逆ドーナツ化現象

ブログやエッセイを書く人、どれくらい現実そのままなのか気になる。

自分の場合だと、フィクションを捩じ込むので、100%現実話をしているわけではない。

現実の人物(本名)と、
書き手としての人物(空衣)と、
文中の「私」

に完全一致はあり得ないし、
日本語なら一人称によっても変わると思う。

現実では自分を「僕」とは呼ばないけれど、文中で自然と「僕」の気分のときがあって、それはあたかも自分が僕でしかありえないような自然さで現れ出る。

私の周りではドーナツ化現象が起きている。
いや正確には、逆ドーナツ化現象とでもいおうか。

自分には3つ名前が必要なのだと思った。

めちゃくちゃ近い人(世間でいう親友みたいな)=本名
なんとなく知っている人=???
全然知らない人=空衣

の三分類できる。

人間関係において、自分は〝逆ドーナツ化現象〟なのだ。「全然知らない人」と「めちゃくちゃ親しい人」には晒け出せる気がする。
その中間層が無理なのだ。ドーナツ化現象だと、ドーナツの穴と外側があって、ドーナツそのものがない感じ。

風俗嬢の気分になったらわかりやすいのだろうか…?「マジで好きな人」と「全然知らない他人」には体を開け渡せるけれど、「中途半端に知っている奴ら」とはヤリたくない、みたいな。

きっとこの人間関係の層が、世間の多くの方と逆なのだろう。「なんとなく知っている人」に対しては、自分は何一つ言えなくなるし、大事なことは晒したくない。

大多数の人は、中途半端に知っている人にやけに優しいし媚びを売る。
私は逆ドーナツ化現象の2番目の層に対しての関係性を、面倒臭いと思ってしまう。

だから「なんとなく知っている人」向けのSNSは自分にはいらない。

現実世界でも「空衣」と呼ばれることが増えてきた。これは自分がLINEをその名でやっているから仕方がないのだけど、「現実の、生まれたときの自分」と「ペンネームとしての空衣、書くときの自分」の境界が失われている。これはなかなかの恐怖だ。

「空衣」の名は気に入っているのでこっちを残して、本名なんて消えても構わない、くらいには思っている。
けれどもそれだと、空衣=本名である「なんとなく知っている人」の目を気にしなければならない。

全然知らない人に対しては、自分はセクシュアリティも文章も晒せる。むしろ読んでくれたら嬉しい。中身を、見てほしい。学歴でも職業でも外見でもなく、精神そのものの化身である文章を見てもらえたら光栄だ。隠さないし、ぜひ見てほしい。

けれども、「なんとなく知っている人」には見せたくないのだ。
自分の文章は、Twitterで拡散できるようなものじゃなかった。サークル同じ人、キャンパスですれ違う人、家族、高校の同級生、バイト先の先輩、には何があっても知られたくなかった。

noteの文章がTwitterと連動して紹介されたとき、自分は周囲の人に文章を見せられないのだと思い知らされた。有名になって大勢に読んでもらえればいいや、と開き直るのは危険すぎた。

彼らには、本名と空衣、現実とテクスト、の区別が出来ないから、勘違いや偏見で片付いてしまう。現実とフィクションの境界を、誰が引き裂くことができるだろう?

「こーいう人」の型にハメられたくはなかった。それは違う、といつでも言ってやりたい。旅人の精神で書きたい。ドーナツに相当する層は、風向きが厳しい。


#エッセイ


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