終着、延長。

あなたが管で繋がれている。点滴の音だけが、聞こえる。これほど近くにいるのに、あなたの鼓動が世界から途絶えたようなのです。それを打ち消すように、私はひとりで窓の外を見る。向かいの塀の無彩色が、鮮やかな世界を遮断する。

呼吸器の下に見えるあなたの整った鼻は、凛として生きている。あなたは、生きているのだ。

私は看護師に事情を話し、あなたの個室に長く滞在することを許された。家族でも恋人でもないあなたとの関係を、他人にどう伝えたのかはわからない。ただ必死にあなたといることを願ってどうにか言ったのだろう。

絵と文章を描くことを生業としています、だから場所はどこでも大丈夫なのです、私の生活の心配は不要です。
この人の隣にいれば、私はどこにでも行くことができる。一日中ここにいたって満足なのだ。

どれほど経ったかわからない。あなたの隣では一瞬も永遠も創り出されるのです。あなたは時折目を覚ますようになった。私を覚えていてくれていた。

あなたの瞳が濡れる。わたしも顔中が熱を帯びている。あなたの肌白い顔につく涙を拭い、そっと微笑み合う。言葉は発せられなくてもわかる。

本当はずっとあなたを見ていたい。が、そうもいかない。一方的に見られてはあなたも迷惑だろうと思い、私は集中できるはずもないのに自分の仕事に取り掛かる。本を手にとって読むとしたら、文字が上下逆でも気づかなかっただろう。

あなたに病院食を口にする許可が下った。それまでは何も胃に入れていなかったのだ。久しぶりの食事に身体は拒否反応を示し、あなたは一口目から吐き出す。私はそれを受け止める。

私はあなたの排泄物も処理するようになる。ここまで関わる者を第三者がどう思ったのかはわからない。看護師も必要最低限の業務にしか現れなくなった。私たちは平和だった。

私の側にいるときに、あなたが私に対して恥を感ずることがあってはならないと思う。私は一つだけ決めていることがある。他者に対して、憐れみの目を向けてはならない。そんな自分になりたくない。憐れみの視線は、人の精神を滅ぼす。

私は純粋に、愛おしいものに触れる喜びを以って、あなたの世話に当たる。恵まれた境遇を密かに誇らしくしている。

あなたの院内着を脱がし、身体を丁寧に拭いていく。筋肉の機能が低下しないように、少しずつ揉みほぐしていく。下の世話をするときさえ、あなたに羞恥心を起こさせたくないと思う。私は絶対的に性欲を禁ずる。陰毛に触れる一瞬までも、髪を撫でるのと変わらない自然そのままの動作でありたい。

あなたの家族が遠方から見舞いに来る。あなたが私のことをご家族に話したことがあるのかは知らない。私はさも、つい三十分足らず前に病室に来たが、ご家族の見舞いの邪魔になってはならないし、ちょうどそろそろ帰ろうと思っていたのです、というていで病院を後にする。

近くのカフェをハシゴして、三時間後に再びあなたの元を訪れる。ご家族は帰宅したようだ。また二人になれた。良好な関係だったらしい家族との接触を経た後の、あなたの思惑を邪魔したくはない。影のように黙ってイスに座って、私はただその場にいた。

夜になった。部外者は帰らなくてはならない。本当は真っ暗な夜こそずっと側にいたい。それは私も死にかけて入院しない限り叶わない。あなたに代われたらどれほどいいだろう。真夜中の非常口ランプは、不気味に光って眠れないのではないか。それももう慣れてしまったか。テレビはつまらないだろうし、夜中には院内のテレビは元の電源が切れてしまう。退屈で堪らないのなら、孤独が身を蝕むのなら、私がオリジナルの千夜一夜物語を語って聞かせたいのに。

面会時間を最大限行使して毎日通ってくる私は、もはや看護師の疑いを超越してしまったようである。誰も何も言わず、私があなたの側にいることを許してくれる。

あなたは辛うじて歩けるようになった。トイレまで手を引いていく。あなたの全ての世話を引き受ける幸福はこれで終わり、あなたの活動が拡張される、また別の幸福が、ここから始まる。

入浴の許可が降りた。あなたが一人で動くのは未だに難儀だから、私も特別に入浴させていただく。このときだけは心から、同性の面構えで良かったと歓喜した。

本来は長風呂のあなたがどれほど湯に浸かっていて大丈夫なのかを、看護師に聞く。あなたの院内着を脱がせ、私も全裸になって一緒に入る。長くは立っていられないあなたをイスに座らせて、共にシャワーを浴びる。あなたの身体に触れるたび、あなたの顔が赤く染まる気がする。それが嬉しい。一方で、ひたすらに任務をこなす手慣れた中年女性の振る舞いであれるようにと、私は自分を抑えつける。

