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幽霊の登壇——石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」をめぐって

本稿は、WANがサイト上に掲載した石上卯乃のエッセイ「トランスジェンダーを排除しているわけではない」を読んだ幽霊によって執筆されました。このエッセイの概要、それに対する批判、WANの対応の問題点をまとめています。幽霊も登壇します。

1.石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」の概要

2020年8月12日にWANに掲載された石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」は、女性の権利や安全の確保を訴える内容のエッセイです。

私たちは、女性の権利や安全に関心があります。
出典:石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」http://archive.is/Lld4C

石上はトランスジェンダーを排除したいわけではなく、トランスジェンダーとその支持者たちに対してたぶん、ほんの少しの節度を求めているだけなのです。

私たちは、トランスジェンダーの人たちとも、平和的に共存したいと思っています。ただほんの少しの場所、トイレや風呂、更衣室、レイプクライシスセンターなどのシェルターでは、安心して過ごせるように、安心・安全という問題意識を理解してもらい、どうすればいいのかを一緒に考えて欲しいと言っていただけなのです。
出典:石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」http://archive.is/Lld4C

だって、トランスジェンダーはちょっと図々しいと思いませんか? トランスジェンダーに脅かされない安全なエリアを確保したいだけなのに。どうして女性の安全を確保する必要性を強調しただけで、「差別」なんて言われなくちゃいけないんでしょう?

「安全の側面から、女性専用スペースで私たちの安全を保障して欲しい」と表明することが、トランス差別に当たると、私たちは言われてきました。
出典:石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」http://archive.is/Lld4C

石上にとってトランス女性は性犯罪に対する不安を掻き立てるようです。「トランス女性」が「女性」の安全を脅かしているという前提のもとに、そのような「きわめて妥当な不安」を表明する権利が「差別」という言葉によって剥奪されてしまうことを嘆く石上のエッセイはトランスフォビアに貫かれています。

2.石上の論考に対する批判

石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」は、トランスジェンダー排除を正当化しようとするテクストであるとして既に複数の論者によって批判されています。WANには2020年8月22日現在、石上のエッセイを受けて執筆された3つの論考が掲載されています。各論考はそれぞれ、石上のエッセイに批判的な見解を提示しています。

伊田久美子の「「女性に割り当てられた公的空間」とは何か」は、石上のエッセイにおいてトランスジェンダーが占める位置——あるいは占めない位置——を、男性に対して歴史的に女性が占めてきた位置——あるいは女性が占めてこなかった位置——と重ね合わせます。石上のエッセイに対する伊田の懸念は次のように示されます。

「排除ではない」と言いながら実際は極めて強い排除の意図が感じられる
出典:伊田久美子「「女性に割り当てられた公的空間」とは何か」http://archive.is/w15uS

岡野八代の「「トランスジェンダーを排除しているわけではない」が、排除するもの」は、石上のエッセイの内容と叙述のスタイルを丁寧に検討し、自身のパーソナルな体験を交えながら石上のエッセイがもたらす差別的な効果を論証しています。岡野が控えめに指摘するのは次の事実です。

トランス女性に対して、性暴力の被害にあいやすい女性たちのために安全を訴えることは、そのレトリック上の効果として、トランス女性が女性の安全を脅かす存在であるという含意が避けられません。
出典:岡野八代「「トランスジェンダーを排除しているわけではない」が、排除するもの」http://archive.is/CNFiI

遠藤まめたの「やっぱりトランスジェンダーを排除しているのでは?」は石上のエッセイの論理を追いながら、トランスジェンダーの生活実態とかけ離れた憶測やデマが、トランスジェンダーの排除につながることに注意をうながしています。さらに、遠藤は石上のエッセイを掲載したWANに苦言を呈することで論を締め括っています。

「議論の場」によって脆弱なコミュニティがさらに周縁化されることのないよう、言論空間をどのように設定し、プラットフォームを維持するのか内部でぜひ検証いただくようお願いします。
出典:遠藤まめた「やっぱりトランスジェンダーを排除しているのでは?」http://archive.is/JUqkR

トランスフォビアを穏当な言い回しというオブラートにくるみ、冷静な被害者を装いながら排除を正当化する石上のエッセイが差別的であることは論を俟ちません。

3.WANの促す議論は誰を利するのか?

