメを入れ忘れたんだった。

明けがたのユニットバスの浴槽に立って背中を死ぬほど洗った
/鈴木ちはね「スイミング・スクール」『予言』

どうしてか、行為の強度がほとんど掻き消えるほど風景となってしまったような記憶ばかりが頭のなかで揺れていて、想起する短歌もそういうものが多い。「死ぬほど」と言うときには死ぬわけでも死なないわけでもない何者かが浮かんでいて、背中を洗う自分の手つきが、頭の中でその誰かとぱちぱちと当たって音を立てるのだと思う。気の抜けたケガで、死がすこしだけ匂わないこともなかったときに、この歌の「死ぬほど」が想起されて、「明けがた」の感触に、死の気配を通り抜けた夜をあたらしく想像した。どれほど危なかったのかわからないが、この主体にとって、この明けがたがいま映ること、あとからこの明けがたのほうが想起されるということが重要なのではないか。

 会いたいひとに会いたい、というよりも、待ち合わせがしたい。心から。待っているひとのところへ、僕が向かっていくとき、その人を認める以前も、以後も、僕は澄ました顔でいる。この顔を最初に見せようと思っている。電車に乗っているあいだにその顔ができあがってくる。ところが、すこし離れてその人が僕に気づく。すると僕の顔はつるりと崩れてしまう。笑ってしまって、笑ってしまっているということをすこし隠したいので、変顔を狙ってしているようなふりをする、微妙な顔になる。そこでようやくぬるっとした一言目がある。会えたな、と思う。家を出てからその一言目までのあいだにしかいない僕がいて、その僕のことをあなただけがすこしだけ知っている。知っているというほどには知らないけれども、すこし、感じたことがある。そういう僕が存在している。待ち合わせがしたいと思う。

 待ち合わせがしたいと思う。あるいは僕が相手を待っているとき。僕は計画に合わせて行動したり、時間を守ったりするのは苦手だけれど、ある人とふたりで待ち合わせという場合には、それほど遅れない。ぎりぎりになってでも電車に乗れるとか、走れば間に合うといったことが多い。そして大抵相手が遅れていて、どれくらい遅れるかということがまだ確定していないまま僕は待ち合わせの場所に着く。このときの「あと5分」と言われて実際には15分待つこと、そして、この15分の感触が、どうにも好きだ。ライブに行って入場から開演までの30分にも似たものがあるけれども、でもまったく違っている。ほんとうに「来る」タイミングはまったく一つの瞬間しかないのに、それまでの15分間のうちのどの1秒も、まったく同じように、僕とその人のあいだを流れていて、僕だけがその川を想像する。まだ来ない。まだ、まだ来ないのだ。遅い、というよりも、「この・瞬間・に・来なかった」という一呼吸が絶えず過ぎていく。踊っている。踊らされている?それでもいい。とにかく、「この瞬間に来た」という瞬間が来て、それは、あなたが来たということで、もう時間は過ぎている。待ち合わせがしたいと思う。

風を浴びきりきり舞いの曼殊沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ
/吉川宏志『青蟬』
巨大なる会いたさのことを東京と思うあたしはわたしと暮らす
/北山あさひ『崖にて』

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く
/花山周子 『風とマルス』
君に会いたい君に会いたい 雪の道 聖書はいくらぐらいだろうか
/永井祐『日本の中でたのしく暮らす』

〈会いたさ〉なんてなくて、雪の道があるだけだろうと思ってきた、そしてその発見が永井の歌の切実さをぐっと押し上げているのだろうと思ってきた。でもこうしてみるといろいろな〈会いたさ〉があり、つまり不遜にも会いたいを〈会いたさ〉としてしまうことだってあるだろうって、それで本当でないというわけでもないだろうとも思える。〈会いたさ〉は一つではないがゆえに〈会いたさ〉たりえている。というよりむしろ、漠然と収縮する巨大なモザイクでさえあり、それは一つと数えることのできる何かかもしれない。〈巨大なる会いたさ〉はマリオを追いかけてくる闇雲みたいだ。

