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水は天井から滴る 第六話

蒐集する時の注意事項

 一つの悪意によって歪められた現実は、結果として複数の悪意を生み出してしまう事も往々にしてある。負の連鎖は延々と折り重なって絡み合い、決壊してまた悪意を生み出す。
 パステルカラーで彩られた壁と突き刺さる薄い黄緑色の車体とが、一種の芸術作品と化し、周囲から聞こえる人々の叫び声が作品の完成を祝う拍手に思える。紛れも無く現実に起きた非現実的な光景に、私は恐怖も忘れただただへたりこんで見入るだけだった。
 もしも甲斐君が奇妙な動きをする車に気付いていなかったら。身を引くのがほんの少しでも遅れていたら。道路と同系色の縁石によって車輪が取られていなかったら。私はあのパステルカラーの作品に濃い赤を付け足していたことだろう。
 暫くして周りには二人しかいない事に気付いた。右には青ざめ固まっている真帆が、左には反射的に腕を引っ張って握ったままの長住さんが。
 甲斐君がいない……まさか。
 私は辺りを見回して彼の姿を探した。濛々もうもうと立ち上がる土埃がゆらりと動いて、小さい呻き声が聞こえた。私が這いずってそちらに向かおうとしたその時
「甲斐君!」
 と真帆が叫び駆け出した。そちらの方に目を向けると、不自然な形で地面に倒れている小さい体がある。何かのキャラが大きくプリントされたシャツが、赤いまだら模様に染まっているのを認識すると同時に、私も真帆を追って駆け出した。
 猛スピードで突っ込んで来た車は縁石に乗り上げて大きく右にバウンドし、コントロールを失って一瞬ハンドルが左に切られ、その反動で右に切って店に突っ込んだのだ。左に切られた際に体が反射的に逃げようとしたが間に合わず、甲斐君の左手足が当たってしまった様だった。大腿骨の中ほどからくの字に折れ、前腕から指先にかけて複雑に折れ曲がっている。折れた骨は肉を破ってはいないが、飛ばされ地面を転がった際に大きな切り傷を作ってしまい、その血がシャツに模様を作ったのだ。幸か不幸か飛ばされた衝撃で甲斐君は気を失っているが、このままでは命が危ない。見えていないだけで内臓が破裂している可能性だってある。一刻も早く救急車を呼ばなければ。
 こういう時にこそ冷静にならなければと思うが、どうしても携帯のロックが開かない。たった四桁の数字が上手く打てない。数字を押す毎に焦りが増していくのが、震える手で確認出来る。早くしなければ甲斐君が危ない。しかし上手く解除出来ない。
「桑名君、ストップ、大丈夫、そのまま、電源ボタンを沢山押して」
 一言ずつ区切って私に声を掛けるのはやはり真帆で、彼女は甲斐君の腕と足を痛めない様に体勢を変えていた。私は彼女の言う通りに電源ボタンを数回押すと、画面の真ん中に緊急電話の画面が出てきた。それをスワイプすると選択肢が出てきた為、消防を押した。するとコール音が鳴り、5秒と経たず返事があった。
 私は事故の状況と美容室の場所を伝えたが、土埃の向こう側がどうなっているか判断出来ない為、怪我人の人数だけが分からない。
 美容室に居た人は大丈夫なのか。確認しようとした時、瓦礫が不規則に崩れる音と誰かが咳き込む音が聞こえ、土埃を切って人が姿を現した。
「南郷、さん?」
 真帆が呟いた。真帆と長住さんが話を聞きに行っていた女性が南郷だったはずだ。その女性が何故ここにと思ったが、答えは本人が教えてくれた。
「なんで死なないの……なんであんたが生きてて……なんで……なんであんたが生きててうちの梨香子が死ななきゃいけないのよ! 代わりに死になさいよ! あんたが死ねば梨香子は戻って来るんだから、今ここで死になさいよ!」
 頭から血を流しふらふらとした足取りで長住さんの方に歩み寄ろうとし、あと数歩の所で突然気絶した。
 暫くして救急車2台とパトカーが3台が到着し、南郷と甲斐君をまず病院へと搬送していった。その後美容室内にいたスタッフ二人が担ぎ出され、少しして女性客らしき人が運ばれていった。
 私達三人は事情聴取の為に残されたが、長住さんが名前を出した途端警官の表情が苦い顔に変わりどこかに電話し始めた。こちらを終始気にしている様子を隠すことなく5分程話したかと思うと、長住さんだけは帰宅していいとぶっきらぼうに言った。理由を問い詰めると小学生だからと尤もらしい事を言ったが、長住という名前が起因なのは間違いない。彼女も残って話をすると言い張ったが、まがいなりにも国家権力に逆らう事は出来なかった。
