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【コラム】保坂和志『考える練習』を読んで色々と考えているフリをする―夏目漱石の『草枕』って保坂さんっぽいんじゃない?


「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるんでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分からないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いです」
「何故?」
「何故って、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「余っ程変ってらっしゃるのね」
「ええ、些と変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪いでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、仕舞まで読まなけりゃならない訳になりましょう」

夏目漱石『草枕』明治39.新潮.新潮文庫『草枕』2005より引用

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html


はじめに

少し前に保坂ファンの知己を得て、保坂和志の著書を勧められることがあった。そんな彼から最初に勧められた本が『書きあぐねている人のための小説入門』という本だった。内容に関しては、割愛するが、以降私は小説を書く際に「お話」を書くのではなく「一文」を繋げることに邁進しているように思う。いい変化だと思う。小説を書くことに関心のある方は是非とも一読されたい。

それはさておき、『考える練習』である。本書は大和書房より刊行されたものであるが、同社の三浦氏が、作家の保坂和志氏に質問を投げかけて、保坂和志氏がそれに解答していく、というインタビューの形式をとる。その解答がまた、いちいちカッコ良い・・・のかはさて置き、普段使っていない脳の部分を刺激されたような気になる。

私は氏の小説に先んじてこの本を読んだ。ファンでなくても、充分に楽しめる本となっている。

気になった箇所をピックアップしながら紹介していきたい。

※引用はすべて保坂和志『考える練習』(大和書房2013.4)による。

iphoneなんていらない

氏はiphoneなんて要らないと語る。数年前までガラケーを使用していた私も頷けるところが多い。会社の都合でラインが必要になった為にiphoneを購入したが、まあ別にガラケーでも良かったように思う。ガラケーからiphoneに変えて変わったことと言えば、Twitterに触れる時間が増えたことくらいだ。マイナスの方向での変化である。氏は、このように語る。

(電話がすぐに繋がるような、電話一本でなんでも出来る=筆者注) 便利な世界にするのがやつらのワナなんだよ。やっぱり電話を引くために半日、一日並ばなきゃいけない、この不便さがきっと何かだったんだよ。

利便性を追求した先に何があるかというと、やはり疲弊なのだ、と。スマホのおかげでどこでも商品を買え、誰とでもコミュニケーションを取ることが出来るが、その便利さに疲弊する人もいる。

24h時間営業するコンビニのおかげで深夜に食品を得ることが出来るようになったが、深夜に働く人間もいる。そもそも、深夜にコンビニに足を運ぶ人間も、深夜に働かなければいけない状況にある訳で、まぁ人々が便利便利と毎日生きていられる裏側があって・・・書き連ねればキリがないが、それはコンビニに限った話ではなく(私は昔コンビニで夜勤をしていた)、例えば、休日に仕事が入るかもしれないとゆっくり休むことさえ出来ないサラリーマンなんかもいる。保坂氏の言う「やつら」は便利さを提供する代わりに「なにか」を奪っていく。

続けて、氏は言う。

 iphone持って、あれが見れるこれが見れる、レストランがすぐ見つけられる、ウィキペディアでこれが調べられるとか言ってるけど、それだけのことでしょう。その時間がラクだから、ドストエフスキー(注左部=長編小説を何本も書いたロシアの作家。『罪と罰』など。1821年生まれ)を読む時間が減るんだよ。

便利になったことで、私たちは時間を得たのか、それとも失ったのか、疑問である。結果や解答ばかりを求め、それで満足してしまう。一つの物事に対して思考する時間は減り、短絡的な結論ばかりを求める時間が増えてしまったのかもしれない。

とあるブロガーのブログに「研究書は読まなくていい」と書かれ、何故なら「結果に反映されにくい」とあった。「結果」に反映されにくい本は読まなくていいのか。そうかそうか。小説への死刑宣告である。でもそう言う人もいる。

・・・そのブロガーがそういった結論に至ったプロセスについて考えてその人を理解しようとする営み、自分とは考えを異にする人に対して敬意を払える、というその想像力を養うことが小説を読むことで得られる一つの結果のように思うがこれは蛇足。

おわりに

枝の伸び放題の「書評」であったが、上述した文章は当然、本書『考える練習』のメインではないし、そもそも『考える練習』にメインなんてあるのか。本記事では枝の一本について書いているだけだ。

氏は文学に対して、次のように語る。

少なくとも、文学に日々接していれば、ひとつの軸だけではものを語れないっていうことはわかる。世界を見る目がひとつだけでは世界は見えないっていうことはわかる。(中略)単一の世界像みたいなものは幻想だってことを知るのが文学に接するということだよ。
(中略) そういう、曲者であるところの文学から人を遠ざけるっていうのは、やっぱり人を考えなくさせていくことなんだと思う。

一つの軸だけでものを語らないように、気をつけていきたいところですね。

ところで私は昔恩師にこんなことを言われた。

大きな問題と格闘して、いろいろな本を読んだり、いろいろな勉強をしたことは、必ずいつか役に立つはずです。即効的なものでないからそれがいつになるかはわからないけどね。

だから何だって話であるが、保坂風に言えば文脈なんてどうでもいのです。

この記事を書いている内に、思い出したのでした。

ではでは。


左部右人(サトリミギト)
1994年生まれ
鹿児島県鹿児島市在住
普段はプログラマーとして会社勤め

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