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水は天井から滴る 第七話

禁足地

 目を覚ました時、まず感じたのは後頭部の痛み。突き刺す様な痛みと鈍く広がる痛みが同時に襲い、その後チカチカと目の前が光り始めた。その光が携帯から放たれるライトだと分かるのには少々時間がかかり、それから頭が白い人物が何かをしているのが目に入った。その人物が誰なのか分かるのには、もっと時間と痛みに慣れる必要がありそうだった。
「もう起きて来たの。ドラマだともっと遅かったのに」
「誰……」
 朦朧としながら目の前で作業している人物に問いかけた。後頭部に感じる熱さが思考を邪魔しているが、私は床に倒れている事に気が付いた。
 陽菜ちゃんと桑名君は大丈夫なのか。クリアになっていく頭で次に浮かんだのはそれだったが、意識がはっきりして目が暗闇とライトのコントラストに慣れてくると、大丈夫では無いと分かった。
 震える陽菜の目の前で光輝がうつ伏せにされ、後ろ手に紐でしばられていくのが見えたからだ。
 そして光輝を縛る頭の白い人物は、包帯を頭に巻いた南郷だった。
「南郷……さん、何してるんですか」
 と問いかけても
「こうするしかないのよ、これしか方法がないの、これしか」
 と返すばかりで縛るのを止めてはくれない。状況を把握しようと立ち上がろうとしたが全く動けず、そこでやっと私も縛られている事に気が付いた。 
 それまで感じていた恐怖とはまた別の恐怖が私を襲い混乱させる。私はとにかく光輝を起こそうと叫んだが、床に置かれたチェーンカッターでやたらめったらに殴られ
「静かにして! 誰か来たらどうするの!」
 と威圧する南郷を前に閉口するしかなかった。私に叫ぶ意思が無くなったのが分かると殴るのを止めてくれたが、何故こんな事をするのか聞かずにはいられなかった。すると南郷はこう答えた。
「何よ、いいじゃない、元々はこの家の子が死ぬ事になってたんだから。それなのに梨香子が犠牲になるなんておかしいと思わないの? 私ね、梨香子が戻って来るって信じて色々頑張った。もしかしたら情報が得られるかもしれないと思って学校には勿論役場にも行ったし、町中探し回った。でも駄目だった。全然教えて貰えなくて、そしたらあのパンフレットよ? こんな、こんなに人に馬鹿に出来るのって学校に怒鳴り込んで……この部屋に通されたの。なんでも霊が出るって言うからじゃあ見せて貰いましょうかって。そしたら本当に出て来るじゃない……だから梨香子を諦めるしかなくて……でもこの前我が家にこの子が現れた。この幽霊を作り出した張本人の、その子孫の子供が。こんな事ってある? 怒りで体が震えたわ。二人が帰ってすぐに車で追いかけたの。あとは分かるでしょ? あれから病院を抜け出して、あなた達が学校に入って行くのを見かけた……話を聞く限りじゃ、幽霊はまず間違いなく長住家に恨みを持ってるだろうから、直接手を下す必要はなさそうだし一石二鳥よ。いや、むしろこれで幽霊がいなくなってくれるんなら一石三鳥かしら。あなたとこの何とかさんには申し訳ないけど、邪魔されても困るし、ついでに居なくなってもらうことにするわ……じゃあ早速入りましょうか」
 そう言って南郷は教室のドアを開け放った。教室の中には懐中電灯の光も届かない程深い闇が広がっていた。
 光輝を見ると頭から血を流していて、廊下には細く血が線を引いている。私と光輝は引きずられて教室の中に入れられ、陽菜は髪の毛を掴まれて強引に放り込まれてしまった。抵抗しようとしないのは「逃げたら二人を殺す」とでも言われているからだろう。
 カビと埃の臭いが充満している教室の後方には、乱雑に片付けられた机と椅子が山積みにされ、いつからあるのか分からない掲示物と、黒板には何年前かにいたであろう生徒の名前が日直の欄に薄く残っていた。南郷は私達を教室の真ん中まで運んだ後、液体が入ったコップを真横に置いて入り口付近まで下がっていく。
 何を、と聞こうとした瞬間。それは突然始まった。

 どこからかゴボゴボと水が湧き出る様な音がしたかと思うと、光輝の体が激しく痙攣し始め、口からどす黒い水を大量に吐き出し床を黒く染めていく。陽菜は小さく悲鳴を上げそれに当たらないよう身をよじるが、水の勢いは凄まじく陽菜の服は汚れていく。辺りにはドブの臭いが充満し、一息吸うだけで吐くのを止められない程だ。
 明らかに人一人の体積以上の水を吐き出した光輝はそのまま動かなくなり、静寂が教室を満たした。

