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友だちのうちはどこ?

アハマッドは学校に行くと、怖い先生が待っている。例えば、先生の一言目は、静かにしなさい、先生が遅れているときは勉強しなさいとひたすら叱責、先生の言うことは絶対。そんな中アハマッドの横に座るネマツァデは、宿題を違うノートに書いてしまう。それを見て、先生は激怒。「次は学校のノートに書かないと退学」と言われる。

アハマッドは家に帰る、宿題ノートをバックから出すと、どういうことか、ネマツァデのノートもバックに入っていることが発覚する。焦るアハマッドは母親に相談するが、「宿題するまで、遊ぶのはダメ」どんなに母親にネマツァデに返すことが大事だと説明しても、母親は許してくれない。困ったアハマッドは隙をみてノートを持って家から出る。アハマッドが知っていることはネマツァデがいる場所、ポシュテという遠い町であることのみ。アハマッドはポシュテへのジグザグ道へと走り始める。


1948年、アッバス・キアロスタミはイラン人監督の巨匠である。イタリアネオリアリズムで有名な自転車泥棒を連想されるこの映画は、ふんだんにマジックがかけられている。なぜここまでシンプルな話(アハマッドがネマツァデにノートを返す)に釘付けして見てしまうのだろうと思うのだが。一つは、キャラクターのリアリティある演出ではないかと感じる。驚くのは、 全員が演技未経験の素人。そして次に常に続くサスペンスと言っても良い、アハメッドが不安の中友達を探すということ、そして新たな町に行く不安。新たな街での迷路のような感覚。それは誰もが経験をしたことがある感覚ではないかと思う、だから観客達はアハマッドを見てて応援するのだと思う。キアロスタミ監督はロケーションをもキャラクターにする。象徴的なジグザグ坂道しかり、ポシュテの街の風景、画の力というものがある。そして表現する社会、ここで出てくる人間は皆何らかのアクションをしている、大人は仕事、子供は大人の手伝い、アハマッドが去っても、そこに存在している人間達が確かにある。

この映画の魔法を是非拝見してほしい。最後にアッバスキアロスタミの言葉引用する

私はあなたの思考から始まって、スクリーンで終わる映画を作りたい。

実に映画のエッセンスを語っているのではないかと思う。

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