見出し画像

noteを書くからといって何か発信してる気になるな、という忘れたくない釘の話

はじめに

「人前で話すのが苦手だからってnoteにそれっぽいこと書いて、それで何か主張したつもり、発信者のつもりになるのってちょっと違うじゃん。」

ぐうの音も出ないな、というのがその言葉を聞いた時の最初の感想でした。
当時も今も尊敬している、たった一つ年齢が違うだけなのに会社を経営して結果も出している憧れの先輩の言葉。

自分の得意不得意とかモチベーションの有無とか、そういうふわっとしたものを根拠に「できません」「やりません」を連発しているとあっという間に会社が傾きかねない、組織の中でもそのような最も厳しい立場で日々戦っている彼女だからこそ出たシビアな言葉なのだろうな、とも思いました。生々しい現実社会の中で、文字通り体当たりで売り上げを作りながら、リアルガチな発信者として駆けずり回る日々を送っている人です。

私が聞いたのは半年以上も前、しかも私に対して発せられたものではないにもかかわらず、いまだに自分の中に深く刺さって抜けないこの言葉について考察することなしにnoteを書き始めるのはさすがに違うだろうと思い、一番最初にこのテーマで書くことにしました。

この言葉について、なぜ大切にしたいと思ったかを
一句?一文節?ずつ区切ってまとめていきたいと思います。

「人前で話すのが苦手だからって」について

初っ端ですが少し話題からそれます。

個人的に、人前で話すことが苦手な人はかなり多いのではないかという実感をもって日々を生きているところです。(実際のところとどれくらいギャップがあるのかは測りかねています。)

私自身は人前で話すのが苦手ではなく、友達はもちろん初対面の人とお話しするのも好きなほうなのですが、かといってそれが必ずしも良い特性というわけではないのだろう、とも思っています。
私の場合、人前で話すことをそれほど苦痛に感じないのは、「楽しい時間を提供しよう」とか、「相手にとって有意義な時間にしよう」などといった他者貢献意識がスポーンと抜けているせいでプレッシャーをあまり感じていない、というのが一つ大きな要因であるような気がしているからです。

逆にこちらとしても、相手に対して、楽しませてほしい…とか、どうせならためになる時間にしてほしい…とかいう発想がありません。こっちはこっちで勝手に楽しんでいるからできることならリラックスして好きに話してほしい、結果として楽しくなかろうが、無意味な時間になろうが、それはそれで最高じゃないか~人生における豊かさは無駄から発生するのだよ~~というスタンスです。無駄is至高。かつ少々無礼なことを言われても問題ありません、へっぽこで愚鈍気味、話すのは好きだけど決して上手くはない私が迂闊を踏んでないわけがないのでお互い様です。

でもきっと、人前で話すのが苦手だという人の中には、「不快な思いをさせていないだろうか」「みんな楽しめているだろうか」「変だと思われていないかな」というところまで心が行き届いてしまうという特性ゆえの苦手意識を持っている人もいるのではないかと思います。私の身近な人たちも、そのように打ち明けてくれることがあります。なんかカロリーを使うんだよね、という風に。

件の発言に戻りますが、発言主である彼女も、多分人前で話すのが苦手だというその特性をとがめるために「だからって」という接続詞を付けたのではないように思います。
もちろん、人前で話すのが苦手なので営業はできません~とか言ってるとその先に待っているのは倒産だったりする、というシビアな社長人生を送っている彼女からすると、いささか歯がゆいのかもしれませんが。

とすると、先輩が一体どういうことを言いたかったのか(あの圧倒的な納得感は何からくるものだったのか)をきちんと言語化するには、「だからって」以降の文がかなり大事そうですね。

大学受験のセンター国語小論で、本文中の接続詞に印をつけ、その後ろにある大事な情報を読み取りやすくする…というようなテクニックを教えてもらったのを思い出します。なんか実生活に役立つの?リアルな会話にはペン入れなんてできませんけどぉ、などと思っていましたがつまりはこういうことだったのかもしれません。学生時代まじめに勉強しときゃよかった。

「noteにそれっぽいこと書いて」について

それっぽいことについての認識のすりあわせ?(コンセンサスという言葉を使うのはキャラ的に恥ずかしかったです)は完全にできないにせよ、
なんとなくのニュアンスは彼女と私の間でずれていないような気がします。

