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水は天井から滴る 第三話

屋根裏から落ちてきたモノ

 その日は桑名家にとって実りのある一日になるはずだった。兄弟三人が代わる代わる使用していた五畳程の部屋の壁と床を張り替え終え、知人から貰った一枚板をリビング用にとテーブルにDIYしたからだ。主にやったのは父の文則ふみのりで、そういった作業が殊更好きであり、庭に薪を置くための掘っ立て小屋を一人で建てる程だ。勿論知り合いの業者に頼んではいたが、のりを塗ったり壁紙の切り貼り等は率先して作業していた。他県の専門学校に通う次男の光輝こうきが春休みを利用し帰省してはいたが、殆どの作業は終わりかけだった。光輝は実質片付けのみだったが、それでも自分が過ごした部屋が綺麗になる手伝いが出来たのは彼に多幸感を与えた。夜になり光輝は夕飯を食べ終え、祖父母と共にテレビを見ていた。何の変哲も無い、ありふれた日常の一コマ……。
 そしてそれは突然訪れた。
 重戦車の進軍、神話に出てくる様な巨大な生き物の列、そんな表現でもまだ足りない程の、重くのしかかる轟音が全ての音を掻き消した。
 続いてやってきたのは体が浮く程の大きな揺れだった。光輝はそれが今までとは違う規模の地震だと直感した。祖父母のすぐ後ろには食器棚がある。恐らく間に合わないと大声で身を屈めるよう促して、自分も同じようにした。
 母親の芳子よしこはまだ仕事から帰ってきてはおらず、文則は離れの作業場にいるのでどうしているかが分からない。後はとにかく自分の身を守る事しか出来なかった。
 一分程続いた地震は、築百年を越す屋敷にとって余りに過酷な試練となり、屋敷はその試練に耐えられなかった。ミシミシと家中の柱が軋み、戸棚や窓ガラスにはヒビが入ってはじけ飛び、数年前に改築した部分の壁が光輝に向かって丸ごと剥がれ倒れこんでくる。外では瓦が地面に落下して割れ、恐らくは家の前に植えられていた木が他の木を巻き込んで倒れた様だった。
 揺れが収まるまでに光輝は人生において初めて死を意識した。これまでに事故に遭ったり、坂道の途中に突如として現れた石に車輪がはまり、自転車ごと一回転した事もあった。打ち所が悪ければ死んでいたかもしれなかったが、それは事が済んだ後に「思えば」というレベルだった。しかし今回は揺れが始まった瞬間から揺れが完全に収まるその時まで、祖父母と、二十年弱の衣食住を共にしたこの家と死ぬのだと思った。
 呻く祖父母をテーブルの下から助け出し、三人で散乱した食器やガラスを踏み越えて、斜めに傾いた我が家を見てやっと生きていると安堵し、涙が止まらなかった。祖父が左手の甲を切ってしまったが、命に関わる程ではなかったようだ。
 文則は揺れている時には偶然外に出ており、へし曲げられた裏口の戸を開けている所で生存を確認した。芳子は帰宅途中に地震に遭い、路肩に駐車して難を逃れた。長男の大輔だいすけと三男の彰太しょうたは県外に居た為に被害は無く、緊急地震速報とすぐに流れたニュースによってその規模と被災地を知った。その後十五分と経たず、ラインと電話で全員の無事が確認された。念の為余震の可能性を考慮し、その日は両親の車で車中泊を余儀なくされた。

 翌朝、被害の全貌を見てただ全員が唖然あぜんとするばかりであった。生まれ育った家は北向きに傾いて、玄関や出窓、あらゆるガラスがひび割れるか飛散していた。屋根はまだしっかりと家を守っている様にも見えるが何枚もの瓦が落下しており、その能力は相当失われていると思われた。家の裏手に回ると、普段両親が寝室としている八畳間は完全にひしゃげていた。もしも昨日早くそこで寝ていたらと思うと背筋が凍った。そのすぐ横に昔からある井戸は、屋根と囲っていた石壁が崩れている。何となく、この井戸はもう死んだのだなと思った。曲がった玄関をこじ開けて踏み込むと、クリーム色の床板が剥がれているのが見える。文則の作業場は物が散乱していたものの、建物自体への損傷は殆ど無い。そもそも床は地面そのままで、屋根と壁のみの簡単で軽い造りだったのが功を奏したようだ。母屋と作業場の間の小さい頃によく登った木が、根本から倒れて祖父の温室を破壊し、長年育てていた盆栽が見るも無残な姿に変えていた。母屋から少し離れた所にある畑を見に行くが、こちらは大した被害は無さそうに見えた。後日植えていた作物の内、葉物が急激にしおれていたのを鑑みるに、土地自体の何かが損なわれたのだろうと思えた。井戸と関係しているのかとも考えられたが、ただのADには分かりようが無い。
