刹那的な愛が旅人の運命だ

何処へ行こう。常々考える。行きたい、というよりも、此処にはいられない、という強迫観念かもしれない。私は定住が出来ない。

どんなに素晴らしい居場所でもそうだった。空港で別れるとき、あれほど、愛する人たちが別れを惜しんでくれて、私には信じられなかった。本当は一人きりで人知れず出国するだろうと思っていた。

それが、最も長く過ごした友人二人と、愛し合っている人と、それからもう一人。
その人とはたった三回しか合わなかった。別れるときが三回目だったのだ。それでも私はその人に惹かれたし、その人も私を抱きしめて泣いてくれた。たった三回でも、芯が通じ合っているようだった。その人が最後にくれたものを身に纏う度に、感謝と思慕が募る。

素晴らしかった。私は以前からドイツが好きだ。けれども、疑問が私を叩き潰した。「なぜドイツへ行くんだろう?」

これほど今幸せに包まれているのに。愛し合っているのに。ようやく。ずっと夢に見たものが間近にあって、私は間違いなく幸福で。それなのに、なぜそんなタイミングで離れるのだろう。

けれども私は行かなければならなかった。それが留学という時期の決まったシステムでなかったところで、私は幸せな居場所からさえも長くは留まっていられないのだとわかっていた。

それに、幸せに抱かれながら私は怯えていた。好きな人の腕の中という最高の居場所にいるにも関わらず、ふらりと目眩がするように、身動きできない幸せを憎んでいた。飛んで行ってしまいたくなった。期間限定の出会いだったからこそ、あのときあれほど幸せだった。

今、ドイツにいる。大好きな土地だ。部屋は好きなものと色に取り囲まれている。好きな時間に好きな絵と文章を描く。寝たくなったらたっぷり眠る。窒息しそうな閉塞感とは縁を切ることができた。愛する人が側にいれば完璧だと思う。

それでも。今の部屋でさえ、快適なこの街でさえ、留学期間が一年間だから居られるのであって、生涯住み続けることを定められたら気が狂うだろう。これほど素敵な居場所なのに。

ようやく友人もできた。バスに乗れば、一度も会話したことないけれどなんとなく見知っているおばさんや赤ちゃんがいる。プールのシャワー室へ行けば、日課として通っているのであろうおばあさん方と挨拶し合う。毎週愛する人へ手紙を送り続けているものだから、画材店と郵便局の店員には顔を覚えられている。彼らの何をも深く知るわけではないが、一瞬の微笑が心地よく残ってくれる。

これほど素敵なのに。部屋の壁に木目の壁紙を貼って、より一層居心地が良くなった。そうしたところで私は一年後には此処にいないのだ。だからこそ今、落ち着いて居られる。

何処かへ行ってしまわないと気が済まない。旅行や観光とされることには興味がない。人気スポットを求めているわけではないのだ。ただ常に、「此処ではないところ」という当てのない旅をしている。

おかしなことだ。自分が移動すれば、「此処ではないところ」もまた何処かへ行ってしまう。永遠に辿り着けない。そして、だからこそ、追い求めている。

「此処ではないところ」は、影のようだ。常に幻影が見えている。私はそれを掴みたいと思う。けれどもいつまでも実態を手に入れることがない。私が幸せの絶頂にいるとき、あまりにも眩い光に照らされて、影は消えてしまう。一心同体、私の分身とも思えた影は、跡形もなく消え去る。私は恐れる。これ以上何処にも行き場がないことを知るから。

私は危うい淵に立つ。絶望する。私は動けない。一歩前に進むこともできない。行き詰まる。呼吸が苦しい。何処かへ行きたい。その何処かがもはや消滅した世界。行き場のない幸福とはそんなものだ。

私は世界一周したいと言う。けれども本当にすべてを知り尽くしてしまったら、もはや生きていけないのもわかっている。全知全能の神は孤独である。不完全な、無意味な、それでも存在するだけでいい、そんな存在者を私は羨む。

#旅

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