人間みたいで羨ましい。

二度と利用するもんか、と行くたびに思っていた寮の大浴場を結局何度も使った。お湯のきもちよさには勝てない。
女湯には行きたくないけれどどうしたって男湯が望ましいわけではないし、だから私は開場直後に一番風呂できる時間帯以外は行かないように気をつけていた。同年代の女の子が裸で喋り倒すあの空間がどうしても苦手で、私はいつも透明人間を目指していた。
女性に性欲が生じる状況があったとしても、女湯という特異な空間ではただ縮こまるだけで、お湯には浸かっていたいが早くその場から逃れたいと思う。

最近は浴場へ行くことが多かったのだが、直近の5回連続、同じ人に出会った。多分私より一学年下の女子二人組だ。学部も名前も知らない。混む時間帯を避けたいのは同意見だしおそらく生理周期も似たようなものなのだろう、知っているのはそれくらいだ。
というのに、初対面からお互いの裸はよく知っているのだからやっぱりなんだか奇妙な空間だ。浴場で出会う人の顔をジロジロ見るのは気まずいし、だからもしかすると、身体を洗うときや鏡越しにでも相手の裸を目にする機会の方が多いわけで、情報は何も知らないのに裸だけ知っている、ある意味とても原始的な状態が生じる。


女子寮の現状は他にも言い尽くせない事情が色々あった。
その違和感に慣れてしまったため、あえて指摘できることは少なくなってしまったけれど、自分が常日頃直面する性的指向や身体違和を鑑みると女子寮から脱獄したくて堪らないときが多々あった。あまりに帰る気になれなくて夜を全然知らないところで過ごしたこともある。自分を罪人だと思ったこともある。

こんな話も聞いた。あるとき女子学生が同性のルームメイトに恋してしまったそうだ。
寮を男女に分けたからといってそれで恋愛や性愛が片付くわけはないのだ。男女を分けておけば妊娠しないというくらいしか、解決にならない。
そのとき好かれた側の女子学生は、薄い壁一枚隔てて異性がいるのと変わらない状況で到底落ち着けないから、自分を好いた女子学生を別の部屋に離してほしいと願い出た。好きになった側の女子学生からすると、自分が好きになってしまったという理由で好きな人が離れたがるその状況にショックを受けた。結局、その二人の部屋配置がどうなったかは知らない。

自分が女子寮にいるのだとはっきり認知することは、例えばノーメイクのパジャマ姿から化粧後の姿が怪物的に違う人を目の当たりにすることだったり、個室のドアを開けるときの一瞬で下着が干されている光景が普通であったりすることでよくわかるけれど、何とも言いがたく、でも圧倒的に感じるのは、ズバリ匂いだった。
女子寮には、女のコの匂いが溢れている。女子更衣室のあの、フワッとシャツをはだけるときの匂い、とでもいえばいいだろうか。

映画『胸騒ぎの恋人』を観て、その中でゲイ(←多分)男性が別の男性の衣服の匂いを嗅いでシコるシーンがあった。その映像美と匂いへの想像で、私が男だったら映画を観ながら間違いなく同じ行為をしていただろう。

それからふと、半年前に留学するため寮を離れた女友達のことを思い出した。彼女はとてもいい匂いがする人だった。
一度私のパーカーを貸したことがあったのだが、洗濯した後感動的にいい匂いになって返ってきたことがあって、暫く自分のパーカーだと思えないほどそのいい匂いが残っていた。鼻を近づけなくても感じられるけれど、もっとその匂いが欲しくてパーカーごと自分を抱きしめてやりたいし、匂いが消えてしまうのが嫌だから自分で洗濯するのはやめておきたいくらい、いい匂いだった。ただ使っている洗剤の違いではなく、彼女自身から滲み出るいい匂いだった。彼女が最後に余った洗剤を渡してくれたけれど、私が洗濯しただけではちっともいい匂いにならなかった。

半年経ったこの頃、彼女が置いていった私物からその女友達の匂いがするのではないかと思って嗅いでみたけれど、さすがに半年経った調理器具やぬいぐるみからあの匂いがするわけはなかった。それにもし匂いが残っていたら、私は何だか自身が変態になっていきそうで勘弁したいので、匂いが消えていてくれたのは良かった。