 総じて、この家が元の姿に戻る事は到底無理だった。
 震源地は隣町を通る断層で、深さは約十キロ、マグニチュードは七。浅さも相まって揺れの規模と威力は凄まじく、震源地である隣町は殆どの家屋が全壊ないし半壊、御粕會町や近隣の町も半壊だと報道された。他県においても場所によっては物が落ちる等の被害は発生し、桑名家の様な古民家はより大きな被害を受けた。
 ただ、その古民家の中でも桑名家がより被害を受けた原因の一つが、両親が寝室として使用していた八畳間にあった。この部屋は元々長屋だった屋敷に凸の形で増設されたものだった。故に本来の形の長屋であれば力を横に逃がして耐えられたかもしれないが、縦方向に引っ張られてしまったために逃がしきれなかったようだ。工法の違いもあったが、主な原因は増築だろう。
 幸運にも被害が少なかった親戚の家へ祖父母を移し、二週間弱の間、桑名家では家財の運び出しと廃棄物の整理に追われた。余震の心配もあったが、やれる内にやらなければ全て潰れてしまう。逃げ道の確保と一度に持つ量の制限をして取り掛かった。大抵は廃棄するしかなく、野ざらしにするか御粕會町を流れる川辺に作られた一次廃棄場へと持って行った。
 地震発生から二回目の土日に雨が降った。二日程続いた土砂降りの雨は、割れた柱の隙間から滴り落ちて廃墟となった桑名家を濡らした。悲しい事に姿と足音を消すのには都合よく、雨が上がって立ち入った桑名家の仏間にはくっきりと足跡が残されていた。近隣の家や隣町でも窃盗の被害が多発し、警察が一度桑名家にもやってきた。黒いバンがあっただの県外ナンバーが停まっていただのと噂は後を絶たなかったが、結局今現在も逮捕するに至っていない。桑名家が運び出しを終える頃、町役場にはボランティアを名乗る詐欺集団が現れ、引っ掻き回すだけ引っ掻き回して募金と共に消えた。住人が追い出したと言われているが定かではない。御粕會中学の体育館に残された、仕分けられていない大量の衣類や缶詰、腐りかけの食糧がそのボランティア・・・・・・の杜撰さを物語っている。
 それから凡そ三か月の後、屋敷が解体される手筈が整った。役場への罹災りさい証明などがスムーズに済み、運良く解体業者の空きが見つかるとすぐに解体が始まった。が、解体の作業は思ったよりも難航した。と言うのもはりの太さと本数が通常の倍程あったからだ。既定の本数等はまちまちだが、業者曰く
「立派な家を解体するのは忍びない」
 と言わしめる自慢の家だった。解体は南の玄関側から始まった。屋根にショベルが突き刺さり、メキメキメキとけたたましく鳴き声を上げながら家は瓦礫の山と化していく。3兄弟が使用して文則が改装した部屋も、ものの数分で同じく見るも無残な姿に様変わりし、家の胴体にぽっかりと穴が開いた。初日で全体の三分の一が解体された。そのまま順調に解体は進んで二日目には更に三分の一が完了し、残すは祖父母の寝室と仏間の上下階を残すのみとなった。
 三日目。縁側の柱を引き倒し、屋根にショベルの歯を突き立てて一気に崩そうとした時、それは現れた。
 崩そうとしたが上手くいかず、ショベルが屋根と壁、床の一部を引き裂いて小さな瓦礫の山を作ったかと思うと、続けて上階から何かが落下してきた。それは人より一回り程大きい焦げ茶色の塊で、瓦礫の山の上に見事に鎮座した。
 作業を一時中断して、慎重に山からそれを運び出す。
 木で作られているそれは一見軽い様に見えたが、男五人掛かりでないと運び出せない程の重量があった。庭の真ん中に置かれたそれは文則が目線を上げる程の大きさがあったが、仏像にしては歪な形の木彫りの像だった。

 それは人の形でありながら人ではない。
 それは仏の様相を模していながら仏とは異なる。
 それは成り損なったのか、或いはそう成るべくして成ったようにも見えた。

