おめでたくなくてもいい。

誕生日おめでとう、と素直に言えない。

それは私自身が言ってほしいと思って育ってこなかったからだろうけれど。
なぜなら、誕生日が夏休み真っ只中だから。日にちも曜日も忘却の彼方にいる頃、自分ですら知らなかった誕生日のお告げを他人からくらうと、只々驚き、不信感にも似た緊張を得る。今日がその日だという感覚は、まるでない。

自分がそんなであるから、誕生日は祝うものだ、という概念がない。きれいに絞り出した歯磨き粉をその美しい形状のままボタリと音立てて床に落としてしまうような、一種歓喜出来うる墜落だ、と見受けられるかもしれない。それほど鮮やかに、誕生日おめでとう、の概念がない。

それに、私は人に向けてその言葉を発するのが不安でもある。
誕生日おめでとう、は暴力じゃないか。
おめでたくて幸せで良い日である、ことを強いるようで、なんだか聞き苦しくはないだろうか。言われた側は、全然おめでたい気持ちでなくとも、ありがとう、の決まり文句で返すしかやり場がない。
私が身勝手に誕生日おめでとうを吐き出すことで、死に近づくことが明確なそのカウントダウンを、無理やりハッピーなものに凝り固めようとしているのではないか、と。

あけましておめでとうございます、だって同じことで、おめでたくなければならない、という恐怖がそこにはあるような。
けれどおめでたい空気に存する人々は誰も何も気にしない。おめでたくないものは不純で、排除されるべきだ。忘れるべきだし、そもそも話題にならない。
世間として、誕生日や新年はおめでたくなければならないから祝う、という風に見受けられる。正当化された同調圧力。



そんな考えを抱いていながら、人の誕生日を覚えるのが無駄に得意な私は、好きな人の誕生日は挨拶するのと同じ気軽さで口に出るし、記憶喪失になったときに思い出が消えて日常業務の側しか思い出せなくなったとしても、その些細で確固たる日常の方に記憶されているのではないかというほど、多分忘れることなくその人の誕生日が脳内に刻まれている。
その人にとっておめでとうなのかわからないまま、けれど おめでとう という言葉が似合う日を過ごしてくれたら私も嬉しいし、そう願っている。

#エッセイ #誕生日

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