その女友達に限らず、女子寮はどうしたって性別を感じさせる匂いで包まれている。化粧品や香水がどうかという次元ではないと思う。


そんな些細な日常ですら、私に居場所を与えておかなかった。お前がいるのは此処じゃねえと囁かれすぎて擦り減って、本当に体ごと消えてしまえればいいのに、と思う。


魂だけになりたい


トランスジェンダーの人(Xジェンダー除く)は、なんで自分の身体が違うとわかるのだろう、だって女体で産まれてきたなら男体であった経験などないわけで、自分は本当は男性なのだとわかるはずはないんじゃないの。
という質問には、こんな回答を与えられた。
いや周りに男性がいるから自分もそっち側だとわかるんだよ。でもさ、君みたいに魂だけが本当の姿だなんてなぜわかるの、魂だけで生きている人間に会ったことなんてさ、いやいや君はそんな経験あるのかよわかんないけど。

そんなことこっちが聞きたい、明らかに与えられた性別ではないように感じるし、かといって女でなければ男であるという二元論で解決できず、これは性別の問題ではなくて体そのものがいらないのではないか、という真実に辿り着いた自分は、じゃあ体をなくして本来の姿を探し生きていくために、死ななければならないのか。生きていくために。

自分の実態はないようで、何かに触れるのもタブーであるような、それで愛だの命だの馬鹿じゃないか、自分は一体何なんだ。
いつだって此処ではない何処かへ行きたいと渇望していて、そのくせ目標地点に辿り着いたならばやっぱり此処ではなくて何処か、と馬鹿の一つ覚えみたいに唱える自分は、生きることとか人間でいることを、間違えているのだ。絶え間なく不適切だ。
他の人が適切な世界で息をしているように見えるのは事実だろうか、私の幻覚だろうか。



以前核心を突く言葉で好きな人に振られたことがある。

「私は普通の恋愛をして普通の結婚をしたいの。だから今後一切話しかけないでほしいし、私の話もしないで。私のために関わりを切ってください」

普通の恋愛、普通の結婚。何だろうその異世界の単語は。
ゲシュタルト崩壊してそのまま、私は全く体を動かせなくなった。音も光もすべて消えた。冬の寒さも他人の視線も消滅した世界に、私はいた。重力に従わざるを得ないそのときの私の体は、確かに私の心とリンクしていたのだとは思う。

お前は普通の人間じゃないし普通の恋愛も普通の結婚も無理だ、私たち普通の人間に近づくな。
私の脳は相手の言葉をそう翻訳したが、狂った解釈をしてしまったのではなく、相手の言葉は的を射ていたのではないか。

だから、私はこう返した。

君は人間みたいで羨ましかった

心底そう思った。私は感情処理も上手くできないし、人間的と形容できる感覚が自分にあるのかも疑問だった。

ただその人のことは確かに好きだった、と思う。だから友人に恋愛の話題を求められても困ることはなかったし、バイセクシュアルであるため男への気持ちの持ちようも女への気持ちの持ちようも実感を持って理解できるはずだった。

生きることに失敗しているのか、間違えて人間に生まれてしまったのかもわからない。
複数の割と親しい友人に、なんだか人間じゃないみたい、という素朴な感想を洩らされたことがある。それは外れていないと思う。

かといって、小説『犬身』のように、自分は性同一性障害ならぬ種同一性障害だ、本当は人間ではなくて犬に生まれるべきだったのだ、と言えるほど自分そのものだと思える生物に出逢えた試しはない。

いつも此処ではない何処かを求めているという点で、自分は旅が好きですと自己紹介するしかないような気がする。

私はいつも飛行機に乗ってどこかへ旅行するとき、本当は行きの旅券だけで十分なのに、と思っている。無事に帰ることがないような気分でいるからだ。というより、帰るべき場所を自分は持っていないように思う。国籍とか家族とかいう所属は信じるに値しない。

何か信じるものがあって、自分は自分だと断言できて、私にはもはやよくわからないけれど普通の恋愛や普通の結婚を出来ている人がいるならば、私はやっぱりこう言う。

人間みたいで羨ましい

#エッセイ

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