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水は天井から滴る 第二話

学校の怪談

 翌日、未だ大量に残る廃材を片付ける事に追われ、父に話が出来たのは夕食後だった。父は昨日近所の友人達と朝方まで麻雀に勤しんでいたらしく、起きてきたのは昼を過ぎてからで、私も私ですっかり聞くのを忘れていた。
 解体時に出た大量の木材や屋根に使用されていた瓦、足固め用に置かれていた石材などは、大方当時設営された廃材置き場に持って行き処分した。しかし、それでも細かいゴミや幼い頃に使っていた学習机などは放置されたままになっていた。それらにやっとこさ手に付けたという訳だ。今の今までほったらかしにしていたのは、祖父の介護があったからである。前述のとおり祖父は家に帰ろうとしてしまい、思い立てば家から出て行くようになっていた。普通の腕時計の代わりにGPS機能付きの物に変えて対処していた。それでも気付かぬうち、近くを流れる小川に入っていたなんて事もあったようだ。あくまで対処した母の芳子からの伝聞ではあるが。
 とにかく伸びに伸びきった雑草を刈り、大まかに仕分けした所で太陽が建物に隠れてしまい、この日の作業は終了した。
 そして再度夕飯の時間である。
「くはーっ……流石に疲れたね」
「ぎゃん暑かったらねえ、動かんでも疲るっもんねえ。はい、高菜」
「ありがと。ほんと有り余る程出てくるねゴミ。あれって結局どこ持ってくの?」
「保育園の頃行った事なかったかね? 山の上にあるクリーンセンター。ちっと掛かるばってんが何でん引き取ってくれるんよ」
「あー、あのトンネルの近くの所か。でも不燃物だけでしょ? 燃やせる物はうちで燃やすしさ」
 大変よろしくはないが敷地内で燃やすのは田舎あるあるだろう。真っ黒な煙が出ない様に注意さえしていれば、特に消防団が出てくる事もない。
「本当はやっちゃいかんけどね。明日も手伝ってくれるとでしょ?」
「その予定。というかそもそも他に予定とか入ってないしね、昨日も大分歩いて収穫もあったし……あ、そう言えば聞きたい事あったんだった。御粕會小の三階に入っちゃいけない廊下があるのって知ってる?」
「……さあ、お父さんに聞いてみっとよかよ。お父さんの方が色々知っとる」
「え、あー、うん」
 急にトーンダウンしたその様子を見る限り、母も知っているのだろうか。公園にいた親達が知っていたのだからおかしくはないけれども、身内が似たような反応を示すと妙に落ち着かない気持ちになる。そんな私を察してか、母は無言のまま席を立って追加のビールを冷蔵庫から取り出し私の前に置いたが、私はお礼を伝えただけで蓋は開けなかった。
 そんな空気を知らない父の文則が風呂からあがり、私が飲んでいるのを羨ましがって冷蔵庫から取り出してその場で一気に呷った。
「今日のご飯はー……お、生姜焼きかと鮎か。こんな豪勢なのは中々一人暮らしじゃせんどな」
「そーだね、ありがたく頂いとります」
「で、まだ高橋は出とらんか? 間に合ったか?」
「まだ出てないよ、あと二レース後」
 高橋は高橋逸人たかはしいつひとという中距離ランナーで、今夏季オリンピックに出場している日本人選手の一人である。名だたる外国人選手と並べても遜色ない足の持ち主で、フルマラソン日本記録保持者の肩書きを持っている。そんな彼が実はこの町の出身だというのは、この町の誇りである。試合前のインタビューで
「震災の時、復興支援で来て頂いたメダリストに感銘を受け、長距離走を志しました。その方は勿論、地元の家族友人、お世話になった人や街にメダルを取って恩返ししたいです」
 と、話していた。まあ良く出来た人物なことも相まって、地元のみならず全国にもファンは多い。直接出会ってはいないが、きっとプライベートでもしっかりしているのがそこかしこからにじみ出ていた。父はその高橋の父親とも交流があるらしく、彼がレースに出場する時にはどんなに小さい大会でも欠かさずチェックしている。そういった積み重ねが交友関係を広げているのだろう。
「お父さん、御粕會小って行った事ある?」
「御粕會小? あああるよ。そっがどぎゃんしたつや」
「三階に入っちゃいけない教室があるらしいんだけど知ってる?」
 テレビを見たまま父は答える。
「知っとる。そっでなんね?」
「昨日小学生からそこの噂を聞いたんだけど、お父さん知らないかなって」
「ふうん……どぎゃん噂か?」
「女の子の幽霊が出るんだって」
 レーススタートの電子音が鳴り、選手が一斉にラインから飛び出していく。
「その女の子が貞子みたいにどっかに連れてっちゃうらしいんだけど──」
「知らん」
 顔はテレビを向けたまま父が端的に、私の言葉を遮って否定した。
「そっば誰から聞いたつか」
「公園にいた男の子から……え、やっぱ知ってるの?」
「だけん知らんて。なんべんも言わすんな。聞いた時優奈はおったつや」
「や……おらんかったけど」
「優紀もか」
「いや……優紀はおったよ」
 そう答えるや否や父はおもむろに立ち上がって部屋を出、どこかに電話を掛け始めた。電話はすぐに繋がったようで父の挨拶だけは聞こえ、それ以降はすぐにフェードアウトして何も聞こえなくなった。静寂の代わりに観客の沸き立つ声がリビングを満たしているが、それが余計に無言の空間を助長していた。
 ふと、一昨日公園で康平が叫んだ瞬間の状況を思い出していた。今もあれと同じ静寂だ。母の方を見ても目も合わさずに黙々とご飯を食べている。
 父は高橋が一着でゴールし準決勝へと駒を進め、次の走者達が最終ラップの鐘を鳴らした所で戻ってきた。何事も無かったかのようにご飯を食べ始めたが、相変わらず無言のままで何の説明もない。私も母もとっくにご飯を食べ終わり、ちびちびと焼酎を飲んでいる。
「高橋は?」
 先に口を開いたのは父だった。
「一応、勝ち進んだよ。一着で」
「そうか、ようやっとるな…………さっきの話ばってんがな、まあ、噂は噂だけん、あんま気にすんな。万が一何か聞いても適当にあしらっとくとよかけんな」
「万が一何かって──」
「分かったか?」
「……まあ、うん」
 有無を言わせぬ口調に私はすごすごと仏間に引きこもった。
 以前の家ならば小さいながら自室もあったが、新しい家には祖父母と両親用の部屋しかなく、普段はそのままリビングに雑魚寝している。リビングではまだ両親が何かしら話し込んでいるし、あの空間に居続ける度胸は私には無い。聞き耳を立てようと考えドアの傍にいたのだが
「そこでなんばしよっとな」
 と、祖母のカネがトイレに起きだし話しかけられ断念した。
 そしてこれも企画のネタになるだろうと事の経緯を書き留めている。正直久保君の話に期待してはいなかったのだが、ここまで来ると探らずにはいられなくなっている。この期に及んで未だに家族に秘密があろうとは思わなかったし、町の人にも関係しているらしいとくれば、そっくりそのまま書けば面白い物になるに違いない。
 私は相談がてら話をしようと、職場で知り合ったオカルト好きな友人に電話を掛けた。
「もしもし~どうしたの急に電話したいって」
「ごめんねこんな時間に。ちょっと相談したい事があってさ」
 水城真帆みずきまほは私がバイトを転々としていた際に出会った人物である。ありきたりな出会いではあったが、話している内にどうやらオカルトやホラーが好きだと分かり、私がまた職場を変えた後も時折連絡を取っては蒐集しゅうしゅうした怖い話を交換しあう仲だった。こういう時に頼れて趣旨を理解してくれる人がいるのは大変ありがたい。