 事情聴取の時間は大体一、二時間が相場らしいが、私達は4時間も現場に残された。南郷に関しては知らぬ存ぜぬで通せなくもないが、何故ここにいたのかとか子供達との関係性はどうだとか、挙句の果てには突っ込んでくる車に向けてわざと押したのではとまで言い始める始末だった。それには流石の真帆も怒りを露わにし、私に録音するように指示をした。
 などの事があり4時間が経過したのだが、私の両親と真帆の祖父がやってきてそこで言い争いが発生してしまったが為に、帰宅出来たのは更に一時間が経過してからだった。

 怒涛の一日の疲れを湯舟に落とすつもりでじっくり浸かったのだが、半分も落としてこれなかったようで体のあちこちが悲鳴を上げている。もうこのままゆっくり眠ってしまえればどれだけ楽だろうと何度も思ったが、そう上手くはいかないのが世の常だ。
 髪を乾かして居間に入ると、両親がテーブルに並んで座っていた。
 私は椅子を一つ外して、両親の向かい側に座った。
「そっで、どういうこつか説明はあっとだろな」
 父が私を見つめて言った。母はまだ何も言うつもりはない様だ。
「説明も何も車中で説明した通りだけど。まだ何か説明する必要があるの?」
 眉がぴくりと動くのを私は無視して続けた。
「むしろそっちが説明して欲しいくらいだけどねこっちは」
「……何ば言いちゃぁとや」
「何ばって……そりゃあこっちの台詞でしょ。いい加減はぐらかすのやめてくれる? 御粕會小の事と言い、長住さん家となんか関係あるんでしょ?」
「なんも無か。大体こっちが質問しよっとだけん早う答えんか」
「答えるも何もさ」
 私は天井を見上げ、大きく息を吐いた。この期に及んでまだ白を切るつもりらしい。暫しの沈黙が流れ、切り出したのは母だった。
「もう言ってしまったらよかとじゃない? 光輝はきっともう殆ど知っとると思うけど」
「お前は黙っとかんか」
 その言葉に母が怒りを示した。
「ねえ、あなたが光輝に黙っておけば心配いらないって言ってたくせになんなの? 今日光輝は死にかけたのにまだ黙っとくつもり?」
 母が標準語になる時は本気の時だと私も父も分かっている。だが言い出した手前後には引けないのもまた父らしかった。
「だけんてお前が言うこつじゃなか。タイミングは俺が決むっけん」
「だからそれがおかしいって言ってるのが分からない? 光輝は私達の息子よね? 違う? なのにどうして言う言わないを一人で決めるの?」
 このまま夫婦喧嘩をされては本質からずれてしまうと私は口を挟んだ。どれくらい長い間母が我慢していたのか知る由もないが、ここまで怒りを示すのだから年単位なのだろうと推測した。結果としてそれは当たっていた訳だが。
「ちょっと二人で言い争うのは話が終わってからにしてくれる? もう子供じゃないんだからさ。結論から話していこうよ。まず御粕會小の学校の怪談についてどこまで知ってるか教えてくれない? こっちは長住さん家が関わってる所まで知ってるんだから嘘は無しにして」
 黙る父とそれを睨みつける母の構図が続き、私は呆れて部屋に閉じこもった。居間を出る前に「とにかくこれ以上深入りするな」の意図の言葉を頂いたが無視を決め込んだ。
 家中に響き渡る言い争う声は、壁を貫通して耳に突き刺さる。昨日居たネットカフェの方が心も体も休まりそうだ。
 夫婦喧嘩をBGMにしていても睡魔に襲ってくるようで、目が覚めた頃には夜の十二時を回っていた。耳を澄ませても物音一つ聞こえて来ないことから察するに、流石に喧嘩も収まっているようだ。自然に目が覚めたのではなく着信音によって起こされたのだが、画面には水城の文字が。
「もしもし、桑名君今大丈夫? ごめんね夜遅くに」
 スピーカー越しに木がなびく音がする。
「いや、大丈夫だよ……むしろ水城さんこそ大丈夫?」
「ああまあ、うん。お爺ちゃんと喧嘩はしちゃったけど、元気。ここ二日色々ありすぎたね…………濃い二日だったけど、桑名君はどうする? まだ続けるつもりある?」
 まだ二日しか経っていないことに驚愕したが、答えは決まっていた。
「もちろん。上澄みしか触れてないんだから。最後までやらないと」
「だよね、そう言うと思ってた」
 両親の喧嘩の原因も南郷も長住家がもたらした怪談も、まだ何一つ解決していない。やるべきことは山ほどあるのだ。一つ一つ手を付け解いていかなければ。