 座禅を組んだ男とも女とも言える体には、本来あるべき頭部が無い。体の割に瘦せ細った腕は体の前ではなく、何故か背中側で合掌している。更に肋骨の最下部辺りから一際小さい二本の腕が生えており、それが胸の真ん中を手術中の患者の様に開いている。その割れ目から赤子が顔を覗かせていた。
 全体が茶色く色づいているのは、陽に焼けたからでもニスを塗ったからでもなさそうだった。更にずっと屋根裏にあったからなのか、カビや埃、湿気を帯びた生臭い臭いが辺りに漂い、皆の鼻を突いた。
 解体業者とボランティアの面々は残った部分を倒し、瓦礫の山を大まかに分別してトラックに積み込んでは廃棄場へと運び、数回トラックを往復させると逃げるようにそそくさと桑名家を後にした。
 庭で仏像らしきものを光輝は見つめていた。文則も芳子も書類を出しに役場へと出掛け、家には誰もいない。これが何なのか問いを投げかけても返してくれる人はいない。
 光輝は屋根裏の一番奥側に入った事が無かった。恐らくは三兄弟全員がそうだろうが、父の文則から入るなときつく言われていたからだ。築百年を越す家の中で物置と化している屋根裏は、光輝達は勿論父の文則も修理に赴く事は無く、踏み抜いてしまう可能性があったからだ。使用していたのは主に祖父母か文則で、仕事道具か季節物を仕舞い込むのに使う程度。屋根裏まで行く為の階段は昔ながらの急な造りとなっており、弟の章汰が小学校に上がる頃には、祖父母は一切登らなくなってはいた。しかし、自宅を修理する必要があったのは分かっていたので、床の修理を頼んだ知人に見積もりを頼もうかとしていた所だったが、あえなくその必要は無くなってしまった。
 三か月が経ち悲しさも少しは癒えていた。もしかしたら両親や祖父母の思い出の品が偶然出てくるかもしれない、そうであれば良かったのにと光輝は思った。
 一人で考え込んでも埒が明かない。
 光輝は兄の大輔に電話を掛けた。すぐには繋がらなかったが、五分後に折り返しの着信があり、事の次第を説明した。初めはまさかそんなと信じていない口ぶり、むしろ馬鹿にされていると思ったのか相槌が乱暴になっていたが、ビデオ通話で仏像を見せると口を開けて唖然としていた。無理もない。目の前にいる光輝ですら、未だ信じられないのだから。そして勿論の事大輔も見覚えが無いと言う。章汰が後から電話に合流し、同じく仏像を見て絶句した。二人も数日後に揃って帰省し、分別等の手伝いをする予定になっていた。
 しかし、その帰省の意味が変わってしまった。
 ほぼ間違いなく宗教が絡んでいる。この通話では言わなかったが、ただの宗教ではないと光輝は考えていた。大輔も章汰は、光輝の様にオカルトや宗教に疎く、嫌っている訳ではないが好ましいとも思っていない。情報が皆無の状態であれこれ並べ立てても怪訝な顔をするだけではある。諸々判明してからでいいだろう。そして電話を切った。
 幾年か振りに日光を浴びた仏像が、ピシと音を立てたのに光輝は気付かなかった。
 翌日、祖父繁巳しげみが取り壊された家を見に来た。地震の影響でボケもかなり進み、更なるショックを与えまいと芳子は説得を試みたが、頑なな義父に圧されて仕方なく連れてきた。実際、自分の身長よりも低くなってしまった屋根を見、言葉無く涙を流した。祖母は見ないと言い切って来なかった。それは正しい判断だったろう。
 しかしこの仏像に関して呆けた繁巳に聞けなさそうだと知っていたなら、祖母を連れてくる方が良かったと言える。
 玄関先から眺めていた繁巳は、ゆっくりと家を眺める内うちに仏像を発見した。
 そこで繫巳の脳の回路が変な場所に繋がったのか、仏像を見るなり狂った様に拝み始めたのだ。
 困惑する面々を他所に一心不乱に拝む繁巳だったが、その拝み方もまた独特な物だった。
 地面に正座しイスラム教みたく地面に頭を擦り付ける、までは良かった。そこから仏像を真似る様に背中に腕を回して合掌した。歳と共に凝り固まったはずの関節を無理に動かしたからか、パキパキッと小骨が折れる様な音が不気味に耳に届く。合掌した手は指先と手首の付け根をくっつけたままゆっくりと開閉を繰り返す。更に小さくて聞こえにくいがお経を唱えている。名前を呼んでも目もくれずに祈りを続け、砂利で擦り切れた膝から出た血でズボンが濡れている。
