[同人誌]『英国メイドの暮らし VOL.1』 第1章 スティルルーム(蒸留室)から見た屋敷の暮らし〜食・医薬・錬金術・レシピ・社交〜
■使われなくなった「蒸留室」とスティルルームメイドと
英国の屋敷(カントリーハウス)には「スティルルーム」(蒸留室)という部屋があり、「スティルルームメイド」が働いていました。このメイドは、家政領域の女性使用人を束ねる「ハウスキーパー」の配下として、紅茶・コーヒー・お菓子の準備や、コーディアル(ハーブルやフルーツのシロップに漬けた飲み物)やジャム作りなどをしていました。
その仕事内容に「蒸留」が含まれないにも関わらず、なぜその職場となる部屋の名前が「蒸留室」なのでしょうか。その歴史と部屋の役割は、次の2つの資料に見ることができます。
「蒸留室がカントリーハウスに初めて現れたのは16世紀であったが、普及したのは17世紀になってからのことである。もともとそのように呼ばれるようになったのは、宴会の時に使う強壮剤(エリザベス朝時代の意味で)、薬、香料を蒸留するために蒸留器を備えていたからである。蒸留は初め一家の女主人や侍女にふさわしい技能と考えられたので、蒸留室はよく女主人の個室の近くにあった。貴婦人たちはまた、気の利いた料理を宴会に出すのに気を配ったので、二つの役目が果たせるようにかまどや貯蔵用の戸棚などが蒸留室に備えられたのである。
1603年、ヘングレーヴの蒸留室は「ビスケット類、アーモンド菓子、薬草、香辛料入りパン、果物、保存食を用意したり保存する」ために使われていた。18世紀中には家政婦(ハウスキーパー)が蒸留室の管理を女主人たちから引き継ぐ傾向が起きた上、医者や薬剤師を使うことが多くなったので、自家製の薬の重要性は減った。蒸留器は徐々に姿を消したが、保存食やケーキ、それらを作るかまどなどは蒸留室に残ったのである」(『英国のカントリー・ハウス 下』pp.75,78)
「スティルルームは滅多に洗わない体や衣服の臭いを消すために、また身分の高低にかかわらず、ほとんどの地方の主婦が家庭で行う基本的な治療のために使用されました。甘いコーディアルはテューダー朝でとても人気がありました。
18世紀から19世紀初頭にかけて、このような家庭での製造は衰退していきましたが、1840年代にアフタヌーンティーが広く行われるようになると、1時の昼食と7時の夕食の間の空白を埋めるために、スティルルームが再びその役割を果たすようになりました。その頃になるとスティルルームメイドの仕事となり、ハウスキーパーの監督のもと、お茶を入れたり、ジャムやゼリー、小さなサンドイッチを作ったりしました。ヴィクトリア朝のスティルルームの理想的な場所は、「階下」にあり、かつ応接間に近く、ハウスキーパーの監視に便利な場所にありました」(『A Historical Dictionary Life in the Country House』p.298)
これらから要点を整理し直して論点を広げます。
■1・蒸留室で作っていたもの
◯1-1. 医薬品、化粧品、香水、飲み物(蒸留酒、ハーブ水、精力剤など)
「蒸留」の大きな目的のひとつは、薬効成分のエッセンスの抽出でした。蒸留の技術は遥か古代から存在しましたが、蒸留を効率的に行う代表的器具「アランビック(アラブ由来の名称)またはリンベック」と呼ばれるものが、蒸留を効率化しました。これは対象物を温める部分と、対象物の蒸気を受け止めて冷却した上で、液体化して取り出す管を据えた蓋の部分からなるものです。
(『THE COUNTRY HOUSE KITCHEN』p.131から、左:17世紀、右:18世紀に出版された蒸留に関するマニュアル本掲載の蒸留器イラスト)
蒸留器のデザインは時代によって変化しましたが、その根幹は変わらず、現在でもウィスキーなどの製造で、これら蒸留器の子孫が使われています。
ワインやビールなどのアルコール類を蒸留器で蒸留すると、よりアルコール度数が高い蒸留酒が出来上がります。大まかに言えば、原料が大麦やライ麦など穀物を麦芽酵素で発酵させたビール(エール)を材料とする場合はウィスキーに、ブドウ果汁を発酵させたワインを蒸留させたものがブランデーとなります。
アルコールの沸点は78度で水の100度より低く、両者から作られるワインの場合、アルコールの沸点以上の温度かつ水の沸点より低い温度で温めるとアルコールが蒸気となり、水と切り離すことができます。ただ、水以外の不純物も混ざるため、この蒸留を何度も繰り返すことで、より濃度を高めました。
こうした蒸留の簡単な技法は紀元前3000年にはメソポタミアなどで見つかっており、それらが著しく発展したのが8世以降のアラビアでした。蒸留器アランビックを活用したのはジャービル・イブン・ハイヤーンで、「ジャービル文書」とも呼ばれる様々な錬金術・科学実験のテキストを残した人物でした。
蒸留酒とその製法がヨーロッパに伝わると、体を温め、酔いで痛みを抑えて多幸感を与える効果から、奇跡的な治癒力を持つ薬として受け入れられました。13世紀には「命の水」(アックア・ヴィータ)と呼ばれました(『世界を変えた6つの飲み物』「第5章蒸留酒と公海」)。
・錬金術と科学実験と屋敷
蒸留の技法は、錬金術と混ざり合うものでした。たとえば15世紀の錬金術の概念として、当時信じられたギリシア哲学に基づく物質の構成要素・四大元素(土・水・空気/風・火)から根幹・より原理的な物質「第五元素」を遊離させ、より純粋な物質に「還元する・高める」との考え方がありました。