「普通に大人の事情が絡んでるんじゃないの?」
 一通り話を聞いて、彼女はそう答えた。
「大抵の心霊現象は──」
「勘違いや思い込み」
「そう、殆どは科学的に証明出来る事。三階の廊下が何で閉鎖されてるかは想像の域を出ないけど、声が聞こえたのは多分、反対の教室に女の子がいて声が聞こえたんじゃない?」
「俺もそう伝えたんだけどね。じゃあ仮にそうだとして目の間に着物の女の子がいるってのはどう解釈したらいいかな。見間違いって線はまず無いとして」
「それは……イマジナリーフレンドとか? その子に変な様子は無かった?」
「変なって言われるとそりゃまあ変だけど。その女の子に話しかけてる様子も無いし、怖がってはいたけど四六時中見えてたら普通怖くない?」
「守護霊ならまだしも引き摺り込むって噂の女の子だもんねえ。まあなんだろうな……公園にいた親達って大体同い年くらいだった?」
「え? いやまあどうだろう。そう見えるっちゃそう見えたかな」
「んー、例えばの話だけど。その親達が小学生だった頃にいじめが起きてて、恐らくその女の子が自殺した。もしかしたら町の役員とかの子供が加害者で、いじめは起きてないとして処理したかも。けどその子の幽霊が出るなんて噂が立ち始めて、いじめてた子が『見える』って言い始めて公になりかけた。それで学校に圧力をかけてその教室自体を封鎖した、臭い物に蓋をするみたいにね。で、その加害者達は大人になり女の子の事を忘れていたけれども、久保君が『見える』って言いだした事で思い出し、怖くなって逃げだした、みたいな。あとは封鎖してる間に物置にしたりして使える状態じゃなくなってるから、わざわざ教室として開放する必要がないんじゃない? うちの学校にもあったよ、普通の作りだけど物置にしてある教室」
 仮説を聞くとそんな気もしてくる。大人たちが密談している様は不安を掻き立てるだろう。特に人一人殺してしまった後では余計に。実際花掌村の小学校にも似たような教室は存在する。そこは閉鎖されてはいないが通常の授業では解放されておらず、時折ある学校行事の際に開いているくらいだ。圧力があったかはさておき、臭い物には理論は一昔前なら横行していたとしても不思議ではない。いじめ、というワードが浸透して重く扱われる様になったのもごく最近の事だ。当人はいじめ・・・ではなくいじり・・・だと思ってやっていたが、やられる側からしてみればそれはまごうことなきいじめなのである。今思い出しても殺してやろうかと思う相手が私にもいなくはないが、その親、加害者達は死して尚恨み続けられる様なことをやっていたのかもしれない。あくまで想像の域を出ない、が。
「直接役場か学校で聞いてみたら? 案外すんなり教えてくれるかもよ」
「それは恥ずかしい」
「恥ずかしいってもういい年でしょ。折角乗りかかった船なのにネタにするなら丁度良いと思うんだけどなあ。あれ中々良かったよー作った本。続き作るならこんないいネタそうそう出てこないよ」
 数年前から自分が書いた怪談をまとめて本にして、イベントに出したりネットで出版している。職場を移る前に一冊渡したのだが、読んでくれていたようだ。売上についてはほぼ無名の作家が出した物を買う人が果たしてどれだけいるのか、とだけ言っておく。
「学校の怪談繋がりで思い出したんだけど、昔、学校の裏山に廃屋があって、そこにお化けが出るらしいから皆で肝試ししたことあったなあ。結局出るものも出なくってただの散策になって終わりになってね、麓に出てから解散して各自家に帰ったんだけどさ。その時に一体憑いてきた事あったなー」
 真帆は大学に上がるまで霊感があったらしい。今は何も見えていないそうだが、ふと感じる時もあるそうだ。その彼女が久保君の言う事をすぐ肯定しないのは、小学生の頃自称見える子がやれあのトンネルには幽霊が、やれあの廃ビルには自殺者が等と言って周囲を困惑させていたからだ。むやみやたらに幽霊話を信じず、消去方でどうしても理解できない場合は一考する余地がある、と彼女は考えている。
「あったなーって。随分軽く言うじゃん」
「今は昔の話だから。それでマンションのエレベーターに乗って八階のボタン押して待ってたらさ、止まったのよエレベーターが。四階で。誰か乗って来るのかと思って顔上げても誰もいないし、そういう事もあるかと思って閉まるボタン押したんだよ。確かに押したんだけど、何回も閉じたり開いたりすんの何かが詰まってるみたいに。すー、がっちゃん、すー、がっちゃんって。で、気付いたの。あ、丁度人一人分の隙間じゃんって。想像してよ、両開きドアの真ん中に見えない何かが立ってんの。無茶苦茶ボタン連打して十回くらい開閉繰り返してやっと閉まったわけ。勿論八階に着いた瞬間家までダッシュして鍵開けて貰ったの、ほらドアチェーンあるから。ドアが開いて目の前に弟がいたから安心して『ただいま』って言ったら『おかえり』じゃなくてなんて言ったと思う? 『お姉ちゃん、その人だあれ?』……私、勘違いしてたんだよね……エレベーターのドアが閉まったのって、それがいなくなったからじゃなくて、中に入って来たからなんだな、って」
 真帆は話を終えて何も発さず、通話口からもこの仏間からも静寂の音が聞こえてくるばかり。これは二人の間にある暗黙の了解。どちらかが怪談を話終わったら、暫く黙り、話し手が合図を出すまで聞き手は感嘆も嘆息も感想も無し。
 ふと、気配を感じて右を向いた。薄く開いた襖の隙間から、目が二つこちらを見ていた。
「うわっ! わわっ!」
 思わず声が出て通話口から「えっえっ大丈夫!?」と聞こえてくるが反応している余裕はなかった。驚いた私は携帯を手から零れ落とし、キャッチし損ねた携帯は襖の方へと転がった。すると襖がゆっくりと開いて
「まぁだ起きとっとな」
 と、祖母が姿を現した。
「な……なんだ婆ちゃんか……びっくりしたぁ。もー! そんな開け方しないでよびっくりするじゃん」
「何時と思いよっとな、はよ寝なっせ」
「はいはい、分かってるから大丈夫。はい、おやすみなさい」
 襖がゆっくりと閉まり祖母が姿を消した。ひっくり返った携帯を拾い上げ、ため息をついて真帆に話しかける。
「あー、もしもし水城さん?」
「もしもし!? 大丈夫!? 何があったの?」
「大丈夫大丈夫。うちの婆ちゃんが様子見に来ただけ。タイミング完璧過ぎてまじでビビった。いつもああなんだよね、ノックするでもなくほんの少し扉開けて何も言わずただこっち見てんの」
 亡くなった祖父もよく同じ事をやっていたが、夫婦は似るのか、田舎だからか、時代なのか。
「むしろそっちの方が怖くない? 幽霊より生きてる人ってのはまさにこのことかもね」
「気にしてくれてるのは凄い嬉しいけど流石に……さっきの話、水城さん弟いたんだ」
「あ、そうそう六つ下でね。あの時は私が中二だったから弟が小三か。弟も割と最近まで見えてたって言ってたなー」
「へえ。何歳くらいから見えてたの」
「年長さんくらいかな。園の皆に怖がられてから指さしたりは止めたけど、危なそうな場所にはかなり拒否反応示してたね。事故が多い場所とか回転の速いアパートとか」
 金属探知機ならぬ幽霊探知機か便利だな、と思ったが口にはしなかった。
「爺ちゃんが元々神主でお祓いとかやってて、それの影響じゃないかなと私は思ってる。お母さんも見えてたし、そういう一家なんだろうね」