 仏像を知る祖父だけが、今この場を支配していた。
 一頻り拝んで満足した繫巳はまたパキパキと音を立てながら腕を前にやり、普段通りのボケた老人に戻ってしまった。ニコニコとして誰にも危害を加えない様な、どこにでもいる老人に。芳子に支えられて祖父は病院に連れて行かれる最中にも、光輝は幾つもの疑問を祖父にぶつけたが、返ってくるのはいつもの優しい笑顔だけだった。
 病院から戻った後の祖父は酷く疲れた様子で、親戚の家に帰り着くなり寝込んでしまったと芳子より連絡があった。光輝は見舞いに向かったが、やはり眠っていた。ベッドのすぐ横には祖母のカネが座っており、繫巳の手を握っていた。
 カネは桑名家に嫁いできた。出会いについてはお見合いだったと聞いている。一昨年結婚五十年を迎えても、相も変わらず仲睦まじい様子である。その仲睦まじさがどこからきているのか。
「屋根裏にあった仏像は一体何?」
 質問してはみたが、祖父が答えてくれなかったものを祖母が答えてくれるものではないか、と光輝は思った。それに不穏な形の仏像があったからといって、産まれてこの方困った事は無いし存在すら知らなかったのだから。
深く言及されないと分かっているのか、祖母は眉一つ動かさず眠る祖父を見つめているだけで、答えてくれる気配はない。しかし、あのお経もどこかで聞いた事がある様な気がするが、これ以上は尋ねた所で結果は変わりそうもないだろう。何か体調に変化があればすぐに呼ぶように言い、部屋を出ようした。
「……ふ」
 ドアを閉めようとした瞬間、背後から微かな笑い声を聞いた。振り返ると祖父の顔を見つめて笑みを浮かべている。光輝はその笑顔に一抹の不安を感じたが、不安が的中するのは兄弟が揃った翌日の事だった。

 繫巳と仏像が忽然と姿を消した。

 異変に気付いたのは章汰だった。久しぶりに家族が揃い七人全員で実家を見、ぽっかりと空いた心の穴を皆で慰めあった。そして庭先の開いたスペースに一枚板のテーブルを用意し、昼食を取ろうとしていた所だった。テーブルを用意する間、何もすることのない祖父が煙草を吸いに外に出たたった二分。その短い時間に祖父がいなくなってしまった。もしかしたら土台のみとなった家を見に行ってしまったのか、裏手の竹藪の方に行ってしまったのか、あるいは近隣住民と会話でもしているのか。しかし、総出で探し回れどどこにも姿は無く、近隣住民は留守か見ていない状況だった。近くにいた祖母ですらどこに行ったか分からないと言う。
 手に負えないと察し、警察に電話して捜索が開始された。随分昔に潰れてしまった煙草屋の跡地、村唯一の郵便局、学校、牛小屋。老人の足で行ける範囲の建物を一通り尋ねて回り、そこから竹藪や林、近くの溜池や側溝を探して回った。小学校区がそれなりに広いとしても、子供ならまだしも大の大人一人が居なくなるなど誰も想定出来なかった。
 まさに神隠しにでも遭った様に、忽然と姿が消えたのだ。誘拐の可能性を警察から示唆されたが、齢九十近い老人を誘拐して何になると言うのか。近所の家から流れて来るお経が、光輝の心を騒ぎ立てた。
 桑名家は一昔前には豪農だったと光輝は聞いていた。どこからどこまでが所有地だったかは資料が無い為に定かではないが、現在の四倍程の敷地を有し、兄弟達が登下校に使用した農免道横に広がる田んぼの殆どを貸し付けていたと伝えられている。それが政府の思惑によって刻々と解体され、今の規模に収まったようだ。それでも傍から見れば広大であろう事は間違いない。
その当主を誘拐すれば、少なくない金が手に入ると踏んだのではないか。それが警察の主張であった。もし愉快犯でなく誘拐犯であれば近日中に連絡があるはずだ、と。しかし愉快犯である可能性が否定出来ないのは、いくら昔に栄えた土地があっても、花掌村があるのはK県の中でもかなり田舎の部類に入るからだ。炭鉱や温泉、もしくは葬儀屋の家系であれば可能性はあっただろう。ただ田舎で土地があるだけの家にそれ程の価値は今は無い。
 祖父の無事を祈るしかなく、警察の指示もあり帰宅を余儀なくされた。