「あの後帰ってから南郷さんに貰ったパンフレットを読んでたんだけど……南郷さんから聞いた話も擦り合わせたいし、暫く聞いてくれる?」
 まず南郷宅で起きた出来事を聞き、パンフレットの内容を教えて貰った。
 学校の怪談によって子供が連れ去れた家族にのみ、このパンフレットが渡される。
 捜索願いを出そうが警察まで連携している為、情報は学校に筒抜けである。
 霊の存在を信じられない場合は証拠を見せる事が出来るので相談すること。
 子供が居なくなった事をSNSなどに投稿した場合は相応の対処がある。
 秘匿する旨に了承する場合は、補償金並びに新居を提供する。
 金額は年二千万から要相談。
 そして、資金提供の元締めが長住家である。
 パンフレットを大まかにまとめるとこうだろうか。
 長住家にどうしてそんなに資金と権力があるのか肝心な部分の記載は無いが、御粕會町にあるどの機関よりも長住家が上に存在している。たてついた所で何の意味もないし、そもそも失踪した原因が怪談だなんて訴えても鼻で笑われるだけだ。SNSや口頭で子供の失踪を広めようとした家族も中にはいたそうだが、その末路は分かりすく写真付きで説明してくれていた。
「嘘の様な本当の話……なんだろうね」
 見るも無残な姿の男女が、ごみ焼却場らしき施設に放り込まれている。最早組を名乗っていないだけでヤクザとほぼ同じだ。どう転んでも泣き寝入りする他ない。
「君んちの話とよく似てるよね。綱藤家と」
 真帆が言う通りだし私もそう感じていた。違いは規模くらいなものだろう。
「で、話を元に戻すけど南郷家に居た時に確か仮説があるって言ってたけど、何の仮説?」
「仮説とは名ばかりで大事な箇所が抜けてるから、この仮説を証明するためにまた調べる必要がありはするっていうやつなんだけど……」
 そう前置きし、学校の怪談が如何にして出来上がったかを組み立てていく。

 長住家が御粕會の地主あるいは何かを守っている家である。そう仮定する理由は、110年前の地図にある御會川から分岐する玖珠子川、その間の中州部分にポツンと建っているのが長住家だったからである。長住家以外に家は無く、広大な中州部分に他の家が所有している田畑もない。長住家のみがそこに存在していた。粕會川を跨げば幾つかの民家が確認出来るが、それらは一所に固まっている。長住家は差別ないし別物として扱われていたのは間違いない。
 ここで長住家の母親らが唱えていたお経を考えてみる。全文があればベストだが聞き取れた単語だけを抜粋し要約すると「もれでる」は「漏れ出る」、「くず」はくすをにごらせた「玖珠子川」、「ぬくるべ」は前後の文が無いので何とも言えないが、ぬとべしを足すときっと何々だろうになるので「きっと来るだろう」となる。
 続いて土地の話になるが粕會川から北側、真帆達が訪れたマンション側は中州や玖珠子川以南と比べて若干勾配が高い。そして時代を鑑みれば当時の川の保水と排水能力は低かったと考えられる。
 つまり一度に大量の雨が降ってしまえば、みるみる内に『玖珠子川』の水位は上昇し決壊、雨水が田畑に『漏れ出る』状態になったのではなかろうか。その土砂なのか水自体なのか、あるいはそういう時期なのかが『きっと来る』のが、この御粕會だった。
 御粕會を襲う水害をどうにかすべく策を講じたのが、まさに長住家だった。彼らは土地の所有者だが一向に育てられない作物を見、神頼みしかないと考えた。
 長住家は神や土地に祈った。そしてその願いが聞き届けられ、御粕會町で田畑を作っても流される心配が無くなった訳だ。
 しかし喜んだのも束の間、あくまで時期的な問題であり数年おきに水害は発生してしまう。勾配の関係上、どうしても水は御粕會に集まってしまうからだ。土地を上げる為か水の流れを変える為か、玖珠子川を人々の手によって埋めた。
 川そのものを埋める行為も、土地を穢す意味で良くなかったと思われる。
 埋めても起きる水害。より強く土地に懇願しなければならない。そうなった時議題に上がるのが人柱である。長住家は人柱を選び供物として捧げた。今度こそ水害から守られると思っていた。
 人柱が効いたかは別として、水害は何故か収まった。
 だが今度は違う問題が出てきた。その人柱にされた人物、恐らくは久保君と優紀が見たであろう着物の女の子が、長住家ないし御粕會町自体を激しく呪った。
 自身と同じ目に合わせようと、溺死させるか引きずり込むかしたのだろう。謝っても祓おうとしても呪いは収まる気配がない。