日記とかメモとか、そういった自己完結的な性格が強いものといいうよりは
どちらかというと、誰かと分かち合いたい情報で、欲を言えば共感してほしい内容、もう少しかっこいい言い方をすれば主張に近いもの。
加えて彼女の「っぽい」という言葉に含まれたトゲ的エッセンスを必要以上に丁寧に抽出するのであれば、そこに、文章をしたためる自分に対する「酔い」が見て取れるものなどがそこに含まれるのかなと思います。考えや想いを世に出すことそのものよりも、その行為をしている特別な自分に浸っていることによって生まれる不自然な「楽しそうだね」感。自己満足が透けて見える必要以上のヒロイズム。それらすべてによって醸し出される薄っぺらさ……。そういうクサさを聡明な先輩は敏感に嗅ぎ取り、表立って責め立てはしない代わりに「っぽい」という言葉でくくったように思います。

ここで再び例の文言を引用します。

「人前で話すのが苦手だからってnoteにそれっぽいこと書いて、それで何か主張したつもり、発信者のつもりになるのってちょっと違うじゃん。」

この言葉を半年間も覚えていて、かつ忘れたくないと思っているのは、おそらく私自身がうっかりすると軽率に自分に酔ってしまう側、すーぐどこかで見たような薄っぺらい主張を懲りずに繰り返す側の人間だからであるように思います。

「それっぽいこと」を書いて反応をもらうことで満たされる承認欲求、集まった似たような境遇の人たちを見て「やっぱり自分は間違ってなかった」と自信を取り戻すあの感じ、または逆に「こんなことを考えてるのは自分だけかも……」という勘違いの高揚感。全部覚えがあるし、めちゃめちゃ気持ちがいいことも知っています。
それに、自己満足は自己満足でいいじゃないか、とも思っています。
ペンと紙があれば、インターネットとPCがあれば手軽に満たせる自己実現欲求。いっそめちゃめちゃ健康的な気さえしてきます。最高。

でもこうやって自分の立場をよくよく考えてみると、逆に「なんて失礼な!」という風に反発する気持ちが生まれても仕方がなかったような...?
なんで「なるほどぐうの音も出ませんねぇ」となってしまったのか…

読点(、)以降の文を考察してみたいと思います。

「それで何か主張したつもり、発信者のつもりになるのってちょっと違うじゃん。」について

主張したつもり、発信者のつもり…という言葉には、
「そんなのは主張/発信者とは言わなくね?」というようなニュアンスが隠されているような気がします。

では、真の発信者とはどういったものなのか…これについて考えてみたところ、「リスクと責任を背負って、泥臭く何かを主張する人」なのかもしれないという考えに至りました。

つまり、面と向かってだと言えないことをnoteに書いたことで発信したつもりになる、というのはとってももったいないんだよ
ということを彼女は言いたかったのかもしれないな、と思います。

非対面で匿名性も高い、ある程度守られた場所からぬくぬくと気ままに独り言を垂れ流しているというのは発信ごっこであって発信ではない。コミュニケーションのリスクをかぶってから堂々と「発信者」を名乗りな、というのが先輩が本当に言いたいことだったのだとするならば、私のような人間、こうやって文章を書くことでいともたやすく「何者か」になったような錯覚をしてしまうような人間にとってはこれ以上ないくらい必要な「釘」だったように思います。だからこそ、彼女の言葉に目が覚めるような思いがしたのかもしれません。
ストイックで努力家で、何かあったときに真っ先に泥をすするような彼女らしい言葉です。

とはいえ釘が刺さったままnoteを書こうとは思う

理由としては、それが発信ごっこだったとしてもその「ごっこ性」を知覚したうえで、やっぱり一旦は疑似発信者をやってみたいなと思ったからです。
ただ、彼女の言葉を聞いて納得してしまった以上、無邪気にnoteユーザーになるということは難しくなってしまったので、まずはその言葉の意味をかみしめるところから。

それに、「発信者のつもりになるなんてちょっと違う」という意見があることや、そうやって自分の想いを発信することを「お気持ち」と言って揶揄する人たちがそう少なくないことを知りつつも、私自身まで「ちょっと違う」と言って今noteを楽しんで書いている方々を遠巻きに見るような人生を送るのはやはりもったいないような気がしているからです。私個人からすると、皆さん嘘偽りなく楽しそうだし、noteの内容も非常に魅力的です。

こんな経緯で出来上がったこの記事が丸ごと、罪滅ぼし的な意味が込められた壮大な自己満予防線になっていることとか、自意識過剰を世間様に晒すことになりそうだということなどにうすうす気が付きつつも、そんな自分の臆病で卑怯な部分を改めて認知できるのも、それはそれでまた文章を書く醍醐味かもしれないと思っています。「自分の特性を改めて知る」という楽しみでしょうか。

ひとまずは釘が刺さったままnoteを書こうと思います。そして、広い海へボトルシップを無責任に投げ込んだような気楽さを享受しながらも、「本当に『何者か』になりたいんだったら真正面からリスク被ってやりな」という厳しくも温かいメッセージを忘れることなくいられたらいいなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?