 そして実家に戻り、誰も手を付けていない食事を片付けている最中に章汰が言った。
「仏像が無い」
 皆が祖父を捜索している間に消えたのか、或いは祖父と共に消えたのか。とにかく、あの仏像が鎮座していた庭の隅には重み分の窪みと、まるで仏像が独りでに歩いていった様にしか見えない足跡が竹藪に向かって点々と続いていたのだった。

 翌日になっても、翌々日になっても繫巳は帰って来なかった。犯人からの連絡もない。校区内でないとすると捜索は困難を極める。どうにか片付けで気を紛らわそうとしても、皆上の空で思うように手が付かないのは当たり前だった。
 失踪から三日目の事だった。光輝は重苦しい空気を抜け出し、祖父の捜索ついでに村を歩き回っていた。最悪を想定しながら歩く村は、これ以上ない程に寂しく、恐ろしく見えた。
 たった数分目を離さなければ、あの仏像を見せなければ、いや、そもそも実家の惨状を見せなければ。こんな事態にはならなかったはずなのに。大体あの仏像は何なのか。やはり関係があるんじゃないか? あれから祖母に問いただしても無言が返ってくるばかりだが、沈黙は知っていることの裏返しなのでは? そんな思いが湯水の如く湧き出しては、葉のせせらぎにかき消されていく。
 意図して見た訳ではない。ただ純粋に景色を流し見していた中に捉えただけだった。
 竹の深緑と影の隙間、何本もの竹の奥に白い物があった。あまりに白く、初めはビニール袋が引っかかっているのかと光輝は思った。しかしそれにしては大きい気がする。丁度人の大きさぐらいの……
「えっ」
 と光輝は思わず声を上げた。それはビニールではなく確かに人だったからだ。その藪に潜む人物は何も言わずにこちらをじっと見つめていた。いつからそこにいたのか、光輝が通るのを知っていたのか。ただ、光輝を見つめるその人物は服を着ていない。太い竹に遮られてはいるが上も下も、恐らく下着でさえも履いていない。虫や蛇が跋扈ばっこする林の中で全裸の男が立っている状況に、祖父の心配なども吹き飛んでしまった。
 光輝が変質者に出会ったのはこれが人生初めてで、いや、初めてであろうが無かろうが変質者に会い対処出来る方が難しいだろう。そうして視線が交差した数秒後、先に動いたのは光輝ではなかった。
 ゆらりと体を左に傾けて竹の隙間から半身を露わにする。当たって欲しくない予想は見事に的中し、彼は全裸の状態だった。傾けた姿勢を崩さないように左手を前に出し、少し手前の竹を掴み体重を掛ける。更に手前の竹を右手で掴み、二本の竹の間から半身ですり抜けてくる。
 しかし、足元の土が緩かったのかガクンと態勢を崩してつんのめり、股間を隠していた竹に右手で掴まり体重を支えた。
 ────右手で。
 その事実は彼の異常性をより鮮明に、より不可解な物にした。
 光輝の目には、彼の上半身に左右合わせて腕が三本付いている様にしか見えなかったのだ。二本の左手が左右の竹を掴み、右手が手前の竹を掴んでいる。
 一、二、三……一、二、三……
 何度数え直しても骨ばった腕は三本あり、器用に動かしながら手を、足を前に進めている。特殊メイクだと言い切るには肉肉しく、しかし栄養失調かと思うほど必要最低限の肉すら付いていない。生きてはいるが今にも枯れて折れそうな体だ。その枯れ枝に乗った顔はというと、能面かむしろのっぺらぼうに近い凹凸の無さ。痩せれば骨が浮き出てくるはずだが、顔だけは太っているのか。余りに奇怪なその見た目は消えた仏像を彷彿とさせた。
 一瞬、光輝はあの仏像が動き出したかと思い、そしてすぐに思い直すと共に冷静さが微かに戻り始めた。
 とにかく離れて警察に電話しなくては。
 男が野生の獣でないことは一目瞭然だが、道に出た途端に襲い掛かって来る可能性は大いにある。何せ裸で林の中にいたのだから。目を離さないようにしながら光輝は足をゆっくりと来た道へと踏み出させ、二歩三歩と震える足を続かせる。
 運良く男がまたよろめいた瞬間を見逃さず光輝は駆け出した。家までは道のりで500メートル弱あるが、そこは上手い事頭が回ったのか遠回りを選んだ。万が一にでもついてこられる可能性があるのなら、不用意に家族を危険に晒す様な真似は出来ない。