 南郷の言葉によれば「昔はこの辺の地主の家から何年かに一人出してた」とある通り、何人も人柱にしたか、女の子に連れて行かれたのだろう。
 そこで建てたのがあの旧校舎だ。『禍を転じて福と為す』という言葉がある通り、日本には悪い物の力を鎮めて良い力に転換させようとする風習がある。太宰府天満宮の菅原道真、座敷童、縁切り榎など例を挙げればキリがない程無数に存在している。使い方を誤れば自分に跳ね返るかもしれないその方法を使い、『かすがい』として校舎を作り呪いを鎮めようとした。
 敢えて校舎にしてのは、一緒に遊べる様にだとかそういう理由だろう。
 その甲斐はあって、御粕會にも子供に被害が起きる事は無くなったかに思えた。だが思えただけで、実際は時期が来れば被害が及んだ。
 仕方なく長住家は自身の家からまた子供を選び、幽霊の機嫌を取る為人柱にした。
 勿論住民から金銭と感謝を貰ってはいたものの、やはり人。子が産まれない時もあれば、自分の家ばかり子を捧げるのは如何なものかと思い始めたのだ。これまで散々子を犠牲にして来たのに、事が起きる度に何故不満をぶつけられなければならないのかと。
 そして、余りある金銭と引き換えに、他の家の子供を人柱にするようになった。
そこで後付け的な理由にはなるが、偶然学校であったが為に幽霊が選ぶ子供を発見しやすかったに違いない。

 一方的に仮説を喋り倒したが、この仮説にはまだ幾つかの穴がある。
「校舎の立て替えが老朽化だとして、どうして三階に霊が出るのか。霊が子供を連れて行くまでの日にち、もしくは期限は決まっているのか。人柱になる人数はどうやって決まっているのか」
「そしてその仮説が正しいとして、どうすれば被害に遭わずに済むのか」
「……だね。それが最大の謎かな。実際行ってみれば何か分かるかもしれないけど」
「行くって……学校に行くってこと?」
「そう」
 真帆が沈黙した。わざわざあると分かっている地雷原に飛び込む様なものだ。助かるなんて黒柳徹子くらいなものだろう。だがそれだけの価値がある。
「十中八九どころか100パー死ぬよ? 私とお爺ちゃんが万全で行っても助かるか分かんないくらい危ない橋だと思う。物理的に人を消すなんてどんだけ凄いか分かってる? 人間の質量を丸々消すんだよ?」
「でも行かないと埒が明かないし、ブラックホールも観測してやっとその正体が判明する訳で」
「宇宙と幽霊じゃ全然話が違うでしょ」
「そう違わないけどまあその話はいつかするとして……とにかく行くべきじゃないかな。幽霊の標的が子供なんだったら、俺たちはその枠から外れてる可能性だってある。早ければ明日……」
「駄目!! 絶対駄目だから!!」
 マイク越しに叫ばれ耳鳴りが起きる。笑いながら謝るが相当怒っているらしく、マイクが拾いきれない程の音量で私を怒鳴りつけた。無謀への呆れと怒り、心配などをつらつらと並べ立てていく。
 冗談で言ったつもりはない。
 この数年間、うだうだとして何か見つけなければと必死になっていた。中学生の自分探しをしている途中の様な、空中にふわふわと浮いているような心許ない感覚がずっとあった。真帆の「トラウマを克服する為に怪談を追っているのでは」という問いが、その感覚を綺麗に晴れさせてくれた。
 私はこの怪談を解決し、自身のトラウマも解消したいのだ。
「これはもう自分のエゴだから無理に付き合う必要は無いよ。巻き込んだの俺だし、危険だなって思ったらすぐ引き返すからさ。そもそも見えてないから発見出来るか分かんないけど」
「…………ちょっと待ってて。すぐかけ直すから。絶対起きててよ」
 言うが早いか通話を切った。このまま友達の縁も切られても不思議には思わない。
 10分後、真帆から電話が掛かってきた。私は1コール目で通話ボタンを押したが、開口一番は溜息だった。
「……お待たせ。ちょっと時間掛かった」
「いや、全然」
「もう一度聴くけどどうしても行くの?」
 口調からして最終確認だろう。私は間を開けずに肯定した。するとまた少し沈黙があり
「分かった。私も行く」
 と彼女は言った。まさか行くと思わなかった私はそれを断わろうとした。
「いやいや、本当にそれは大丈夫だから。だって水城さんが危ないって言ったんだから、水城さんは危険に飛び込まなくていいんだって」
「いや、行く。決めた。乗りかかった船を途中で降りるなんて私には出来ないから。でも条件がある」
「条件?」
「まず準備したいから明日行くのはやめて欲しい。そうだな……明後日に決行しよう。日中にも出てきてるからあんまり意味が無いかもしれないけど。で、あなたは基本的に荷物持ち。分かった?」