 その後しばらく仕事の話をし、祖母襲来の気疲れと作業の疲れで瞼が重くなったのをきっかけに電話を切った。
 完全に意識が落ちる寸前に公園で久保君が俯いている姿を思い出した。彼の目線はずっと下にあったが、そんなに恐ろし気な見た目の霊が憑いているのだろうか。茶色い着物と言っていたが普通白ではなかろうか。いや、それも幽霊への先入観があるだけで、茶色なのかもしれない。それにあの場で何かを見落としている様な気がする。何がとは分からないが、大人達の反応以外にもやもやと引っかかる……。
 しかし、その答えを見つける前に私は眠りに落ちた。

 思わぬ進展があったのは翌日の夕方、母に連れられ夕飯の買い出しに行った例のスーパーでの事だった。食品売り場と服飾売り場の間にレジがあり、レジを出てすぐの場所に大小合わせて四台ベンチが設置してある。そこに見知った小さい坊主頭があり、私を見るなり声を掛けようと駆け寄ってきた途端、私の背中に妙な悪寒が走った。
 嫌な予感程よく当たる……。
「テレビ局のお兄さん、あの、くぼっち知りませんか?」
「くぼっち? ああ、久保君がどうかしたの?」
「それが……昨日からどこにもいないんです」
「それ……詳しく教えてくれる?」
 彼のことは甲斐航かいわたると呼ぶ事にする。
 彼から詳細を聞く前に場所を移動する必要があると感じた私は、売り場で食材を物色する母に友人が近くにいるから会って来ると伝えた。母は少し悩んだようだが夕飯には戻ると伝えると、遅くならないようにねと釘を刺し買い物に戻った。帰りについては送ってもらうと言ったが恐らく徒歩になるだろう。
 二人分の飲み物を購入し、スーパーを出て北に向かって歩き始めた。甲斐君曰く、人気の少ないいつもの遊び場あるそうだ。十分もしない内に町を粕會川に差し掛かり、川辺に降りて隣村へ行くのに使う橋の下に入った。そこには犬の姿をした幼児向け番組のキャラクターがプリントされたレジャーシートが敷かれていた。四隅はこぶし大の石で押さえられ、近くには彼らがスーパーなりで購入したであろうお菓子や紙パックジュースのゴミが袋に入れられていた。
 私とそこに座って飲み物を渡して、一息つき、甲斐君から昨日の出来事を聞き出した。
 彼は昨日、放課後に久保君と遊ぶ約束をしていたそうだ。しかしいざ登校してみると久保君は欠席だと先生は言う。理由は風邪だそうだが、体調を崩しそうな様子は全く見られなかったので不思議に思ってはいた。が、学校にいては連絡のしようも無いので放課後になるのを待ち、久保家へと向かった。久保家に着きチャイムを鳴らすと、中から母親が出てきたのだが、その目に薄っすら涙を浮かべていたそうだ。それとなく心配すると「玉ねぎを切っていた」と答えたが声が震えているのが奇妙でもあった。次に久保君の容態を尋ねると一際大きな涙を流し、先生と同じく風邪だと言った。ここで食い下がる勇気はなく、甲斐君はお大事にとだけ伝えて久保家を出た。
 これだけでは特に問題が無いように思うが、問題はそのすぐ後だった。自宅に帰るには久保家と隣家の間の狭い通路を行くとショートカット出来、大人が通るには狭すぎるので大人の知らない秘密の通路となっており、遊びに行く時にはよくそこを使用していた。通路には劣化で出来た幾つかの穴があり、覗くと丁度久保君の部屋の窓が見えた。
 甲斐君はその穴の一つを何気なく覗き込んだ。
 すると本来あるはずのベッド、勉強机、漫画が大量にしまってある本棚、その他久保君の物が全て無くなっており、誤って汚してしまったカーテンすら取り外されていた。部屋の中心には父親が佇んでおり、背後から入って来た母親が抱き着いたかと思うと、二人して泣き崩れてしまったのだという。
 それらを見た甲斐君はすぐさま友人達がいつもたむろする川辺へと走った。橋の下がいつもの場所で、二人程カードゲームに勤しむ姿が見えた。そこに久保君の姿はやはり無い。事情を二人に説明し、再度久保家に向かって三人で部屋を確認した。
 更に翌日の今日、先生からは変わらず久保君は風邪だと伝えられ、遊び仲間の一人も体調を崩して休みだと知る。そしてカードゲームをしていた二人は習い事があると思うより話が進まず、成す術なくベンチに座っていた所私を発見したのだ。
 今にも泣き出しそうな彼に追い打ちをかける様で少し気が引けたが、私からも一昨日の公園での一幕の話、次いで昨日の両親との会話を話した。益々混乱する彼を勇気付けてあげたいが、如何せん情報が無さ過ぎた。苦し紛れに
「もしかしたら引っ越しするのかも」
 と言ってはみたものの、彼は今日再度久保家に行き、母親から風邪が悪化したと告げられたようだった。彼の感覚ではあるが、寂しがった久保君が口止めしたとは考えにくいという。加えて部屋には真っ黒なカーテンが取り付けられ、中の様子は伺い知れなかったそうだ。
「やっぱり三階の幽霊に連れていかれちゃったんじゃ」
「どうかな。誰も見たわけじゃないし、何しろ証拠が無いからね」
 引っ越したにしろ幽霊に連れて行かれたにしろ、まずは証拠集めをする必要がある。どんな噂話にしろ伝聞だけでは企画にはなりえない。
 改めて見ると確かに悪くない秘密基地の様に思う。車が通る度にゴオオッとアスファルトを捉える音が鳴り響き、車が来ない時でも川のせせらぎが笑い声をかき消してくれる。散歩する人も少ないければ釣り人もいない、格好の遊び場だ。昔、近所の空き地に桐の葉や竹で編んだ壁を作り、それらしい基地を作った事があった。すぐ脇に小道があり近隣住民も通る為あえなく発見され、数日としない内に取り壊されてしまったが。しかし橋の下であればホームレスが住み着くか、地域のゴミ拾いが入らない限りは大丈夫なはずだ。
「……学校の中とか入れないのかな? 忘れ物したとか見学したいって嘘つけば入れると思うんだけど、ちょっと行ってみる?」
 駄目元でも行ってみる価値はあると思うが、甲斐君はそれを拒否した。
「んー、でも六時からは校舎に入れない様になってるとですよね。グラウンドは部活とかあるから入ってもいいんですけど、忘れ物とかしても入れてもらえなくて。一回、六時ぎりぎりに入ろうとしたらめっちゃ怒られたんで、あんまし行きたくないっていうか」
「六時ってまた早いね……普通先生達七時くらいまではいるはずなんだけどな」
 先生の残業のおかげで生徒達は部活に打ち込める訳だけれども、昨今のやりがい搾取的な問題の延長線上で時間が短くなった、と考えてもいいが。
 時刻は十七時三十分過ぎ。今から向かっても間に合うが、どうせ見るならばしっかりと見て回りたい。学校の外観と三階の様子だけなら帰りに外から確認出来る。
 となると別の場所に行くべきだろう。
「じゃあ、久保君の家はどこにあるのかな? 歩いて行ける距離ならちょっと見てみたいんだけど」
 聞くと歩いて五分程の場所にあり、彼の家もそこからそう遠くないらしい。可能ならば彼らが使用している秘密の通路も通ってみたいものだ。
あまり子供を連れまわすのもよろしくないので、早速久保家に向けて出発した。
 道中テレビ局内についてあれこれ尋ねられた。身近にテレビ局の人間がいるのが珍しいのだろう。既に三年程務めていたので、誰それに会ったとか話したかとかのエピソードには事欠かなかった。勿論自分の担当がオカルト番組なのもあり、出会った人数はそれほど多くは無いが。それに実際昨今のオカルト事情は思わしくなく、番組数自体も減っているから、適当に作れる程の予算が無いのも事実としてある。このまま行けば自身のADとしての立ち位置も微妙なラインである。込み入った大人の事情を話してもどこ吹く風だろうから特に言わないが。