 〈落ちこぼれ〉の席があればすぐ取ってしまう。実際、取ってしまえば楽なことは多いのだけれど、そのポーズが、変わることのない心根と結びついていて、考えなくても作動してしまうから厄介だなと思う。つまりこれは、生存のための戦略というよりも、自己効力感をつねに最低に保つという漠然とした不幸感の巻き添えになって残った唯一の手だ。僕は行為的な現実を不幸と不能を起点にすることでしか構成できないみたいで、ここで使わず取っておいた力はどこに使うともなく、席に座ることの居心地の悪さ、緊張のうちに消えてしまう。〈落ちこぼれ〉なのはいい、人に舐められないための覇気を出すことはこれまでにちゃんと覚えたけれど、教室を出ると、他人は覇気ではなくて取り分で人を判断するようになる。ひとりの人として行為するということが、よくわかっていない。

コーヒーの店にずっといて すごくくさいってことがある 名刺みたいに手を拭く
/込谷和登「日」『上智詩歌』第二号

あるある。たまにあるってより、「けっこう、あるかも」くらいある

疾走感があるのに遅い なんだろうこれ 遅い疾走感がある
/青松輝『4』

なんだろう。「何を言っているかわからない」と言えば言うほどわかるし、でも分かり切るわけがないし、どんどん味がしてくる。動いている。言いたげな歌でも、その内容が分からなかったらどんどん面白いのかもしれない。

アメリカの空っぽい晴れ 高速をみながら息を吐く息を吸う
かっこいい名前なのにね 遅い馬 なのにじゃないね かっこいいだね
/岡野大嗣「ディスタンス1」『音楽』

これは分からないでもない。けど、動いていなくて、最初から分かっているものを取り出す行為な気がするんだけど、でも、決着している種類のところからわざわざこうして言いたいことのように取り出すのは難しい気がする。

 その人が欲しくなる、ということがあって、そういうのはだいたい広く、恋と呼ばれるものに入るのだろうが、身体がどんな状態にあってというのを横に置くとして(置けないが)、その人と自分の夢の質が、どことなく似ているとき駆られる。何を差し置いても近づきたくなる。

 似ている人とまったく違う人どちらに惹かれるか、という二択は仕組まれた罠だ。すでに仲良くなりつつあるとき、僕はその人と自分とがどう似ているのかを理解し始めている。それが、ある閾に達したとき、別のことが起きる。それは、その人を面白く感じるというよりも、その人を信じている状態で、この信頼は、次第に「あなたがわたしであること」に近づく。似ているところの細部を強力に取り出すためには目を凝らす必要があり、そうするとしばらく自分との本質的な差異はみえなくなる。自覚として、この期間にいちばん、僕はその人のためになることができる気がする。それは、熱心に与えられるのは熱心に求めていることしかないからで、僕の場合はさらに、その人の細部を観察することではじめて自分の内部にも微細な欲望があることに気づくから。見える限りの細部がみえたら、仲良くなる前のようにもう一度、その人は自分とは違った人に見えてくる。そうしてしばらくすると、相手も僕を適当に変わった人扱いするのをやめて、すがすがしくて肯定的なドン引きみたいなのをしてくれるので、そこで新しい関係が始まる。そこで生じている心地よさのことも、信頼と呼ぶのだろうと思う。

少ししやべりすぎた気がする、乗せられてゐる甲板の高すぎる船に
/岡井隆『ネフスキイ』(「十月、月光と花梨」)

何度も同じものを詠むというのもそういうことかな。今は別の人が同じものを詠んでいるのを並べて読んで喜んでいることが多いけれど、それは、言葉から引き出される現実の差異にはまったく注意を払えていないということになるだろう、あるいは。

この足元のおぼつかなさが、遅れてやってくる。短歌をつくって、すぐにではなく、一年や二年という、見方によってはあっという間の、しかし今の僕には待てないくらいの時間で。

sosohungrywithb@gmail.com

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