「他にも出来ることは」
「荷物持ち」
「……分かった」
 この世の物ではない存在に通じている人が来てくれるのであれば、これ以上無い程に心強い。真帆の祖父から痛い言葉を頂くだろうが、それでも全く構わない。
「それと、これが一番大事。どんな時でも私の言うことを聞く事。何かを持つとか逃げろとか、そういうのは全部守って、分かった?」
「分かった。絶対守るよ」

 帰宅するや否や、陽菜は祖父のただしに呼び出されていた。一体何を言われるのか気が気で無かったが、部屋に入った途端抱きしめられた。
「ああ、かわいそかぁ、そうにゃかわいそかな……んん? たいがな怖かったろうに。もう大丈夫だけんな、爺ちゃんがしっか守ってやっけんが、安心してよか。んん。無事で良かったばいほんなこつ……あん馬鹿はおっどんが始末ばつくっけんな、仇ば取ってやる。爺ちゃんに任せなっせ。だいたい金ばやっとっとにしゃんとせん警察がいかんとぞ……役場ん者も……」
 陽菜には祖父が何を言っているのか良く理解が出来なかったが、あの馬鹿と呼ばれた人物に何か危害を加えようとしているのだけは分かった。
「お爺ちゃん、ね、何もしなくていいから。陽菜元気だから、ね」
 陽菜の声は祖父に届いておらず、ぶつぶつと独り言を重ねていく。抱きしめられたままの陽菜はどうしようもなく部屋を見回した。いつもと違う雰囲気を感じるのは、この家が特殊な状況にあることからか、事故を間近で見たからか、殺されかけたからかの判断は陽菜には難しかった。
 いつもと違う部屋では普段目に入らない物が目に入る。棚の上の鍵付きの箱、壁掛けの集合写真。
「お爺ちゃん、あの写真の右の人はお爺ちゃん?」
 正はやっと呟くのを止めて陽菜から離れ、写真の方へ振り返った。目が悪くかなり近づかなければ見えないはずだが、そこに置かれている物がなんなのか把握しているらしく
「ああ……一番右んとが爺ちゃんでな、そっから左さんいくと大工が柴、勝原、吉瀬。で次が役場ん綱藤、加藤、校長ん江原、教頭ん渡辺。あとが酒屋と庄屋。陽菜は出来上がったつしか見とらんけんがあればってんな、たいぎゃ大変やったぁ。おらんくなる者もおったし、見つからんで作業しよったら埋まっとったりしてからな……しゃんむっでん探す言うもんはくらしてやったばってん、まあ、どれも可愛か陽菜の為だけんしゃあなかたいな。町ん為にもなっとだけん喜ばにゃ」
 納得した風で何度も頷き、正は更に続ける。
「陽菜は六年生だろが? あと二年したら良かばってんが、まだ守ってもらわにゃいかん歳だけん、爺ちゃんが言葉ば教えてやっ。そっば言えば怖かつはどけさんか行くけんな。しっか覚えるとぞ。良かな?」
 一体何の事を言っているのか分からなかったが、陽菜は同意し正の正面に座り込んだ。陽菜の前ではいつでも優し気な表情の正が、これまでにない程真剣な表情をしている。
「揺れな降るうな、漏れ出る崩しぬいづ来るべし、子は鎹な、其は鎹、己が利にして他に落つせ。其が鎹な他に落つせ、其が鎹な他に落つせ」
 分からずとも音は覚える。そうして何度も何度も唱え続け、陽菜が空で唱えられるようになったのを見て
「なんかいかん者がおってな、気に食わんやったらこれば唱えなっせ。『其』のとこさん名前ば入れたらよか。すっとな、陽菜が苦しか気持ちがすって軽くなる。人に教えっといかんぞ。爺ちゃんがそん子に話ばせにゃいかんくなるけんな、爺ちゃんと約束ばい」
「……うん」
 私は一体何を教えられたのだろうか。あのお経の様な言葉は、私が幽霊の声を聞いたあとお父さんとお母さんも唱えたものと一緒だ。そして久保君がいなくなって、藤君がどこかの山奥で幽霊から逃れる為に身を潜めている。分からない。お爺ちゃん達は一体何をして来たのだろう。私の為に? 三階の幽霊から守る為に二人に犠牲を強いたという事か。
 友達がいなくなったのは自分のせい。もしかすると南郷の子供も自分が原因かもしれない。今後も自分一人の命の為に、何人も何人も犠牲にしていくのだろうか。
 自室に戻った途端陽菜は震え、自分では処理しきれない感情の波に押し潰され泣き出した。
 消えてしまいたい。私なんかがいなければ。
 そんな気持ちが陽菜の中にどんどん溜まっていく。実際陽菜がいなかった所で子供達は消えていくが、その一端を担ってしまったが故に自責の念がどうしようもなく生まれていた。
 一頻り泣き疲れて眠ろうとしたほんの数舜前、陽菜の心にある思いが浮上し意識と共に沈んでいった。