 そうこうしている内に久保家に到着した。
 見た目は至って普通の一軒家で比較的新しく、10メートル弱四方の庭には数本の庭木が植えられている。正面から久保君の部屋は確認出来ない。二階もカーテンが閉じられ中の様子は分からない。
「自転車が無い」
 ふと甲斐君が呟いた。見ると玄関横に作られた駐車スペースの前に立ち、車の横を見つめいていた。彼に近寄って視線の先を見ると、確かに丁度自転車一台分のスペースが空いており、つい最近移動したのだろうと予想出来た。
「いつもここに置いてあったの?」
「うん……あ、はい。もしかして本当に引っ越したのかな」
「どうだろうね、まあ折角来たんだし挨拶だけしてみたら。引っ越しだったら悲しいけど、行方不明になったんじゃないって分かる訳だし。最悪違う県に引っ越ししたとしてもちょっとお金貯めれば会えるんだからさ」
「そっか。そうですよね」
 慰めになっているか微妙なラインだが、ポジティブに捉えるのは悪い事ではない。
「それと、その通路ってのはどこにあるのかな」
「あ、それはこっちです」
 案内されたのは駐車スペースから数メートル先の庭と隣家を隔てる塀付近。昭和に建てられたであろうトタンと瓦が複合した屋根の家、そちらの塀と塀の間に大人が通るには難しそうな細い隙間があった。私はそれなりに体が細い方だと思っているが、この隙間に入ろうものなら大量の擦り傷を作らねば通り抜ける事は出来ないと思われた。ちょっと見てきますね、と言うが早いか甲斐君はするすると隙間に入って行き、中ほどで一旦停止して久保家の方の塀に顔を近づけた。きっとその辺りに穴があるのだろう、十秒程覗きこみ、苦い顔をしながらするすると戻ってきて
「やっぱりカーテンで何も見えなかったです」
 と言った。気を取り直して門扉へと向かいチャイムを押した。
 が、返事が無かった。再度押したがやはり返事は無く、家の中から小さくインターフォンの音が返って来るだけだった。てっきり車があるからいるものだと思っていたが、外出しているのかそれとも居留守なのか。どちらにしろこのまま待ち続けても久保君の両親は出てこないだろう。
「甲斐君、仕方ないから今日はもう帰ろうか」
「……あの、まだ時間ってありますか? 今日休んだやつの所に行きたいんですけど、駄目ですか?」
 何故私もと思ったがすぐに考えを改めた。それはそうだろう。友人の一人が行方不明になり、その翌日に更に一人が休んでいるのだから心配になるのも当たり前だ。ニュアンスからしてそこまで遠くないだろうから、付き合ってから帰ることにした。
「いいよ、行くだけ行ってみようか」
 明るい表情になった彼が道案内を始め、来た道とは逆の方向に数歩進んだ瞬間だった。
「うっ」
 思わず引き攣った声を上げて立ち止まってしまった。横で不思議そうに頭を傾ける甲斐君には見えていないのだろうか。いや、これは見えない方が…………。
 久保家の道向かいの塀にある松模様の透かしブロックの隙間から、その両隣の古民家に並び立つ庭木の葉の隙間から、更に先の交差点の角に設置されたカーブミラーの下部から、幾つもの眼球がこちらを凝視していた。偶然にしてはあまりに鋭すぎる視線だった。年齢は不明だが50代以降の気がする。家の佇まいと塀の古さ、後は私が受け取った空気感でしかないが、その鋭さ……値踏みやまるで不審者の顔を覚える様な……そうだ、公園で受けたあの視線と同じではないだろうか。
 まさかと思い振り返って見上げると、先程まで留守かと思われた久保家の二階、紺色のカーテンの隙間からも二対の眼球がこちらを覗き見ていた。やはり居留守だったか、と、どうして居留守を使う必要があったのか、の思いが交互にやってきては膨れて破裂し、思考を阻害していく。
 今私がすべきなのは一目散にこの場から立ち去る事だ。彼らが私達に危害を及ぼさない保証はどこにもないが、今現在この町中で物騒な真似を起こしはしないはずだ。仮にも人目のある往来なのだから。
 それに御粕會小に通う子供がすぐ傍にいるから、という酷く曖昧な根拠を元にしているが。
「どうかしたんですか?」
「あ、ああ、いや、大丈夫。早く行こうか」
 案内を促して次の目的地まで急ぐ。私が発見出来なかっただけで、ほぼ間違いなくこの一角にいる住人は全て私達を見ているに違いない。
 片側一車線の道路を横断し、前後左右からの視線を感じながら速足で突き進む。出来るだけ見ない様にしているつもりだが民家の隙間があれば自然と目が向いてしまい、例えそこに目が無いと分かっても5秒と見ていられない。たった数秒の間に見知らぬ鋭い目が覗くのではと思われたからだ。
地面と睨めっこしながら事故に遭わない視界の端ぎりぎりで辺りを確認しながら、速足で。
 甲斐君は幽霊のせいで、私は住民のせいで、この果てしなく天気の良い空の下で下を向く羽目になっている。

「着きました」
 3区画過ぎて郵便局に差し掛かり、その一つ奥の交差点を左折した所で目的地に到着したらしい。友人宅は二階建てのアパートの二階にあるようで、カツンカツンと外階段を登っていく。
 夏の暑さのせいではない汗を拭う。
 意を決し、顔を上げてアパート周辺の民家の様子を伺う。垣根や透かしから視線は感じられない。はあぁと大きく息を吐いて、彼の後に続いて階段を登り一番奥の扉の前で止まる。表札には最近書き直したのか、黒の油性マジックで【藤】と奇麗な字で書かれている。
「ゆいとー、大丈夫や―?」
 薄い水色のカーテンが照明で照らされており、中に誰かがいるのは間違いないようだ。甲斐君の行動から察するに、廊下側のこの部屋が彼の部屋の様だ。チャイムを鳴らしても反応が無くよもやまた居留守かと思われたが、小さく鍵の開く音がして藤君の部屋の窓が数センチ開いた。
「…………甲斐?」
 聞き逃しそうなか細く弱弱しい声だった。再度体調を心配すると
「体調は大丈夫…………本当に甲斐なん?」
「え、何言いよっと? まだ調子悪いんじゃにゃーと?」
「いやそうじゃなくて……さしより中入る? ちょっと話さんや?」
「俺はいーけど……」
 言葉を濁して甲斐君が私を見上げる。
「藤君? 覚えてるかな、何日か前に道端で話したテレビ局の」
「あ、はい、えっと、どうしよ。今親仕事行ってて俺しかいないんですけど、あんま人あげんなって言われてて」
 その判断はとても正しい。肩書があろうがなかろうが、他人を家に招くのは危機感を抱くべきだ。勿論、それを上回る危機があれば話は変わってくる。故に藤君は数秒黙ったのち
「……多分七時半には帰ってくると思うんで……それまでだったら」
 と、了承した。
 すぐ開けますと一旦窓が閉まり、足音が移動してドアの前にやってきた。一瞬、開けるのに躊躇したであろう間があったが、チェーンの擦れる音に続いて鍵が開けられ、甲高い音を立てて古臭いドアが開いた。公園にいた内の一人である黒髪の男の子が顔を出した。  
 彼を藤唯人ふじゆいとと仮称する。
 藤家はどこにでもありそうな全く普通の家だった。久しく他人の家に上がっていなかったのもありちょっとした緊張感を覚える。手洗い場の場所を聞き、言われた廊下の突き当り右手のドアを開けると目の前に洗面台が現れた。あまり生活空間を侵す真似はしたくはないのだが、と思いつつ蛇口を捻ると
 ドタドタドタ!