さらに問題なのは、WANというプラットフォームがあからさまに差別的なエッセイを掲載してしまったことでしょう。

WANサイトの編集方針のひとつとしてサイトには次の文言が掲げられています。

全カテゴリーを通じて、盗作、名誉毀損、人権侵害、差別的な記述、品格を欠く記述や、商用だけを目的とする記事は、掲載しません。
出典:WANサイト「投稿規定」http://archive.is/NObjR

この記述を見るかぎり、石上のエッセイを掲載することはWANの編集方針に反するものだと判断できますから、当然そのような批判の声が上がります。ふぇみ・ゼミ×トランスライツ勉強会は、上記の投稿規定やWANの定款を根拠に、石上のエッセイを掲載したWAN編集担当に対して次のように質問を投げかけています。

これらの方針から言ってトランスジェンダー排除を正当化するような記事や、トランスジェンダーに対する差別的な認識や表現を含む記事は掲載してならないと判断できますが、この点についてどのように認識しておられるのでしょうか。
出典:ふぇみ・ゼミ×トランスライツ勉強会「ウィメンズ・アクション・ネットワークへの公開質問状」https://femizemitrans.blogspot.com/2020/08/blog-post.html

差別的なエッセイを掲載していると批判を受けてWAN編集担当が発表した見解は次のものでした。

今回投稿された石上氏の主張について、改めて議論することはこれからの女性運動のあり方にとって意義があると考え、投稿を掲載しました。〔……〕多様な意見に開かれた熟議の場を提供することを目指しています。
出典:WAN編集担当「投稿「トランスジェンダーを排除しているわけではない」について」http://archive.is/owcAK

WAN編集担当は、石上のエッセイは差別ではなく、ひとつの主張であると判断したことを明らかにしています。さらに、「多様な意見に開かれた熟議の場を提供する」というWANの使命を強調することで、WAN編集担当は、プラットフォームは透明で中立的な場であるという錯覚を醸成しながら、差別とそれに対する批判を並列させることで、トランスフォビアに場を与えています。石上のエッセイを掲載するというWAN編集担当の判断そのものが差別の容認をもたらすことになっているのです。しかし、WANを含めあらゆる場が決して中立ではありえないということを忘却し/させようとしつつ、トランスフォビアをひとつの意見として中立的に取り上げるというそぶりそのものの政治性について、WAN編集担当は等閑視を決め込んでいます。

WAN編集担当が表明した石上のエッセイに関する見解の結論部は次のようになっています。

何が差別に当たるのかの議論も今後深めていきたいと考えています。
出典:WAN編集担当「投稿「トランスジェンダーを排除しているわけではない」について」http://archive.is/owcAK

個人的には、この見解には人生で6922回目のたいへんな衝撃を受けてひっくり返りかけましたが、なんとか体勢を立て直し、パソコンに向かってみたというわけです。

ニュートラルな議論の場を提供するとうそぶいたWAN編集部は、トランスジェンダーに関する言説の妥当性を見極め、どの意見が聞かれるに値する意見であり、どの意見が差別的で耳を貸すに値しない意見なのか、冷静に議論しようと呼びかけています。

しかし日々の生活の中で困難に直面し、常に評価に晒され、説明を求められるトランスジェンダーの現実に目を向ける気はさらさらなく、トランス女性を性犯罪と無反省に結びつけて差別を煽る「意見」を掲載して議論を呼びかけるWAN編集担当はWANがトランス排除を容認することを示しています。

清水晶子はWAN編集担当の見解について次のように指摘しています。

今回のWAN編集の判断は、そもそも社会的な排除と差別を受けている少数者の生存と尊厳を「議論する」こと自体に関して倫理的に問題含みなのは言うまでもありませんが、それに加えてネットポリティクスのあり方という点から見ても、非常に後ろ向きで問題の大きいもののように思います。
出典:清水晶子「「熟議の場を提供する」責任について」https://www.facebook.com/notes/shimizu-akiko/熟議の場を提供する責任について/10207621650336125/

既に清水を含め複数の論者が指摘していることですが、WANのプラットフォーム上で石上を批判することは「議論をしよう」という差別的な前提を容認してしまうことを結果します。議論の必要などありません。

4.生理のある男性あるいは招かれざる幽霊

石上のエッセイ「トランスジェンダーを排除しているわけではない」では、作家J.K.ローリングが、「生理がある人」という表現を揶揄し、批判に晒されたというエピソードが紹介されています。「生理がある人」を「女性」と呼べないなんて……トランスジェンダーが個人の自由な言論を奪っている典型例というわけです。

Sex is real、生物学的性差は存在するし、生理のある人を女性と呼べないのはおかしい。ローリング氏がその考えを表明しただけで、彼女は仕事をキャンセルされ、彼女の物語を演じた俳優たちから見当違いの言葉で批判され、本当にたくさんの誹謗中傷の言葉や画像を送られています。
出典:石上卯乃「トランスジェンダーを排除しているわけではない」http://archive.is/Lld4C

ところで、私は生理がある男性です。私はどのトイレに入るべきなのでしょうか。どこで更衣すべきなのでしょうか。私の場所はどこにあるのでしょうか。

あ!たいへん失礼いたしました。入らせていただいてもよろしいでしょうか?

私は礼儀正しい幽霊なのです。お招きお待ちしております。


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