湯に浸かる。二人で入ったから、湯が荒れた滝のように溢れ出る。あまりに大きな音を立てるので、私はあなたと向かい合って笑う。向かい合う位置関係では、成人サイズの人間二人が入るにはやはりきついから、私は向きを変える。

あなたを後ろから抱きかかえるようにして、私があなたの全身を包み込むように座り変えた。これでお互いの顔は見えない。あなたのうなじをじっと見る。それから、私の胸があなたの背中に触れていたことに気づき、私は勝手に恥ずかしくなる。あまりに気持ちのいい体勢だった。

今更変えるのももどかしいので、いっそ後ろから強く抱きしめた。強く、といってもあなたの身体を労わる限りの強く、でしかあれないから、本当はもっと無茶苦茶に抱きしめたかったがそうはできない。

あなたの背中を水中で撫でる。透き通るように白い。あなたがこのまま消えてなくなってしまうのではないかと怖くなる。

私は緊張を切るように、声を出して尋ねる。ずっと同じ姿勢でベッドに横たわっていては肩が凝らないか。どこか揉んだ方が楽になるんじゃないか。

私はあなたが言う通り、肩と背中と腰までを揉みほぐす。あまり繊細なものだから、私は陶芸品に触れる気分になる。これほど愛おしい存在を何ものにも破壊させてはならない。それが自分の過ちであったら、なお悪い。私は自分の一生をかけて、今あなたを心からほぐしたいと願う。

入浴後、私はあなたの身体が冷えないうちに身体を拭く。大きなバスタオルが一人につき二枚、さらに小さなタオルが一枚用意されていた。これほどの贅沢ができるのは病院だけだ。私は両腕とバスタオル二枚を駆使して、早く、丁寧に、あなたを無機質だがあたたかい院内着に包ませたいと思う。あなたに服を着せ終わる頃、私はまだ全裸で水浸しだったから、大急ぎで自分の身支度を済ませた。

ドライヤーであなたの短くなった髪を乾かす。髪の毛が宙に浮くたび、あなたの美しい横顔が露わになる。個室に戻り、あなたの耳掃除をする。初めてする相手が決して傷つけられない大切な人なものだから、無性に緊張しながらも、その邪魔な緊張を内に収める。あなたの耳が食べたい。

肌が乾燥するといけないよ、と言って持参していたボディクリームを塗る。あなたの肌に触れられることが訳もなく嬉しい。この状態がずっと続いてくれればいいのに。そう思ってから、私は自分を罰する。

あなたが多少動けるようになったと聞いたからか、あなたの彼氏がやって来た。私とあなたと、あなたの彼氏は、三人とも大学で同じサークルだった。彼氏も私にとって顔なじみであり、後輩の一人だ。

このときばかりは私は去らなければならないとわかった。彼氏もそれを望んでいたし、そのつもりで訪れてきたのは明らかだ。他者の心を読むのが得意なあなたがそれをわからないはずはない。それなのに、じゃあ後でねと私が口を音立てず動かし、立ち去ろうとすると、あなたが私の手を掴んだまま離さない。彼氏という名がついた関係性の相手だからといって、彼と二人きりにはなりたくない、という意思表明だと思った。

無言でそれほど彼氏を傷つけているのだから、だったらなぜ別れないのか。格別一緒に居たいわけでもない相手だと思うのなら、なぜ彼氏彼女を演じるのか。

そんな素朴な、そして執拗な疑問を投げつけたいけれども、私には干渉の余地がないように思う。私は情けない者なのだ。彼女の人生にとって部外者たろうと、自分を押し殺した時期の、これは過失なのだ。

彼氏も彼氏で自身の奇妙な境遇を心得ているから、哀しく微笑んで、それから普段の明るい調子で話し始める。あなたが笑う。無理しているのが、私にはわかる。私は、カップルであり、後輩である二人と同じ空間にいて、ちっともそぐわない存在になる。うまいフォローもできない。したくないのかもしれない。

彼氏が寂しそうに口角を上げて、また今度と言って帰った。私は本当に透明人間になってやりたかった。彼女のためにというより、彼氏のために。そして自分のために。

あなたは罪深い人だ。こんなにも私を狂わせてくれる。



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