 それから起きたのは数時間後だったが、両親は既に夕食を食べ終えていた。キッチンで皿を洗う母に声をかけると、祖父と同様に強く抱きしめられ、父には頭を撫でられた。そのまま立っているだけで陽菜は苦しい感情しか湧いてこない。それを察したのか母から風呂に行くよう促された。確かに汗をかいたままの服も着替えずに寝てしまい、疲れもあってかなり気持ちが悪い。湯舟に浸かればこの暗い気持ちも少しは晴れるだろう。
 そう思い母の提案に素直に従い、風呂場に向かった。
 風呂場には明かりが点いており、誰かが消し忘れたのだろうと思った。張り付いている服を剥ぎ、ドアを開け浴室に入る。
 普段ならお湯が冷めない様、浴槽の蓋を閉めてから次の人に渡すのが常だった。その蓋が開いていたので、陽菜は何気なく浴槽の中を見た。
「あっ……え、おじ……」
 浴槽の底に正が沈んでいた。目を開けたまま浴槽に奇妙に体を曲げてねじ込み溺死している。
 陽菜はその場に崩れ落ち、母がやってくるまで呆然と座り込んだままだった。
 異常な状態での発見搬送となった正の遺体は、長住家の一声により司法解剖などの工程が省かれ、ただ溺死とだけ診断書には書かれた。通常死んだその日の夜に通夜、翌日に葬式となる。だが異例の速度で帰って来た遺体、通夜を行わずにそのまま葬式を慣行。翌日には火葬場へと運ばれたが、骨と化した正を壺に詰める事すら叶わなかった。
 祖父のあの形相も恰好も見たくはなかったし家族の誰とも話したくなかった陽菜は、家に残された方がまだましだと思った。
「やあねえ……あんな死に方……惨たらしいったらありゃしない。あたしゃ金より命の方が大事だけどねえ。孫なんて涙の一つも流してないし、怒らせるとこうなるってことかしら。怖や怖や」
 と他県から駆け付けた親戚らしき人物がぼやいているのをトイレで聞いた。
 殆どの親戚が火葬場に行っている間、陽菜は川を眺めながら学校の怪談を止める方法について考えていた。
 自分が出来る事はないのか、自分だから出来る事があるんじゃないかと。
 その夜の事だった。
コンコン
 と部屋の窓を叩く音が聞こえて来た。両親も遠方から来た親戚も今は完全に寝静まっているし、窓は外側にしか付いていない。聞き間違いだろうか。 
だがまた
コンコン
 と窓が鳴った。陽菜はベッドの脇に置いてあった鍵盤ハーモニカを手に取り身構えた。
 子供達に幻聴を聞かせ、久保君に何かを雨の様に浴びせ、祖父を死に追いやったであろう学校の霊が、私の所にもやって来たのだと思った。しかし
「……ん……ずみちゃん、長住ちゃん」
「え…………桑名、さんですか?」
 予想とは裏腹に、現れたのは光輝だった。十二時をとっくに過ぎての突然の訪問に驚きを隠せなかったが、声を出しては家族に気付かれる。小声で光輝に尋ねた。
「ここで何してるんですか。見つかったら大変な事になりますよ」
「要件だけ伝えたらすぐに出てくから大丈夫。それにまあ、見つかっても死にはしないって分かったから」
 光輝の言う意味を理解するには、暗闇に目が慣れる必要があった。
「要件って何ですか?」
 こんな夜更けにわざわざ訪れるには相応の要件があるに違いない。決心したばかりの陽菜にはグッドタイミングな知らせだ。
「玄関でも裏口でもいいけど、とにかく校舎に入るための鍵を手に入れて欲しい。早ければ早い程助かる」
「……もしかして三階に行くつもりですか」
「そうだね。このままじゃ埒が明かないから確認しに行こうかと思って」
「私が見に行ったら駄目ですか?」
「だっ……駄目に決まってるでしょ。危ないんだから」
「桑名さんも危ないと思うんですけど、なんでそんなに急ぐんですか」
「日曜日が創立記念日だから」
「創立記念日? 何のですか?」
「何って……学校のだよ」
「あっ」
 創立記念日。学校が建てられた日。つまり、彼女にとって忌まわしい憎むべき日。
 この日までに是が非でもあちら側に引きずり込みたい。そう考えていてもおかしくない。まさに今この瞬間にも、声が聞こえ姿を見た人を襲うかもしれない。
 基本的に校舎の鍵は先生が持っているか職員室にあるはずである。見つからないようこっそり盗みだすなんて出来るのだろうか。六時には校舎の出入り口も窓も見回りされて全部閉められてしまう。どうやって鍵を手に入れればいいのか、陽菜にはすぐに思いつかなかった。