 と、荒々しく足音を立てながら藤君がやってきて
「や、や、やめてください!」
 そう大声をあげて私を注意し、蛇口を閉めた。何故かと聞くが要領を得ない答えしか返って来ず、仕方なく謝り何気なく電気を消すと今度は電気を点け直された。
 彼の目には明らかに恐怖の色が浮かんでいた。手洗い場も浴室も、思えば入ってすぐの部屋とキッチンの蛍光灯も点いていた。後ろから甲斐君が心配した顔で現れて部屋に戻ったので確認出来なかったが、トイレも奥の部屋も電気が点いているのだろう。
 それの意味するところは聞き出すしかないが、まず悪い話になるに違いない。
「藤君……何があったか、教えてくれるかな?」
「……ど……どうせ信じてくれんけん……話しても意味なかもん」
「だからなんば言いよっとやって。はよ話せって、時間にゃーとばい?」
「そんなん言ってもさ、だってお前…………お前、あれ見とらんけん、そぎゃんこつ言えるとぞ」
「あれってなん?」
「それは……」
 急に黙った藤君と、それを見てため息をつき私に目配せする甲斐君。気持ちは大いに察せられた。
「『あれ』って、久保君がいなくなった事に関係してるんだよね。例えば……幽霊を見た、とか」
「いや幽霊ってそんな事ある訳ないじゃないですか。あんなんくぼっちの……まじ?」
 一体何を見ればこんな恐怖に体が震えるのだろうか。がちがちと歯の根が嚙み合わず、涙がズボンに大きな染みを作っている。
「あの、俺……俺」
「大丈夫、ゆっくりでいいから話してくれる? ちゃんと聞くから」
「…………こんなん、話しても信じて貰えないと思うんすけど……昨日の放課後、学校にくぼっちがいたんです」

 授業が終わって校舎内から生徒がいなくなり、部活生がサッカーやバスケに勤しんでいる頃、彼は校舎裏を歩いていた。殆どの生徒は何かしらの部活に入部しているが、藤、甲斐、久保は親の方針もあってか入部しておらず、残りの二人は外部での習い事に時間を取られていた。久保が行方不明かもしれないと甲斐から聞いてはいたものの、やはり信じる事など出来ず、おかしくなったか、あるいは二人してふざけているのではとすら思っていた。
 一度帰宅して一人でゲームをしていたところ、電話が掛かってきた。母からだった。どうせ暇してるだろうからスーパーで卵と豆腐を買って来てくれ、とお使いを頼まれたのだ。一度断りはしたものの、余りをお小遣いにしていいと言われ了承し家を出た。
 スーパーに向かうには民家の隙間を縫って、学校の裏手を通ると近道だった。登校時には使用しないが、下校時にはよく使用している慣れた道だった。学校に近づくとサッカー部の掛け声が聞こえてくる。特に代わりの無いいつも通りの学校の風景だった。
 ある一点、一階の廊下に久保の姿が無ければ。
 彼は久保に声を掛けたが、ガラスが閉まっていて聞こえていない様だ。母からのお使いがある事は分かっていたが、追いかけずにはいられなかった。裏口から正面玄関へと向かう間に、久保が階段を登って行くのが見え彼は足を速めた。
 正面玄関に着き時間を確認すると、17時57分を指し示している。先生に怒られるかもしれなかったが、彼は引き返さなかった。靴箱に靴を投げ入れて階段を一段飛ばしで駆け上がる。階段の途中で会えるかと思ったが、出会う事無く三階に到着した。
 すぐさま教室への角を曲がると、机で作られたバリケードの先、開かずの廊下に立つ久保の姿が目に入った。使う廊下は差し込んだ夕陽で赤赤と染まっていたが、バリケードに阻まれた開かずの廊下はその光が届いていないのか異様な程真っ暗で、白い服を着た久保だけがぼんやりと姿を確認出来た。
「おいくぼっち! 皆心配しとったとに、大丈夫なん?」
 今度は明らかに聞こえる距離にいるのに、教室の方をじっと見つめているだけで全く反応が無い。
「そこ入ったらいかんて先生に言われとるやん、はよこっち来いて」
 何度も呼びかけるが無視しているのではなく完全に聞こえていない様子で、それどころか虚ろな目でブツブツと何かを呟いている。するとどこからか、カチャン、と鍵の音が恐ろしく小さく彼の耳に届いた。六時になり、玄関の鍵が閉められた音だと思ったがそうではなかった。久保の目の前の扉が音も無く開き、止めようとしたが彼は吸い込まれる様に中に入って行く。
 女の子の幽霊に名前を呼ばれ、教室に引き摺り込まれる……想像したくはなかったが、例の怪談が頭を過った。
 噂はただの噂で怪談などある訳が無い。きっと何かに参っているだけなんだ。そう信じて机のバリケードを潜って久保の後を追った。

「がぼっ、がっ、ぐっ……おご、がっ」

 窓には新聞紙が所狭しと貼られ、教室の後ろ側に乱雑に積み上げられた机や椅子。一歩踏み入っただけで吐き気を催す程の凄まじい湿気とカビ、腐った肉の様な匂いが入り混じった教室。
 その真ん中に立ち尽くす久保の真上の天井から、真っ黒いドロドロとした液体が止めどなく降り注ぎ、彼はそれを飲み干そうと溺れていた。
 真っ暗な教室でどうして姿が見えるのか、天井から降り注ぐ液体が何なのか、久保の話は本当だったのか。それらの疑問を吹き飛ばすあまりの異様な光景に彼は腰を抜かし、久保が黒い水をがぶ飲みする姿をただ見ているしかなかった。
 そして天井から流れる水が滴る程度に落ち着いた時、いつの間にか久保のすぐ隣に女の子が一人立っているのに気が付いた。女の子は天井を見上げていた。
 怪談に出てくる女の子だ。直感的にそう思ったそうだ。
 その女の子が天井から久保へと視線を移した瞬間、ぱしゃりと音を立てて彼の体が崩れ落ち、床一面に黒い液体が散らばった。
 その後どうやって家まで帰り着いたか、よく覚えてはいない。着ている服が着物だったか制服だったか、仔細も全く思い出せない。しかし、すぐそこにあったはずの命が消える感覚と、教室から逃げ出す際に背後から自分を呼ぶ何人もの声だけは今もはっきりと思い出せる。
 今もまだ目の前にいるかの様に。

 だからか、と私は納得した。家中の電気が点けられ水の音に怯えているのは。話を終えて泣き震える彼は昨日夜から一歩も家を出ておらず、家族に説明のしようも無い為に仮病を使って部屋に閉じこもっていたそうだ。
 人が消える現場を目撃し、名前を呼ばれ女の子の姿が見えてしまった。次は自分の番かもしれない。いや、きっとそうだ。外の暗闇に廊下の隅に、あの女の子がやってきて久保君と同じ目に遭ってしまうんだ。そして藤君は一睡もせずに朝を迎え、陽の光が部屋に差し込み母親が朝ごはんの支度を始めると同時に眠りについた。
 現在彼は何も見聞きしてはいないがそれも時間の問題だろう、というのが私の見解だ。彼に伝えるか否か判断が難しい所だが、例のあの匂いが、この家に入ってからずっと鼻を刺激していた。隣に座る甲斐君が感じている様子は無かったので私の勘違いかと思っていた。しかし、この淀んだ匂いを嗅いだその翌日に今聞いたばかりの惨状になるとしたら、藤君にはあまり時間が残されていない理屈になる。迷っている暇は無い。
「甲斐君、率直に教えて欲しいんだけど藤君って今匂う?」
 質問の意味を分かっていないのか怪訝な顔をする二人。昨日風呂に入っておらず臭いのは重々承知しているが、大事なことだからと念押しし匂いを嗅がせる。
「え、くっさ。お前どこ行ったん」
 額に皺を寄せて顔を背け、ドブみたいな匂いだと比喩した。
 出来れば外れて欲しかった予想が当たった……例え更なる恐怖を彼に与える結果になったとしてもここ数日の話をしなければ。いや、むしろするべきなのではないだろうか。久保君はただ目の前に現れ、いつの間にか教室まで誘われてどこかの世界に連れ去られてしまった。藤君が発見するまでに何が起きたのかは知りようが無いが、まず間違いなく教室の出来事をきちんと見たのは彼だけだ。現状一番恐怖の現場を見た彼ならば、親の協力を得られるのではないか? 時間を確認すると十八時三十分過ぎ。親が帰宅するまであと一時間……。
 公園での出来事と久保家周辺の住民の行動、それに私の家族の不可思議な言動を事細かに説明した。既に泣いていた彼だったが、説明が終わる頃にはもう涙も出尽くして過呼吸を起こしかけていた。近くにあったティッシュの箱がもう空に近い。病気ならまだしもなどと口が裂けても言えないが、ほぼ即日の死刑宣告をただの小学生が受け止められるわけがなかった。
「俺どぎゃんしたら……? 何でも、言う事聞きます。あんな死に方したくない……何か、あれから逃げる方法は何かなかですか? き、昨日から水が……黒い水が」
 霊から逃げる方法なんてあるなら教えて欲しいくらいだが、そんな弱気な事を言っていられない。物理的に殴って解決が可能なら手っ取り早くて助かりはするが、そんな上手い話は無いだろう。きっと帰宅後すぐに実行したであろう盛り塩は期待出来ない。結界を張るなんて高度な技は持ち合わせていないし、お祓いも同じくだ。滝方面への道半ばにある宮若神社で頼めるかどうか怪しいが、選択肢には入れておいてもいい。後は真帆に頼る他ない。彼女であれば私よりも有用な解決策を出してくれる。一つ提案はあるが了承が得られるかは分からないし、藤君の親の協力が不可欠でもある。先に了承を取っておくべきか……?
