028 築地に毎日40年通いました

築地市場ができたのは1935年。以来、九条Tokyoがオープンした2018年まで、83年間、東京の台所を守り続けたことになります。

魚だけではなく、野菜市場もあって、ボクが初めて築地に足を踏み入れたのは野菜市場のほう。魚を買いに行くことになったのは、店をオープンする際、外国人旅行客向けに和食体験をしようと思ったからです。

プロと一緒に行って、旬の魚を目利きしてもらって、店で捌いて食べる−−なんてゴージャスな日本体験だと思いませんか。

一緒に行ってくれるのは、魚屋歴40年の栗原さん。現役時代、市場が開いている日は毎日、築地市場に通ったというプロ中のプロです。

共通の友人が紹介してくれました。初めて会ったのは、代々木にある老人施設の地下。月に一度、築地で仕入れてきた魚料理を振る舞うボランティア活動をしているというので、会いに出かけました。

そのキップの良さ、偉ぶったところのない、シャイなところも含めて、こんな人になりたいという、ボクの将来のモデルのような人でした。

これからやりたいことを話すと、二つ返事で引き受けてくれました。まだ九条Tokyoがどこにオープンするか場所が決まってもいないのに。

朝、ボクが始発で市場に着くと、車で来る彼は、いつも正面玄関で待っていてくれました。残念ながらボクはそれ以上早くは着けないので、いつも人生の大先輩を待たせることに。電車の中を走れば早く着けるのなら、毎回走っていたことでしょう。

2回目だったか、彼があまりに早く市場内を歩くので、はぐれてしまったことがあります。慌てて電話すると、どこにいるの?と訊かれ、迎えにきてもらったこともあります。市場内での彼は水を得た魚のよう。

「いや、引退してもう20年くらいにはなるよ」

いろんな生徒を体験で迎えましたが、台湾の鮮魚料理店で働いていたという青年と、香港の回転寿司店で働いている女性の二人が来てくれたことがありました。

青年のほうは、もう台湾で学ぶことはないと仕事をやめ、日本の調理学校で学んでいると言います。女性のほうは料理人になりたいけど、ホールしかやらせてもらえず、ひそかに自分で特訓しているとか。

そんな話を聞いて、栗原さんの厳しい特訓が始まりました。外国人旅行客向けの楽しい思い出体験会とはまるで違い、指導ぶりにも熱が入っています。

彼は中学校を卒業すると、住み込みで魚屋に奉公に出ました。10年ほどたって、もうそれ以上そこでは学ぶことがないと、独立を決めたそうです。

時代も良かったのでしょう。お前ならとお金を貸してくれる人も現れ、自分の店を持つと、休む間もなくひたすら働いたそうです。

「お金を返さなきゃ。それだけ考えていたよ」

そんな自分を見るような気がしたのかもしれません。体験後、二人の様々な質問に答えた後、彼はポツリとボクに言いました。

「いい仕事をしてるねぇ。こりゃ、やめられないよ」

最大限の褒め言葉ですね。

でも、叱られることも多々ありました。

「どんな魚が好きか」と訊かれ、「マグロなら赤身」と答えたまでは褒められたのですが、「一番好きな魚料理は干物。アジの一夜干しか、エボダイ」と言った時は、絶句されました。

「それは、新鮮な魚が食べられない人ようの料理だよ。それに、エボダイなんて日本人は食べない」だって。

エボダイ、好きなんだけどなぁ。。。

一度、前の車にぶつかりそうになって、以来、市場から店へのドライブはボクが運転させてもらうことになりました。でも、市場まで来るのは彼任せです。ちょっと心配でした。

そうこうするうちに、市場は築地から豊洲に移り、「市場で朝仕入れた旬の魚を捌いて料理しよう」体験も1年を迎えました。

「そろそろ引退させてもらおうかな」

彼からそう言われた時、ボクはそう言われる日がいつか来ることを予感していた気がします。終わってほしくない夢ほど、唐突に終わりがやってきます。

引き留めたい気持ちはいっぱいあったのですが、自宅から市場まで一人で運転させていることを考えるとねぇ。

ホヤ嫌いのボクに、ホヤの天ぷらを作って食べさせてくれ、ホヤ好き(天ぷらだけですよ)にさせてくれたのも彼です。

毎回、市場でマグロを1kg買うのですが、マサチューセッツ沖、南アフリカ、インド洋と、マグロはまさに回遊魚だということを教えてもらったのも、その体験があればこそ。

職人って、どうしてあんなにキップがいいんでしょう。ボクは飽きっぽいから絶対職人にはなれないけど、職人という人種に魅かれます。だって、毎日40年同じところに通って、自分を磨く。そんなことボクには想像もつかないよ。。。

コロナ騒動がなかったら、ボクが車で迎えに行ってでも、時々、彼に体験を頼むのになぁ。



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