ぽちゃん

 いつの間にか私と光輝の間に出来た黒い水溜まりの上に、片方だけの赤い上靴が浮いている。廊下にあった物かどうかは分からない。
 もう一度

ぽちゃん

 教室に響いた音は、私の背後から聞こえてきた。
 震えながら頭を動かすと、視界の端に誰かが立っていた。

 水滴が私の頬を滑り落ち、口元を通って床に落ちていく。指紋の無い指でなぞられた様な感触に、何故か私は強い怒りを感じた。起こった感情が私からなのか流れ込んできたのか分からないが、とにかく強い怒りを感じた。しかし恐怖を上回ったのはほんの一瞬で、すぐさま背後に立つ霊の事で頭が一杯になっていく。これまで姿を見せなかった霊が具体的な形を成してそこにいる。半透明だとか足が無いだとか歪な形をしているなんて事はなく、昔ながらの制服を着た女の子の姿で目の前にいる。水に濡れているのを除けばあるいは普通の子に見えたかもしれないが、彼女が一人でない・・・・・奇妙な確信と、彼女の目が放つ殺意がそうではないと思わせるには十分だった。
 川の底の鈍重なぬめり、冬の森の濃霧……大自然の力の様な冷たい殺意の塊。それらが凝縮されこの少女の中にひしとうごめいている。
 その塊がゆっくりと動き始めた。足が私の体をすり抜けるとその部分だけがぞわりと冷え、ごっそりと熱が消えた様に総毛立った。彼女は目の前の私を無視しそのまま光輝の傍に歩み寄っていく。彼女が私達の間に黒い水溜まりの上に立つと、まるで底無し沼に倒れこんだかの様に光輝の体がゆっくりと床に沈んでいく。
「やめて!」
 と思わず叫んだ。お願いやめてと何度も叫んだ。口の中から血が飛び水溜まりに消えていく。
 どうにかしようとして這いよろうと藻掻いても金縛りにあって全く動けず、ただ、叫ぶことしか出来ない。折角持ってきた酒も何の役にも立たずそこに置いてある。
 準備してきたのにまさかこんな形で使えなくなるなんて。
 光輝の髪が、服が、お気に入りの眼鏡が、ゆっくりと沈んでいくのをただ見ているだけ。彼の体の半分が沈んだ頃、陽菜が
「ゆ……ゆれな……ふるうな……も、もれでるくずしぬ……」
 と泣きながら何かを唱え始めた。その言葉を聞いた途端嫌な予感がした。
 予感は得てして当たる物だ。
 彼女が陽菜の方を向いた。この時、初めて彼女の顔がはっきりと見えた。暗いはずなのにどうして見えたのか、恐らくは彼女の霊としての形を視認したのだと思われた。だが、とにかく、筆舌し難い程に怒りに歪んだ顔を私はこれまで見た事が無い。散々業に囚われた者達を見て来たが、般若よりも不動明王よりも怒り狂い、歪みに歪んでいる。
「駄目! 陽菜ちゃん! それ以上は唱えちゃ駄目! それが彼女をここに縛りつけてる。だから」
「でも桑名さんが」
 苦渋の決断を迫られているのは分かっている。ここで彼女があちら側の人間になってしまえば、光輝が戻って来たとしても誰かに犠牲を強いた事になる。
「んふっ」
 小さく鼻で笑う声がした。
誰が笑ったの? これを見て誰が笑えるの? 
だが今度はもっと確かに
「ふふふっ」
 と笑った。私は声がした方を向いた。その声が南郷の物であるのは見らずとも分かる。けれど確認せずにはいられなかった。
 南郷は口を痙攣させながら吊り上げ笑っていた。そして光輝が沈んでいくのを見ながら霊に向けて言った。
「ね……ねえ、ねえってば……生贄を連れて来たのよ。しかも一人は……あんたを人柱にした、家の子供よ。ねえ、頼むから、返してよ、梨香子だけでいいから、会わせてちょうだいよ……お願いだから」
 私は心のどこかでまだ助けられるのではと淡い期待をしていたのだ。
 彼女は南郷の言葉に耳を傾けたのか、これまでゆっくり沈んでいた光輝をあっという間に消し去り、光輝が吐き出した黒い水さえその影に飲み込みんだ。つい数秒前までそこにあった光輝の姿形は、一切の痕跡もなくどこかに消えた。
 それから彼女はまたゆっくりと動き始め、私の方を向いた。
 あの顔が、私を見降ろしている。きっと光輝やこれまでに連れ去られた子供達と同じか、それ以上の死に方をするに違いない。そう思った。でもそれと同時にこうも思った。
 彼女はきっと私よりも辛くて痛い思いをして死んだんだろうな。
 背格好からして陽菜と同じくらいか少し下の子が、顔が歪む程怒り、人を憎んだのだとしたら。何の為の人柱だったのだろうか。何度も何度も人柱として捧げられてしまった子供達は、本当にこの土地の為に自ら命を投げ出したのだろうか。
 そんな訳がない。知恵が無く、思考もしない大人達が、身勝手にも犠牲にしただけだ。道具も無くまんまと光輝が連れて行かれた、この状態の私に何が出来るのか。