「二人とも、ちょっと電話してくるから待っててくれる?」
「え、え、どこ行くんですか?」
「大丈夫、もしかしたら力になってくれる人がいるから、試しに聞いてみるだけ。すぐ戻るよ」
 外に出、ガラス越しに二人の姿が見えるが話している様子はない。それぞれが信じられないと考えているのだろうが、真意は若干違う所にあるだろう。
 外に出ると未だ太陽は町を照らしていた。建物の影は横に伸びきって町に張り付き、生命力に物を言わせた蔦系の植物が覆っていく様に見える。一度根を張った蔦はそうそう根絶やしには出来ず、コンクリの壁の隙間に入り込んで壁を割って行くらしい。ぱっと見古民家に張った蔦はお洒落に見えはするが、その実、最終的に処理しようとすると大変なのだ。少しでも残っていればまた根を伸ばし始める。やるなら徹底的にやらねば根を断つ事は出来ない。

「ただいまー」
 玄関のドアが甲高い音を立てて開き、重量のあるビニール袋が置かれ振動が壁越しに響く。靴を脱ぐのに手間取っているのか、カツカツと幾度かのステップの後、荷物分の重みを足した足音が廊下を移動していく。
「ゆいとー? 元気んなったー? 今日はねー、職場の人に教えて貰った絶品シチューば作るけんね、楽しみにしときなっせー」
「お母さん」
「おお、なんね起きとったんね」
「うん、あ、おかえり。あの、ちょっとその……話があるとだけど」
「話? 話ってなん?」
「それがえっと……実はその」
「なーん? さっさ言いなっせ」
「すいません、お邪魔してます」
「わっ! ……誰?」
 手に持っていたアイスの箱が床に落ち、衝撃でカップが一つが飛び出して床に転がった。それを拾おうとする前に彼の母親は、キッチンの上に差し込んである包丁に向けてゆっくり手を伸ばし始めた。家の中に見知らぬ、それも息子よりもかなり年上の男が座っていたら驚くのも無理は無いが、意外と思い切りの良い母親だなと私は思った。
「ど、どなたですか?」
「息子さんと仲良くさせて貰ってます、桑名と言います。実は息子さんの今後の事でご相談したい事がありまして、不躾かとは思いましたが上がらせて頂きました」
「はあ……」
「そんなにお時間取らせませんので、食材を直すまでお待ちします」
「じゃあ……少し待って貰えます?」
 一対一なら話にもならないだろうが、息子がいて、その息子の事で相談となればテーブルに着くくらいはしてくれると踏んだが成功だったようだ。チラチラとこちらを伺いはするものの、包丁を取り出すような真似はしなさそうだし、第一段階はクリアしたと言っていい。
 食材を冷蔵庫に仕舞い終わり、麦茶を注ぎ私に差し出した。
「ご丁寧にありがとうございます」
「……それで息子の事でなにか?」
「その前に一つお伺いしたい事がありまして、息子さんらの中で学校に纏わる噂話があるのはご存じですか?」
 母親の眉毛がピクリと動いた。
「いえ……それと何か関係が」
「ええ。もう少し具体的にお伝えしますと、学校の三階に誰も入らない開かずの教室ならぬ開かずの廊下があるのはご存じですよね? 授業参観か何かでご覧になった事があるはずです。そこに幽霊がいる、という噂話なのですが」
「まあ……見た事はありますが、そんな噂話があるとは知りませんでした。あなたもしかして宗教か何かの勧誘ですか? そういうのうちお断りなんですけど」
「いえまさかそんな。私は無宗教ですので、入信がどうとか壺を売ったりだとかセールス的な話でもないです」
「じゃあ何ですか? 正直気持ち悪いんで早く終わらせて欲しいんですけど」
「息子さんがその噂話、学校の怪談に巻き込まれてるっていう話なんですよ」
 目を見開いたまま固まった母親。反応からしてやはり知っているようだ。すかさず私は畳みかけた。
「息子さんと仲良くしていた久保君、ご存じですか? どうやら彼は昨日から失踪しているらしく、息子さんも、同じく甲斐君も探していたそうなんです。家には勿論、町中にはいない。甲斐君の話によると久保君の部屋の荷物が全て片付けられていたそうですし、引っ越しかなとも考えたんですが、そうでもないようで……ここからが本題なんですが、昨日唯人君にお使い、頼みましたよね?」
 固まっていた母親が私を見、そして息子へと視線を移した。驚愕、恐怖、焦燥。そういった感情が簡単に読み取れる。恐らく順風満帆だった彼らの生活に入り込んだ怪異。こんなに動揺している親を見たのは、彼の短い人生において初めてではなかろうか。
「その途中で学校に──」
「か、帰ってください」
 予想していた通りの反応が返ってきた。宗教勧誘と思った、のではなさそうだが、有無を言わせぬ言い方は知っている人特有のテンプレートなのかもしれない。
 私の父と同じように。
「あなたがどこの人かは知りませんけど、うちの子には必要ないです。お引き取りください。じゃないと警察呼びますよ」
「唯人君に関わる大事なことなんですよ?」
「今時テレビでも取り上げないような話なんて誰が信じるって言うんですか。もう息子に関わらないでください……本当に警察呼びますからね」
「……分かりました。ごめんね力になれなくて……じゃあお邪魔しました」
「桑名さん……」
 背後からのチクチクした目線を感じながら、足早に藤家を後にした。小学生に任せるなんて無責任だと言われても甘んじて受け入れるしかない。いくら理由を並べても他人と家族じゃ説得力が違うのだから。

 帰り着く頃には夕食の時間はとっくに過ぎてしまうだろうが、こんなど田舎でタクシーを拾うのはほぼ不可能に近いし、当初の予定通り歩いて帰るしかない。ついでに学校の外観でも見て、教室に所狭しと貼られている新聞を確認するとしよう。
 グーグルマップで現在地と学校までの最短ルートを確認し、案内に従って歩いていく。地元とはいえ案外知らない道もあるもので、小さいながらに駄菓子屋や個人経営の電気屋もある。この辺に住んでいる子供達が住宅ひしめく狭い道を通り、町中を縦横無尽に駆け巡っているのが目に浮かぶ。
 壁や窓の隙間からの監視付きで。
 学校までの道のりはそう遠くなく、速足で十五分弱で到着した。もう既に裏門の柵は閉まっており、サッカー部や他の生徒先生等の声も聞こえない。藤君が久保君を発見したのはここか。校舎内に薄っすらと入り込んだ光で、下駄箱とそのすぐ横にある階段が確認出来る。上階へと目線を上げていき三階、例の廊下と教室を探す……人がいない巨大な建物程静けさが際立つ。
 実は全てがドッキリだったりしないかと宝くじに当たるくらいの淡い期待をしていたが、三重に並べられた机のバリケードを見て「そうかあ」と溜息をついた。
 暗くて詳細は分からないが、机と机はチェーンで補強され倒れない仕様にしてあるようだった。小学生くらいの体格ならばどうにかして通れなくもないだろう。久保家横の秘密の通路しかり、子供は大人が思いつかない、思いもよらない場所に侵入したがるものだ。神社の軒下、飼育小屋の屋根の上、藪の中にある廃小屋。自身の過去も思い浮かばれる。
 そのバリケードの先に教室があるのだが、角度的に教室の天井の一部しか見えない。あそこからどす黒い水がバケツをひっくり返したみたいに流れ出たという話だったが、遠目からでは普通の天井に思える。幽霊は突然そこに現れるものだし、いつもは普通の天井で発現する時にだけ変化があるのかもしれない。どちらにしろ私が入ることは叶わないが。
 教室の反対側も同じく封鎖され、証言通りの『開かずの廊下』となっていた。
 教室一つを丸々封鎖するなんて、相当の理由が無ければまずしないだろう。それが天井の老朽化によるものだとするならば、すぐ両脇の教室は勿論階下も危険極まりない。すぐにでも補強工事なりするべきである。金の工面が難しい、と言い訳も出来るが金持ちロードがそれを否定しているし、何よりそんな危険な場所に子供を通わせられるとは考え難い。震災の影響か……? 