 小学校の裏を通り過ぎ、古めかしいネオンで彩られた「THE銀座」という名前の古めかしいラブホテルが見える所まで走り切り、やっと後ろを振り返ってあの男が来ていないか確認した。1キロ弱をノンストップで走った効果はあったと言っていい。男は付いてきていない。周囲に隠れる場所は無いし、男が光輝より早く走れるとは思えなかった。
 汗と暑さの中に確かな寒気を感じ、肩で息をしながら光輝はあの男が何だったのかを考えていた。
 裸で一人林に居た事や自分を見て追いかけて来た事よりも、器用に動く三本の腕が頭から離れない。第二次世界大戦時、多くのユダヤ人に非人道的な実験を行い、「死の天使」の異名を持つヨーゼフ・メンゲレ。彼が行った実験は殆どが言葉にするのも恐ろしいが、その一つに双子の背中を繋ぎ合わせて人工的に結合双生児を作ったものがあった。双子は数日後に見かねた両親によって殺されたが、まさかこのどこにでもある至って普通の村で、同じことが起きているのか? この村に医療施設は無い。誰かの自宅に実験施設でもあるのか。突飛な考えだと分かっていても、想像は止まらなかった。見間違いだと頭は信じたがっているが、もし捕まっていたらと震える体がそれを否定していた。
 一台の車が光輝の横で温い空気を掻き混ぜ、遠くの角を曲がって行った。それを呆然と見送り、テールランプが見えなくなってから家へと歩き始めた。
 その日も祖父は帰って来ず、あの男の正体も分からず仕舞いのまま、更に一週間が過ぎた。警察による捜索は規模が縮小され、ボランティアとして手伝ってくれていた近所の人もぽつぽつと仕事に戻って行った。祖母は相変わらず心配している様子をみせてはいるが、光輝や兄弟からの質問には口を閉ざしたまま。長期休暇で帰省していた三人もそれぞれの生活へと戻らざるを得ず、何一つとして解決しなかった。
 1か月、2か月と時は残酷に過ぎていき、半年が過ぎる頃にはもう祖父の捜索の頻度は激減していた。勿論亡くなったと思いたくはない。死亡届なども出さない状態で、日々の生活の隙間で山に入ったりして探す程度になっていた。時間が経てば経つほど祖父を探す為の証拠が雨風に消えていき、見つけられないもどかしさばかりが募っていく。
 それから更に8か月後、何も無くなった地面に一件の家が建った。前より一回り程小さいが構造や外観が似せてあり、意匠が凝らされた誰もが満足する立派な家。ここでもやはり文則は外装内装を手伝い、内装に関してはリサイクルショップで見繕った棚を自分で塗り直して設置していた。内壁には石灰を使用して白く見栄えの良い物に仕上げた。
 震災から約一年半後の年末、祖父を除いて親戚一同が集まり、新築祝いを兼ねた忘年会が催された。この時には優奈の子供が産まれまもなく一歳を迎える所で、何も悲しい事ばかりではないと励ましあった。しんみりとした空気が流れる時間も、子供の泣き声によって前進する意欲に変えられた。
 集まった誰もがそう前向きになっていた時。
 窓の外に人影があるのを、光輝ははっきりと見た。人影はこちらをはっきりと見据えて、何かを訴えるように口をぱくぱくと動かしていた。それがあの時に見た奇怪な人物で、我が家の敷地内に侵入してきている、そう光輝は思った。目が合ってからほんの数秒で人影は夜の闇に紛れて吸い込まれ、立っていた陰影だけが光輝の目に残った。以前の驚きとは違う、明確な不安が光輝の胸を過る。
「光輝……今の誰?」
 問いかけたのは、偶然窓際にいて光輝の目の動きを追った優奈だった。得体の知れないものに巻き込まれてしまった。家族が危ない。そう言いたかったが、光輝はただ
「分かりません」
と答える事しか出来なかった。
 不定期に暗闇の衣をまとって現れるようになったその人影は、一度勘付かれるとすうっと消え追いかけても見つかるのは足跡だけで、その足跡ですら何故か途中で途切れたり林の奥へと消えていく。祖父の失踪と関係している可能性も考慮し警察へ相談したものの、証拠が無いと動けないと言うし、足跡の検分をしてくれたが正体の解明に繋がる事は無かった。家族は一様に気味悪がり、ストレスが溜まっていった。
 いつの世も警察が動いてくれないのは同じだが、今回は訳が違うのだと知るのはもう少し先の事だった。