 お爺ちゃんに是が非でも来てもらえていれば……。
「ごめんなさい」
 私に出来ることなんてこれしかない。なんて歯がゆい
「ごめんなさい……私が謝っても意味が無いかもしれないけど……こんな辛い思いをさせて、ごめんなさい」
 震えながら彼女に向かって謝罪する。
「本当はあなたも……皆も死にたくなかったはずなのに……」
「私も……」
 教室の廊下側にいた陽菜がずるずると這いよりながら、彼女に言葉を投げかける。
「私も謝ります……ごめんなさい。私の家族がひどい事してごめんなさい……私達の為に何もしなくていいのに……」
「………………………………………………」
 彼女が陽菜の言葉を聞いている……耳を傾け動きが止まっている。
 長住家の一員であり、まだ何もしていない子供の言葉だから?
「ちょ、ちょっと何よ! 私は連れて来たのよ! 梨香子を返してよ! ねえ! 一番欲しかったのこいつでしょ!」
 南郷が叫んだ。早く陽菜を殺せと叫び、陽菜の家族への暴言を吐き、彼女を焚きつける。しかし彼女は陽菜を見つめたまま、襲うでもなく動こうともしない。私は、彼女が何かしてほしいのだろうと考えた。きっと謝るだけでは足りない、もっと別のことで、それは多分陽菜にしか出来ないこと……今まで誰もやろうとせず彼女が一番望んでいること。
 私はふと、光輝から送られた地図を思い出した。元々は先祖の家以外何もない土地で何人も人柱を立てていて、そこに学校を建てる事で鎹にした。生きたまま水に沈めたり、あるいは土に埋めたりするというのなら、じゃあ彼女はこの町のどこにいるのか。それはきっと誰も近づかない場所……まさに、この教室のような。
「あなたまさか……ここに埋められてるの?」
「えっ!?」
 彼女がほんの少し、揺らいだ様な気がした。
 陽菜が私を見た。言葉は交わさずとも私が何を言いたいのか、彼女が何を求めているのか、全て察した様に小さく頷いた。
「どんなに時間がかかっても、私がそこから出してあげる。絶対に出してあげるから、お願い……もう、これ以上、誰も連れて行かないで……」
 教室の床に零れ落ちて出来た涙の水溜まりが、光輝が吐き出した黒い水と同じようにすーっと流れていき、彼女の足元へと吸い込まれていく。それをきっかけに
「うわっ!」
 と、南郷が叫び声を上げた。すると驚いて手放してしまった携帯が私の方に転がってきて天井にライトが反射し、淡い光が教室を薄っすらと照らした。
「ちょ、ちょっと! いやっ……何で私なのよぉ!」
 そう叫ぶ南郷の体が、ゆっくりと床に沈んでいく。右足を上げようとすれば左足が、左足を上げようとすれば右足が。抗えば抗う程に沈んでいく。まるで底なし沼に捕まってしまったように。
 南郷は陽菜に向かって叫んだ。
「あんた何やったのよ! ふざけんじゃ……このっ……ぶっ殺してやる!!」
 陽菜に近付こうと藻掻く度にどこかが深く沈み、絡みついていく床。そして、思い切り飛びかかろうとした南郷は、足を捕られた勢いのままに床に突っ伏してしまった。頭と両手が床に刺さって土下座の形で身動きが取れなくなってしまい、そこから這い上がろうと必死に体を動かす南郷。
 暫くして水の中で息を吐き出すごぼごぼという音が、床を伝わって私の耳に届いた。南郷が床の中で溺れている。その音と共に中途半端に床から出ている体は痙攣を始め、それから三回大きく体が跳ね、完全に動かなくなってしまった。
 私はその様子をただ茫然と見ていただけだったが、もし彼女に止めるよう訴えていたとしても結果は変わらなかっただろう。

――――――――――――――――――――――――――ぽちゃん

 それは彼女が床に姿を消した音だった。
 黒い水も腐臭もが消えた。キーンという静寂の音が耳を叩き、呼吸音すら聞こえない。
 暫くして学校の裏道を一台の車が走り抜けたが、それと同時に一気に緊張の糸が切れてしまい止めどなく涙が頬を伝っていくのを感じた。
 私は生きている。伝う涙の温かさと生を実感するだけで精一杯だった。
 そしてすぐ横にいる陽菜の安否を確認すると気を失ってしまい、目が覚めた時には朝になっていた。体中を殴られた痛みで。少し動いただけでも悲鳴を上げそうになってしまう。
 私は歯を食いしばりながら、壁まで這って進みもたれかかった。
「はぁ…………やっと朝か」
 剥がれかけた新聞の隙間から差し込む朝日が教室を照らし出しており、天井も床からも黒い水は完全に消えていて、代わりに奇妙なオブジェが教室の床に生えていた。

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