 近くの家々から醤油や香辛料の香りと談笑が道に転がって来る。私の家も昔みたく談笑する日が来てほしいが……学校を後にして帰路に着く。
 実家へと帰るには大きく分けて道が三つある。山間部から金持ちロードを直進し、丘を一つ越える新道、もう一つはその丘をくねくねと登って行く旧道。そして今は私が歩いている広大な田んぼを突っ切る農免道だ。時間的には大体同じだが、丘を行く道はゆるゆると登り続けなければならない為、中学からの帰宅時にはこちらを使用していた。逆に登校時は登り切ってしまえばずっと下り坂なので新道か旧道を使用する。
 周りが田んぼのみだから人はおろか車も殆ど通らない。点在するビニールハウスの中で人影が動いているのが遠目に見える。何を作っているのか聞いた気もするが、すっかり忘れてしまった。
「あ、もしもし。少し時間大丈夫ですか?」
「えーっと……まあ少しなら大丈夫だけど……今一人?」
「そうですね、田んぼのど真ん中なので」
 時間的に食事の最中だったのかもしれない。電話の奥から優紀の声がそこにいるかのように響いてくる。
「ごめんそれで……何か用事だったかな?」
「用事って程でもないんですけど、聞きたい、確認したい事がありまして」
「確認? 何の?」
「この前の話覚えてます? 公園での事なんですけど」
「ああ……まあ、そうね、覚えてはいるけど」
 歯切れの悪い物言いに私は確信した。
「2つ聞きたい事があって、優紀に代わってもらえたりしますか?」
「優紀に? 今ご飯食べてるからちょっと難しいかな、ごめんけど」
「そうですか、じゃああと一個優奈さんに聞きたいんですけど……昨日、父から電話ありましたよね?」
「…………」
 やはりあの電話は優奈に掛けていたものだったようだ。違っていたとしたらそれはそれで謎が深まるだけだが、これで家族が抱える秘密に少し近づける。優奈が答えてくれればいいが。
「何言われたか教えて貰えたりしますか?」
「……いや、まあほら子育てに関してだったから。聞いてもあんまり意味ないんじゃないかな?」
「話に出てた男の子が行方不明になってても、ですか?」
「え──」
「いや、違うか、そうじゃなくて、行方不明になるかもしれないから電話があったんですよね。例えば何だろう……暫くこっちに寄るな、とか言われたんじゃないんですか?」
 また黙り込んだ優奈の横で、どしたのーと声を掛ける優紀。
「父さんから何を言われたにしろ、一人の男の子が行方不明になったんです。しかももう一人既に巻き込まれてるんですよ。僕らにとっては全くの赤の他人だとしても助ける手段があるんならそうすべきです。それに……また家族に隠し事されるなんて嫌ですよ。隠し事があったからあの時」
「それを持ち出すのはずるいでしょ…………話したら縁切るって」
「何言ってるんですか。幽霊にしろ事件にしろ子供が行方不明になってるのにそれを黙ってろって、関与してますって自白してるのも一緒ですよ。自分の親に対してあれですけど、そんな人とは縁切る方が良いと思いますけどね。借金とかがあるんなら話は変わってきますけど」
「…………すぐに掛け直すから五分くらい待ってて」
 優奈はそう言って電話を切った。
 全くの赤の他人。自分で発した言葉の意味を改めて考える。
 出会った誰も彼も親戚でも友人でもクラスメイトですらないのに、わざわざ事件に首を突っ込む必要がどこにあるのだろうか。見て見ぬふりをすれば自分の人生に何の影響も無いし、親との関係性が不安になることもない。昔から厄介ごとに首を突っ込む傾向があったかと聞かれればノーとは言えないが、自分の身を危険に晒してまでやることか。
 こちらはイエスだ。どれもこれも十年前の事件のせいなのは間違いなく、それを優奈も分かっているから無下に断らないでいてくれる。
 まだ家族の中に秘密があるのということがどんなに気持ちが悪いか、優奈も分かっている。
「もしもし」
「手短に話すけど、まず伯父さん達には黙っておいてくれるのよね?」
 優奈からの折り返しだった。開口一番、いつにも増して語気が強い。
「絶対言いません。今、両親にも町にも不信感しかないですし、またかよってちょっと呆れてる部分もありますし」
「でもどうするの。まさかあなたがこの意味不明な問題を解決するつもりなの?」
 やれるかやれないかはさておき、沈黙で答える。
「はあ……私も手伝ってあげたいけど、私には優紀がいる。だから大した事は出来ない」
「大丈夫です。気持ちだけでも嬉しいんで」
「……一回しか言わないからね。伯父さんが言ってたのは優紀が不審者に目を付けられたかもしれないから暫くの間御粕會に来るなってこと。多分公園にいただろうから優紀が見たかどうか確認して、もし見てたらすぐに連絡して、出来るだけ遠くに逃げること。不審者は伯父さん達がどうにかするらしいから、とにかく私は関わるなってこと。ちなみに優紀は着物の人は見てないって。だからそういう意味では大丈夫だと思うけど」
「……匂いについては何か言ってなかったですか?」
「匂い?」
 久保、藤両名から放たれた異臭の話を若干の推論はありつつも伝える。しかし、返ってきた答えは「覚えていない」だった。自我が芽生えて間もない子供に、数日前の匂いを覚えているか、と聞く方が無茶というものだったか。あの匂いを嗅いだら小さい子なら思わず臭いと声に出しそうなものだし、優紀は何も感じ取れてはいないのかもしれない。幼い子の方がそういうものに敏感とはよく言うが、そうじゃない子供だっただけだ。一応、優紀に関しては一安心としていいだろう。
 匂いに気を付けてと注意した直後にキャッチフォンが入り、礼を言って優奈との電話を切った。切る間際に無茶はしないでねと釘を刺されたが、私も死にたい訳ではない。むしろ心地よく生きる為には必要なのだと思う。
収穫はあった。根本的な解決策ではないにしても、天気予報の様に備える事はできる。確実に濡れる土砂降りの雨でも傘が無いよりはマシだろう。
「………もしもし、桑名さんですか」
 知らない電話番号に出ると、聞き馴染みのない女性の声がした。だが、その声の主が誰なのかはすぐに分かった。
「あの……藤ですが……桑名さんの携帯で間違いないでしょうか」
「はい、そうです」
「先程はその……本当にすみませんでした…………唯人から色々と聞きましてその、身勝手なのは重々承知してますが……唯人を助けては頂けないでしょうか」
 実家のある方角を見ると黒々とした木々は風に揺られて、荒れる波の様にうねっている。荒れ狂う波は葉の擦れる音と共にあの淀んだ匂いを運び、以前と同じ忌避感を覚えさせた。
 まだ実家に帰る事は出来ない……一度目の長い夜が始まろうとしていた

 県境の山間にあるガードレールも舗装もされていない細い山道を、一台の車が走っていた。街灯の一つも無く、慎重に進まなければ頭から針葉樹にぶつかるか、崖下まで真っ逆さまに落ちていくだろう。車中には重々しい空気と淀んだ匂いが充満しているが、窓を開けようものなら凄まじい勢いで蛾やカナブンといった昆虫達が列挙してやってくる。現にヘッドライトに誘われた虫達が、ペチペチと鞭を叩いた様な音を立てて車体にぶつかっては、その中身を汚らしくぶちまけていく。
 運転席には藤唯人の母親、助手席には真帆、後部座席には私と藤君の四人で、とある神社へと向かっていた。
 藤君の母親からの電話のあと、私はすぐに真帆へと連絡し、やはり今日のうちにも応急処置的な措置が必要だと伝えた。真帆は私からの連絡がある前には既に彼女の祖父、つまりお祓いが可能な神主へと取り次いでいてくれたのだった。緊急を要すると思っていたから、この根回しは大変ありがたかった。事が済めば改めてお礼をしなければいけない。
 しかし、道中に何の問題も無かったわけではなかった。母親と共に私のいる農免道まで来てもらい、いざ出発し隣町に入ろうかという時、突然藤君が後部座席のドアを開けたのだ。それも走行中に、だ。なんとか取り押さえられたからいいものの
「呼んでる、行かなきゃ」
 とただ一点を見つめながら連呼するばかりで、大人の私が押さえても危ない所だった。それが隣町に入り、段々と御粕會から遠ざかると落ち着いていき、市を出る頃には正気を取り戻したのでどうにかなったが、もし私が助手席にいたらと考えると背筋が凍った。何故開けたのかと尋ねると
「女の子がこっちにおいでって言うから、行かなきゃって思って開けた」
 そう言い、開けたら危ない事は分かっているのに、抗いがたい衝動に駆られたという。
 真帆と合流する為に県境付近に停まる新幹線の駅に向かい、三十分程待つと彼女が現れた。幾つかの紙袋を持っていたので荷物持ちを申し出ると、彼女はそれを断った。入っているのはお酒や食材の様だが、彼女以外に触れさせないよう祖父に言われたらしい。