 光輝は家族には秘密にしてある計画を立てていた。計画というにはお粗末なものだし、危険が伴うものでもある。しかし、また一人暮らしに戻るまでに少しでもいいからあの人影に繋がる証拠を手に入れたかったし、家族をこんな状態のまま残してはおけないと思っていた。直接の危害は無くとも敷地内に見ず知らずの人物が徘徊している事で、両親の間には見えない亀裂が入りかけていた。
 芳子はこの桑名家にお見合いの末嫁いできた。若い頃は東京に住んでいたし、芳子の実家も県内では主要部に入る。お嬢様ではないが都会っ子だったのは間違いない。それがこんな「ド」が付くほどの田舎に来たのだから、相当な苦労と努力があって今の関係性を築けたのは言うまでもない。こと現代においても都会と田舎の文化の差も偏見もあるのだ。一昔前ならばその様相は更に激しい。それが今回、地震に続き義父の失踪が絡んで疲弊し、溜まりに溜まったマイナス要素が決壊しそうになっている。光輝もそれに気付いてはいつつも、親と子の関係性の壁を越える勇気は無かった。代わりに思いついたのが今回の計画だった。
 現れる方向は大抵竹林か砂利道がある方だと分かっている。そこを狙って待ち伏せし、動画に納めるかあるいはそのまま捕縛する。万が一襲われた場合に備えて、納屋の中から鉄パイプを入手し、文則が薪割り用に使用している斧を別の場所に置いてきた。使う必要にかられなければいいなと思いながら、光輝は庭の温室に身を潜めた。
 居場所がバレない様携帯も最小限しか使えない状況で、不審人物を待ち続けるのが如何に危険か。見つかる可能性は? 彼は一人だけなのか? 相手が武器を持っているのでは? 少し考えれば思いつきそうなリスクを避けられたのは、ただ単に運が良かったとしか言いようがない。
 光輝がほんの数秒気を抜いて下を向き、頭を上げるとすぐ真横に男が立っていた。思わず声を上げそうになったが、そこは手で口を物理的に塞いで事なきを得た。闇夜で見えにくいがやはり裸だ。男は温室の中にいる光輝には気付かず、木の陰に身を隠しながら家へと向かっていく。光輝と違って武器を持っていない。録画を始め、亀よりも遅い速度で立ち上がり、錆びついたドアノブを回す。キュイ、と金属の擦れる音が小さくなってしまったが、男はまだ気付いていない。人一人分の隙間を開けて地面に足を下すが、踏みなれたはずの地面はどうにもぬめりを帯びている様に感じられた。そのぬめりに足を捕られないよう慎重に進む。家の中から漏れ出た光で男の陰影がくっきりとし始めると、改めて男の姿に驚愕した。三本目の手は脇の下ではなく若干背中側から生えていた。普通肩甲骨が無いと腕を動かす事は出来ないはずだが、背中の歪な凹凸が可能にしているのかもしれない。
ふと、家の中から子供の楽し気な笑い声が聞こえた。
 優奈の娘、奈緒の笑い声と目の前の男が揃ったこの状況で、光輝はある結論に至った。根拠など微塵も無いが、この男は奈緒を狙っている。口から手が出る程、いや、本当に手を生やして欲しがっているのだ。そう確信した。
 男の住処を突き止めなければならない。奈緒を連れて行かせる訳にはいかない。警察が頼りにならないのであれば自分でやる。
 光輝はその場でしゃがみ込み、じっと男の行動を見張り続けた。男は何をするでもなくただ家の周囲を徘徊し、時折思いついた様に生えている雑草を口にする。そして三十分が経ち、男は木の陰に身を隠しながら温室の方へ歩いてきた。住処へと帰るつもりらしい。
 太い植木の陰に隠れて男が通り過ぎるのを待つ。小さい頃によく兄弟でかくれんぼしていた経験が、こんな特殊な状況で役に立つとは誰も想像しなかっただろう。
 男は光輝に気付くことなく通り過ぎ、生垣を乗り越えて桑名家から去っていく。
 距離を取りつつ後をついていくが振り返る様子はなく、左右の人影だけを気にしながら道路を横断し歩いている。そのまま向かいの家の敷地に入り、我が家の如く悠然と闊歩して更に奥の家へと進んでいく。家の中からテレビの笑い声が聞こえてくるし、人がいるのは間違いない。それなのに気にする様子もないのは、もう何度もここを通っていて気付かれた事がないからだろうか。この家を含む近所の住人には不審者が出ていると伝えているが、警戒心の無さには脱帽である。もしこれが都会であれば窓もカーテンも閉め切るのではないだろうか、と言うよりそれが普通なのではと思う。