 暗闇に少しずつ目が慣れた陽菜は、月明かりに照らされた光輝の顔を見た。光輝の顔にはいくつもの痣がくっきりと残っており、生々しい切り傷が首元にも残っている。
「どうしたんですか……その傷」
「まあ……怖そうなお兄さん達にやられてね……幸い家柄のおかげで焼却されずに済んだよ。苗字一つでもたまには役に立つもんだね」
 彼の苗字が一体何に関係しているのか陽菜には分からなかった。痛そうに頬を撫でる光輝。だが光輝に今ここで詳しく説明している時間は無い。
「遠い遠い昔に実は親戚だったらしいって事だよ。とにかくどうにかして鍵を手に入れて欲しい、もし手に出来たらこの番号に連絡して。出来なくてもまた考えるから…とにかく連絡してね。よろしく頼んだよ」
 光輝はそう言って辺りを注意しながら敷地内から出て行った。
 鍵を入手するなど到底不可能である。ベッドに戻った陽菜は頭を抱え込み、一晩中考え込んだ末、思い切った作戦に出た。

 水曜日、学校付近の路肩に車を停めていると、すぐ後ろに停まっている車から真帆が降りて来た。真っ白な衣装に身を包んでいるせいか、夕陽のオレンジに染まっている。私は車を降り真帆の方に歩み寄ると、彼女は手を合わせながら
「ごめんね! 急遽予定変更しちゃって。お爺ちゃんが桑名君には触らせたくないって言い張っちゃって……ってどうしたのその顔」
 元々真帆の祖父が神主を務める神社まで荷物を取りに行く予定だったのだが、全て彼女の祖父と二人で積み込んでしまったと連絡があったのだ。
「まあちょっと昨日色々あって。図書館にいたのとかその他……いや俺の話は全然いいんだけど、中身何? お爺ちゃんは流石に来なかった?」
「お爺ちゃんは神社にいる。中身はまあ、お酒とか米とか御札とか、念の為チェーンカッターと軍手」
「なるほど。まあ穢れてるから触ってくれるなってことか……よくオッケー出してくれたね。絶対止めると思ってた」
 そう言うと真帆は少し困った顔をして
「実は甲斐君の所に行くって嘘ついたんだ。あの子も関わってるから必要になるかもとか何とか言って。まあそれは置いといてさ……一つ聞きたいんだけどどうやって中に入るつもりなの? ガラスでも割るつもり?」
「俺も最悪そうしようかと思ってたんだけど、まさについさっき状況が変わって……正直急展開過ぎてビビってるというか、嗾けた俺も悪いんだけど」
「何? どういうこと? いや、その痣もさ」
「まあ……道中説明するよ。早く行かないと、人を待たせてる」

 水曜日の放課後。六時を過ぎ、誰もいなくなった廊下に小さく金属の音が響いた。本来開いてはいけないはずの窓が開き、予定していた通りに私と真帆が枠を乗り越えて入っていく。何かがあった時の為に鍵だけは開けたままにしてそっと窓を閉めた。
「桑名君……これは絶対よくない」
「ごめんなさい私が勝手にやったんです」
「いや、俺が長住ちゃんに頼んだのが悪いし、考えてやってくれた結果だよな。俺の方こそ無茶させてごめん」
 大胆過ぎる行動だったとは思うが、長住さんにはそれしか思いつかなかった。放課後になるのを見計らって母に少し散歩してくると嘘をつき、下校する生徒達に紛れて学校に侵入した。あまりに早い家族葬なのもあり、殆どの生徒は長住家がそんな状態にある事を知らない。そして何の疑問も持たれず音楽室に入った。
 音楽室には子供が入れる程の収納スペースが沢山あり、御粕會小には吹奏楽部が無いので用事が無い限り誰も来ない。見回りの先生が音楽室に入って来た時には肝を冷やしたが、流石にそんな場所に入っているとは思いもよらなかったようだ。そうやって完全に校舎内から人がいなくなるのを待ち、六時半を目安に一階に降りて職員室前に設置された公衆電話から光輝に電話を掛けたという訳だ。給食室と植木で道路からは目隠しになっているのでそこを指定し、そして裏門から少し入った所の窓を開け、今に至る。
「こんなの想定外だって。今日は帰った方が良い」
「折角ここまで来たんだから行かないと。もうこんなチャンスそうそう無いよ」
「でも一人だけならまだしも二人は面倒見切れない。何かあった時にどっちかしか守れないかもしれない。絶対帰るべきだよ。私と約束したでしょ? 私の言う事守るって」
「それはそうだけど……じゃあ長住ちゃんはここに居て貰って二人で行くのは」
「私は行きます」
 私達を見上げ長住さんは豪語した。子供達を守る為に敢えて爆心地へと飛び込むのに、それに子供が連れ立って行くのは本末転倒もいい所だ。例え彼女が長住家の人間で一度は霊から逃れられたとしても、今回も逃げられるとは限らない。むしろ一度失敗している分、躍起になって襲ってくるかもしれない。そう説得するのだが