 藤親子との顔合わせをそこそこに済ませ、神社に向かって出発した。
 祖父は数年前までは神主業をやってはいたが、客足の少なさと腰を痛めて仕事に支障が出始めたのをきっかけに辞める事を決意したそうだ。代々続いてきた神社を絶えさせる訳にはいかないので、月に何日か真帆が神社へと出向き、作法などを教えて貰っているとのことだった。
 神社は普通の神事とは別にお祓いや供養を請け負っており、世に出はしないものの、界隈では有名だそうだ。私も名前だけは聞いたことがあり、それなりの評判があるのは確かだが、如何せん山間にあるので、本当に困った人しか訪れないらしかった。
 そしてこの神社に行き着くまでにも、ある種の審査があるようで、その本当に困った人ですらふるいにかけており、その一端を真帆は担っていた。
 つまり、彼はそのふるいに不幸にも合格してしまった事になる。
「今までに一度しか嗅いだことが無い、ドブと腐った肉だけじゃ言い表せない程の悪臭」
 これが藤君から感じられた匂いなんだそうだ。全く霊感の無い一般人の私ですら分かる匂いが、収まったとはいえ敏感な真帆には耐え難いだろう。
 可能なら窓を開けたいそうだが、前述の通りの山道なのでただただ耐えるのみだった。
 麓から大体一時間くらいかけてその神社に辿り着いた。いや、鳥居を潜ってから更に十分程高さのバラバラな石造りの階段を登らなければならなかったので、本殿が見えてやっと着いたと言うべきか
 境内に入るとすぐに奇麗な白髪のお爺さんが現れ、真帆に向かって
「ぬしゃなんちゅうもん連れて来たつや!」
 と怒鳴りつけた。
「こりゃ俺の手に負えるか分からんぞ……婆さんがおれば違ったかんしれんが、いやこれは……どぎゃんしたもんか」
「でもお爺ちゃん、お爺ちゃんが連れて来いって言ったから」
「かーっ……だけんいつまっでん任せられんとぞ」
 目の前で口論を始めた二人。私が霊の程度を判断出来ないのがもどかしいと思ったのはこの時が初めてだったが、程度がどうであろうと気持ちが変わらないのはこの場で一人だった。
「こんな夜分に押しかけてしまい、申し訳ありません。藤と申します。どうかお孫さんを責めないでくださいませんか……悪いのはお孫さんではありません。私の息子が今どういう状況にあるのか、少なからず知っているつもりではありますが、その『つもり』を長年見過ごしてきた私の責任です。その上で、ご迷惑を承知で、大変図々しいのは分かっておりますが、どうか……どうか息子の唯人を助けては頂けないでしょうか。お金なら幾らでも用意します。どんな言う事でも聞きます。私が身代わりになっても構いません。お願いですからどうか……どうか唯人を助けてください」
 膝を着き、頭を地面に擦らせて懇願する母親。そんな姿を今までに見た事があるだろうか。もしかすると口論していた二人はあるかもしれない。だが、彼はほぼ確実にないだろう。それは幽霊を見るよりも衝撃的な光景に映ったに違いない。
「お母さん」
「いいから。唯人はお母さんが絶対守るから。もう……お母さん、誰も亡くしたくなか」
 あれだけいた虫達も示し合わせたようにこの沈黙を邪魔しなかった。
 ここまで父親の話題も出ていなかった。十年前の震災なのか、事件事故なのかは不明だが、もしかすると父親をどこかで亡くしているのだろう。
「お爺ちゃん、折角ここまで来てくれたんだよ。せめて一日だけでも」
「なんば抜かすか、すんなら最後までせなんた……しもうたなあ、これは準備が足らんかんしれん。奥さん……頭ば上げて貰って、息子さんば連れてから、あっこ見ゆっ小屋さん行ってもろてよかですか」
 涙ながらに顔を上げ、神主の足元に縋りつく母親。
「ありがとうございます……ありがとうございます」
「まだ何もしとらんですけん、とにかく今日終えてから改め聞かしてください……で」
 神主は母親から私に視線を向けて言った。
「ぬしゃ、こっから出ていけ。お前がおったら助かるもんも助からん。して二度と敷地ば跨ぐな。分かったや? 分かったつならはよどけさんか行け」
「爺ちゃん何でそんな事言うの!? 桑名君が色々してくれたって言うのに」
「夏帆は黙っとれ! こん阿保が!!」
「でも!」
「水城さん、大丈夫」
 食い下がる真帆を静止する。訳が分からないといった表情をしているがそれも無理はない。分かる人には分かるものなのだ、と思うしかない。
「唯人君をよろしくお願いします。僕は一旦車まで戻ってますので、何かあったら知らせてください。水城さん、二人をよろしく」
 藤君の母親から車の鍵だけ受け取り、今登って来たばかりの山道を歩いて戻る。後ろから私を呼び釈明を求める声が聞こえたが、振り返らずそのまま降りた。
 あまりに真っ黒過ぎる視界と明るすぎる携帯のライトで目がチカチカとして、何度か階段に躓きかけたが、無事車まで辿り着いた。
 その神社で行われた何かしらは、後日送られてきた藤君の手紙で判明するが、とにかくここでは彼が助かった事だけは記しておいた方がいいだろう。
 私が車に戻ったその一時間後、真帆が一人で降りてきて車の窓を叩いた。私は体を起こしてドアのロックを解除し、彼女はまた助手席に座った。
「大丈夫? お腹空いてない? 喉とかは?」
 まず体の心配をしてくれるのが彼女らしい。その優しさに甘えているのを自覚しているが、どうにも律するのが難しい。恋心ではないが、尊敬とか羨望を抱いている面は否定出来ない。
「まあそれなりにお腹は空いてる。とりあえず水くらいあればとは思うけど、流石にこの辺自販機とかないよね?」
 一点の光も見当たらないが念の為に聞いてみる。
「あと10キロ行けばあるかも……」
「えーまじか……」
「ってまあここに水筒とおにぎり持ってきましたけどね」
「えー、まじかありがとう。実際どうしようかなって悩んでたんだよね、助かります」
「どういたしまして」
 氷入りの水が体によく染み渡る。簡単な塩むすびにかぶりつくと胃に物が入って余程びっくりしたのか、急激に疲れが襲ってきた。よくよく考えれば昼ご飯以降飲み物しか飲んでいないし、合流する前にそれも無くなってしまっていた。加えて実家で作業した後に町中から農免道まで歩き、更にそこからの移動に次ぐ移動。疲れて当たり前だ。頼んだ訳でもないのに察して用意してくれるなんて、つくづく彼女には頭が上がらない。
 おにぎりを食べ終わり一息つくと、真帆がバックミラー越しに渋い顔で尋ねてきた。
「その……ごめんね? 本当は社務所で待って貰えれば良かったんのにお爺ちゃんが頑固だから……それでその、お爺ちゃんが君とはもう関わるなって言われて、私には理由が分からなくて凄い困惑してるんだけどさ……私に話してない事ってある? お爺ちゃんに分かって私に分からない事がままあるにしても、あそこまでって初めてだったから」
「……うーん」
 神主、お爺さんには私がどんな風に見えていたのだろうか。タイトルは忘れたが悪魔と戦うエクソシストが主人公の少年漫画で、確か主人公が悪魔の魂が見える設定があった。敵が強くなる毎にその魂が醜くなっていくらしいが、そんな見え方でもしていたのか。
「無理に話す必要は無いからね。話したくなったらでいいから」
「そうねえ……もう十年も前の話だし殆ど時効みたいなもんだから、話してもいいかなって思ってはいるんだけど……ああ、そうだ、藤君のお母さんは?」
 神社の様子を伺うがやばそうな雰囲気は察しえない。むしろ、真帆も普通に降りてきたが、熊などの野生動物の方が物理的な面で危険である。せめて複数人で移動したいが、こうも電波が無ければ連絡の取りようもない。
「声は掛けてきたけど最低でも朝になるまでは来ないと思う。息子が死ぬか生きるかの瀬戸際なら近くにいたいだろうし」
「じゃあまだ時間はあるか……ぼちぼち長い話になるし、聞き苦しい部分もあるから休憩したかったらいつでも言って」
「分かった」
 外の暗闇に目を向ける。今日は月も出ておらず余りに生い茂る木々のせいで、外も車内も本当に真っ暗だ。唯一情報として入って来るのは風に揺られる木の葉と、二人の息遣いのみ。今もこの闇に紛れて霊が唯人を襲いに来ているのだろうが、私には一切感じられない。いつか私もチューニングが合えば、真帆や神主が見ている風景を感じ取れるのか、あるいは一生その可能性は無いのか、それは分からない。
 しかし私もまた、闇が恐ろしい物であることはよく知っている。怪談の怪談たる所以は、幽霊が出る『結果』が怖いのではない。
 幽霊に成るに至るまでの『過程』、人の常軌を逸した思考が垣間見えるからこそ恐ろしいのだと私は思う。
 私の実家がそうであったように。


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