 着々と進みゆく男は、奥の家の前まで来ると突然止まり振り返った。そして周囲を一通り確認して、家の床下へスルスルと潜り込んだ。
 ここが寝床か。そう思わせるに足る動きだった。
 光輝は足早に家へと駆け戻った。家にはまだ両親と祖母、優奈と奈緒がいたが両親のみを呼び出して事の次第を説明した。分かっていたが第一声は叱責だった。
「どうしてそんな危険な事相談もせずにするとね! 何かあってからじゃ遅かとよ!?」
 至極真っ当な怒りだが、光輝は反論した。
「だから早く動いたんだってば。俺が前にどうにかした方がいいって言ったら取り合ってくれなかったでしょ」
「それとこれとは話が違うでしょ!」
 話、というのは以前の震災時、役場に取り憑いて金だけせしめた悪徳ボランティアの事である。若者のネットワークをして、彼らが被災地に向かって南下してきているのを知り、両親に伝えたがそういうのに構ってられないと突っぱねられた。実際問題として瓦礫の撤去が残っていたし、それどころではないのは分かっていた。しかし自然災害と匹敵するくらいに人災も厄介なのだ。自然災害と違い人災は防げるのだから、どうにかして防ぎたい。後々になって改めて団体について話をする事になったが、その頃にはもう時既に遅しの状態だった。
 今回もそうなって欲しくなかったし、動くしかないと思っていたのだ。
「全部が全部一緒じゃないにしても、俺がこうやって動かないなら誰もやんなかったじゃん。これだけ時間あったのに……いや、喧嘩してる場合じゃないんだって。早くあいつを捕まえないと」
「……でも本当にこぎゃん人間のおるとだろかね、ねえ」
「うーん……暗くてよう見えん」
 確かに動画では不鮮明かもしれないが、問題はそこではない。
「百歩譲ってこの腕が偽物だったとしても、こんなのが人の家に侵入してるのは事実なんだから。本当に何かあってからじゃ遅いんだよ? 奈緒ちゃんが連れ去られたらどうするの? 爺ちゃんみたいに帰って来ないかもしれないし、最悪の場合を考えて行動しなきゃ」
 祖父の話を出したのもあって、すぐさま警察を呼ぶ事になった。男が強硬な手段を取るとも考えられ、サイレンを切って来る様に伝えた。
 しかしこともあろうに警察は自らの場所を教えるように、田んぼの中をサイレンと共に突っ切って現れたのだ。案の定軒下に男はおらず、何かを食い散らかした後だけが残されていた。証拠になるものがあろうが、逃げたのでは何の意味もない。光輝は駆け付けた警察に向かって怒鳴り散らした。自身と家族の危険を脅かす存在をみすみす逃がしたのは紛れもない警察であり、その怒りは至極真っ当なものであるのは誰しもが分かっていた。よくある世間体を気にする様な素振りで母は光輝を静止したが、光輝は止まらなかった。父も静止しようとしたが、警察の顔を見て気まずい顔をして思いとどまった。
 何故ならその警察は島崎家の長男のたけしだったからだ。彼の家族にも危害が加えられる可能性があるのに、馬鹿の一つ覚えでサイレンを鳴らしてきた。光輝が怒鳴っている内容は正しい。だが文則は幾つか小言を言うのみで叱責しなかった。
 それは彼が馬鹿である事を、文則を含む近隣住民が分かっていたのも大きい要因だろう。中学校の先生をして
「名前を書いてさえおけば受かる」
 と言われていた高校に落ち、親の力添えがあって警察学校にどうにか入学。そして幾度となく試験に落ちてやっと昨年無事卒業できた程度の人物であった。そんな彼は規律を守る事をどうにか覚え、今回それをしっかりと順守してやってきた訳だ。
 そんな彼に文句を言った所で暖簾に腕押し馬の耳に念仏である。光輝はそれを知らなかったからこれでもかと文句を並び立てた訳だが、効力は一切無いと言って良かった。

 それから更に毅に散々罵声を浴びせ家に帰ると、居間に優奈が血だらけで倒れており、奈緒のお気に入りの玩具が床に転がっていた。


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