085 従兄のリュック

従兄が大きなリュックを背負って、山歩きのあと時々店にやってきてくれます。

「今日はなんの果物を持ってきてくれたの?」

庭に植えている果物を、よく持って来てくれるのです。それも山歩きのついで、と言って。早朝から午後まで山を歩き回ったあと店に来てくれるってことは、朝からずうっと、果物があの大きなリュックに入っていたことになります。

呆れてものが言えないとは、このことです。究極のマゾ?

「いや、冬山に登る時はテントやら何やら担いでいくから、もっと重いよ」
いつもそうですが、彼は事実だけを淡々としゃべります。

従兄は60歳を過ぎてから山登りを始めました。既に冬山も登れるA級ライセンスを持っているそうです。そんな資格があるなんて知りませんでした。

ボクより10歳も年上ですから、従兄といっても子どもの頃一緒に遊んだ記憶はありません。家族の事情で小学校5年の時、ボクの近所に引っ越してきました。

彼は中学校を卒業すると、住み込みの丁稚奉公に。おそらく、そういう時代を過ごした最後の世代かもしれません。
漫画『三丁目の夕日』の世界と言えば、わかりやすいでしょうか。

この国に高度経済成長というものがあって、頑張れば誰もが豊かになれると思っていた時代。思い返せば、その成長が絵に描いたようで、かつ長すぎたから、いまだに成長だけが幸福の源で、世界で何番目にいるかどうかにしか価値を見出せないのが、この国の問題なのかもしれません。
あらゆる点で、とっくに先進国というにはほど遠い後塵を拝しているというのに。

新しい酒は新しい皮袋に。
新しい船を動かせるのは古い水夫じゃないだろう。

そう、古い畑の土は根こそぎ掘り返して、新しい堆肥を入れないといけないように、もう60歳以上は主要な立場から即引退すべきですね。

あ、ボクも従兄もそっちになっちゃう。。。

その日、従兄が持ってきてくれたのは、果物ではなくて、渡辺一夫全集の3冊でした。

「果物も重いけど、本はもっと重くて、今日は3冊しか持ってこれなかった」

今どき、渡辺一夫全集を読んでる人っています?
渡辺一夫の名前すら知らない人がほとんどでしょう。

ボクだって、昔読もうとしたんですよ。でも、挫折しました。あんなに尊敬している大江健三郎さんの師匠にあたるフランス文学の研究者として有名なんだから、一冊くらいは読破しておきたかったのですが。

フランス文学といえば、思い出す光景があります。
ボクの母校はもう失くなってしまった東京都立大学で、大学1年の時には家庭教師や学習塾のアルバイトは学校から紹介してもらえませんでした。当時、インターネットはもちろんですが、アルバイトニュースもなかったなぁ。
仕方なく、ボクは大学構内にあったアルバイト紹介掲示板で見つけた寿司屋で、週一回バイトをすることにしました。

これが、超楽しいバイトでした。メインは自転車での出前の配達なのですが、土地勘のないボクが道に迷っていると、大将が自転車で追いかけてきて誘導してくれました。
一言も小言を言わずに、ですよ。

その大将が、休憩時間にフランス文学を読んでいたんです。アランの『幸福論』とか。
いま思い返しても、なんと上品な生き方でしょう。人生のお手本みたいな人ですね。

父親が始めた寿司屋を継ぎたくはなかったけれど、その見返りに慶大の仏文科に行かせてもらったそうです。

ボクがバイトしていたのは水曜日で、木曜が定休日でした。きっと、水曜が築地市場の休みだったからですね。

水曜の夜、店を閉めて掃除も終わると、大将がカウンターに座らせてくれて、好きなネタを頼んでいいよと言ってくれることがありました。
将来の役に立つだろうからと。

明日はお休みですから、どのネタがそろそろ食べちゃっていいかの見極めをボクに教えようとしていたのかもしれません。
ボクは寿司屋になる気はなかったですが、客としてカウンターに座った際、どれが新鮮か目利きできる程度になれと教えてくれようとしていたのかもしれません。大人のふるまい、、、そんな小難しいことは一言も言いませんでしたが、ボクがこれと言っても、それはまだダメとか、いいのを選んだねとか言ってくれました。

大江健三郎さんは、確かディーセントという言葉を使って、渡辺一夫のことを最も良識のある上品な人間と評していた気がします。

その寿司屋の大将だって、ディーセントですね。仏文が好きな人はみんなそうなんでしょうか。。。んなことあるわけないですね。

でも、従兄が3回に分けて渡辺一夫全集を運んで来てくれた時、ボクはそんなことを思い出しました。大学はもう失くなってしまったけど、仏文つながりで、懐かしい寿司屋の家族とともに。

えっ?
大学は復活したんじゃないのかって?

いや、あれは前の都知事(政治家だったことはあるけど、一度も文学者ではなかったはず)が文学部をなくしてしまった別の大学のことで、これまた政治家だけの現知事がその意趣返しに名前だけ戻しただけの学校です。
ごめんなさい、今在籍している学生や、首都なんとか大学の卒業生にはなんの関係もない話ですが。。。

そういえば、かつて都立大と首都大の卒業生の合コン(といっても、男女のお見合いパーティではなく、同根だけど大学名違いの卒業生の集まり)をやろうと思ったことがあります。誰も集まりませんでしたが。。。

話戻って、従兄が持ってきてくれた果物の中には、フェイジョアという珍しいものがあって、この果物の上品で美味しかったことといったら。

九条Tokyoで毎月2回、無農薬野菜を発注時に1個からでも共同購入できる【キャロット倶楽部】で協力してもらっている寄居町(埼玉)の井伊農場でも、果樹園にフェイジョアを植えてくれたそうです。それが実って買える日を楽しみにしています。

一度、従兄が庭で獲れたブドウでワインをつくって持ってきたことがあります。
それが、超美味しくって、オリジナルラベルでもつくったらとすすめました。ボクが買い取って店で出すよと言ったら、本当におしゃれなラベルを貼りつけた一升瓶を持ってきたことがあります。

これが、超まずかった、というか「お酢」でした。
二人で大笑いしたものです。
「やっぱ、プロは違うねー」
でも、1本目は本当に美味しかったんですよ。

従兄が持ってきてくれた渡辺一夫全集は、13巻しかありません。最後の14巻は誰かに貸したまま戻ってきていないそうです。

ボクは慌てて、谷中7丁目にある「古書 鮫の歯」に走りました。
以前、そこに渡辺一夫全集が置いてあるのを見つけていたからです。いつか、暇になったら買い揃えたいと思っていたのです。たぶん、生涯読むことはないでしょうが、ボクが亡くなった時、渡辺一夫全集があるんだ、と思ってもらえたらカッコいいでしょ。。。

渡辺一夫全集があるだけで、ボクもディーセント会員の仲間入り?

その動機、不純だぁ~。。。

話戻って、ありました、「古書 鮫の歯」に。しかも、バラ買いokですって。
ボクは14巻だけ買い求めました。
うれしー。

こうして、店のボクの本棚には、いま渡辺一夫全集すべてが揃っています。
珍しいでしょ、渡辺一夫全集が揃っているバルなんて。

読みたい人は、いつでもどうぞ。

どうか、手に取る人は、ボクの仏文=ディーセントなイメージのまんまの人であるといいのですが。。。

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