「いえ、私が行かないと駄目なんです。私なら大丈夫です」
 覚悟に満ちた彼女を止めるのは難しい。そう判断せざるを得ず、三階への一歩を踏み出した。
 階段を登る足音は夕闇に吸い込まれて、呼吸や心臓の音すら出してはいけないのかと思う程に静かだった。夜の闇も暗いと思うがこの校舎の光景を一度でも見れば、赤い夕陽が作り出す影の方がより暗く不気味さだと思うだろう。すぐそこに光があるはずなのに、影の部分に光が吸収されていく様に真っ黒だった。懐中電灯を持ってきてはいるが差す程の時刻ではないし、差せば外に光が漏れてばれてしまう。だが、そうなってしまってでも灯りが欲しいと望んでしまう異様さを纏っていた。
 私には霊感が無くオーラだの人影だのの一切が分からない。勿論危険を察知する能力なんて物もない。それでも階段を登り三階に近づくにつれ、微かに、より確かになっていく水の滴る音が、物語の進展を知らせている気がしていた。
 真帆を先頭に進んでいき、何事もなく三階に到着した。夕方の雰囲気に飲まれているだけで、ここまで来てもまだ至って普通の学校にしか見えない。実は角を曲がってもバリケードなど存在しておらず、本当にどこにでもよくある怪談の一つでした、となる事を期待する自分がいた。遠目からバリケードがあるのを視認していたにも関わらずだ。
 そんな妄想を打ち砕く様に角を曲がった先には天井付近まで積み上げられ、ご丁寧に南京錠の掛けられたチェーンでぐるぐる巻きにされた、机造りのバリケードが築き上げられていた。
 明らかに異様なのは外からでも分かったが、間近で見るとより日常に食い込む不自然さに慄いた。横を見れば私よりももっとあからさまに顔を歪め、真帆が強い忌避感を示している。何かしら感じるものがあるに違いない。
「あっ」
 長住さんが何かを見て驚きの声を上げた。目線は私達と同じ方を向いている。
 私は間違い探しの如くその何かを探した。目の前の情景がまず間違いでしかないが、彼女らにとっては日常である。ならば本来無い物がここにあるという事だ。
 私に見えればだが。
「……君、桑名君……あれ、見えてる?」
 今度は真帆がその何かに向かって指さした。指先の延長線上を目で追っていく。
「…………ある、ね」
 二つのバリケードに挟まれた廊下の丁度真ん中。誰が置いたのか分からない赤い上履きが、ぽつん、と落ちていた。
 引き返すなら今しか無い。もしこのバリケードを越えれば、一歩でも教室に踏みいれば帰ってこられない。
 先に動きだしたのは長住さんで、真帆、私と続いた。
 バリケードはチェーンでガチガチに固められており、小柄の小学生であれば通れる隙間はあるが、私達大人は通れそうにない。先生、生徒に気付かれずに事を済ませたかったが、チェーンを切る必要がありそうだ。
「ね、持ってきて良かったでしょ?」
 さぞ自慢げにカッターを取り出す真帆だが、彼女にはこれまで使用する場面があったのだろうか。使い方もこなれている。
南京錠を断ち切ってチェーンを外し、教室側の机から少しずつ脇に避けていく。組み合わさった机を崩していくのは三人いても骨が折れる作業で、人一人が通れる幅を作り終わる頃にはほぼ陽は落ちていた。辛うじて赤い陽光が天井付近に細い線を描いているだけで、視界のほとんどは闇に包まれている。今はまだ目が慣れているが、もう三十分もしない内に完全に見えなくなってしまう。
「私が先に入るから陽菜ちゃんが後について、桑名君は最後に」
 頷き、縦に並んで開かずの廊下へと進み入る。片方だけの赤い上靴がこちらを向いているが、霊が関係している現象を見たのはこれが初めてだった。上靴の布地部分が泥に塗れているのを除けば、本当に誰かがぽんとそこに置いた物にしか見えない。どこにでもある普通の上靴だ。鋭く睨み付ける真帆の目から察するに、彼女にはオーラだとかの類いを感じているのかもしれないが、私にはやはり分からない。
 この時の三人の視線はその赤い上靴に集中していた。校舎内にいる人間が私達三人だけだと思い込んでいたからだ。故に光輝の背後に迫る人物のことなど微塵も頭に無く

ガツン

 固い物同士がぶつかる音が廊下に響いた。私のすぐ背後で鳴ったその音の正体を確かめようと、首を曲げた瞬間私は気を失った。


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