物質そのものには変化する力が内在しており、その本来の姿を取り戻す。その結果として鉄や銅などの卑金属を銀・金などの貴金属へ高めていく「錬金」、黄金錬成を行う媒介となる「賢者の石」、そしてあらゆる病気を治す「エリクシル」が生成できると信じていたのです。
そのため、対象となる物質の不純物を燃焼させ、溶かして液状にし、結合や腐敗・凝固・昇華などのプロセスを経る実験を行いました(『図説 錬金術』pp.12-13)。
このような錬金術のプロセスは、医術や化学にも連なります。最も有名なのは日本でもお馴染みの医師パラケルスス(1493-1541、本名:テオフラストゥス・ホーエンハイム)で、彼は植物や鉱物の中には生命霊気アルケウス(第五元素的なもの)があると考え、それを抽出した万能薬を作ろうとしました。
パラケルススは歴史に残る万能薬は作れませんでしたが、鉱物を医薬品として利用する医化学の道筋を作っていきました。
そして、様々な人々が科学実験を繰り返し、屋敷もまたその実験の舞台となっていくのです。「蒸留」を含めた「科学実験」を自身の家(屋敷)で行うことは、17世紀には決して珍しくありません。
屋敷と実験について、次のようなテキストがあります。
「従来の家庭での科学についての研究といえば、邸宅がいかに科学史に名を残した人々の取り組みを助け、進展させた環境であったかということに重点が置かれがちだった。スティーヴン・シェイピンは画期的な随筆『実験の家(The House of Experiment)』で、紳士たちの私邸は日々、多くの実験による成果が生み出されていた場所だったと述べ、コンウェー家の邸宅、ラグリー館での医療化学者で医師のフランシス・マーキュリー・ヴァン・ヘルモント(1614-98/99)による取り組みほか、義父サミュエル・ハートリブのチャリングクロスの厨房を実験室に使った、化学者で医師のフレデリック・クロディウス(1629-1702)、コヴェントガーデンのサー・ケネルム・ディグビーの自宅の実験室など、豊富な事例を示している」(『英国レシピと暮らしの文化史』p.19)
このテキストでは魔術・錬金術の著名人も挙げられています。ジョン・ディー(1527-1608)はエリザベス一世の宮廷に出入りした数学者で、占星術師・魔術師でもありました。彼は職人や技術者へ、幾何学を広めた人物でもあります。
ファン・ヘルモントはベルギーの錬金術師で、パラケルススの残した学問を学ぶ立場でした。化学者として「ガス」の概念を導入しました。その教えを受けるサミュエル・ハートリブはハートリブ・グループと呼ばれる、様々な化学者が属する化学実験・錬金術のネットワークを作りました。
そのグループに属したロバート・ボイル(1627-1691)は「ボイルの法則」で知られる近代科学を進めた人物であると同時に、家庭教師から錬金術を学び、自らも研鑽した錬金術師でした。
錬金術と医学・化学が実験室の中で重なり合った時代でした。
科学者と上流階級で言えば、デヴォンシャー公爵の三男を父に持つヘンリー・カヴェンディッシュ(1731-1810)も薬学の歴史に名前が出てきます。ヘンリーの父も熱学、電気学、磁気学などの科学者でした。遺産相続後もヘンリーは屋敷の実験室で、人工空気の研究をしました。彼は恥ずかしがりで、家事使用人に自身の視界に入らないように命じ、それに反すると解雇するという、使用人関連のエピソードもあります(『薬学の歴史』p.139)。
この時代の学問の担い手には、屋敷を構えられるだけの経済的余裕がある立場の人々が含まれました。
・家庭で作られた様々なもの
中世後期にはハーブや花、種子、根などから薬効成分を抽出する蒸留を含めた技法は修道院の修道士や、薬屋が行っていました。そうした技法が、16世紀初頭には一般家庭でも行われるようになりました。
薬の原料をワインなどに混ぜて蒸留を行うと、薬効成分を濃縮した薬草ワインができます。家庭の蒸留室では他にも、植物のエッセンシャルオイル、香料をアルコールと混ぜて蒸留した香水、コーディアル(ハーブまたはシロップ飲料)、そしてバラ水などが作られました。
特に人気があったのは料理にも医療にも使われたバラ水です。
「16世紀から17世紀にかけて、バラ水は最も需要のあった蒸留水であり、料理や甘い食材の香り付けに広く使われるようになっただけでなく、心臓を強くする薬効があるとされ、熱病や「熱い」病気の患者のためのポーションに加えられる冷却材としても重宝された。
バラ水を作るために、バラの季節には大量の花が集められた。1593年のラットランド家の家計簿には、「サウスウェルのジェームス・ニコルソンに、夫人のために静置する2万4千本の赤いバラを、庭師のトーマス・ペインターが1000本あたり10ペンスで随時調達した」という20シリング(1シリング=12ペンス)の支払いが記されている」(『THE COUNTRY HOUSE KITCHEN』p.130)
冒頭の「蒸留室」の解説テキストの中で言及された「強壮剤」では、食事の最後に「消化剤」として提供されたスパイス入りワイン「ヒポクラス」が有名でした。名前の由来は古代ギリシアの「医学の父」ヒポクラテスが考案した「水を濾すために作った布」です。この布を使ってスパイスを濾したワインは薬効・催淫作用があったとされ、ジル・ド・レやルイ14世が愛飲したと言われています。そのレシピは、以下の通りです。
「1631年に作られた伝統的なレシピは、最高品質の赤ワインまたは白ワイン10ポンド、シナモン1.5オンス、クローブを2スクルーブル(薬用単位で1.3g)、カルダモンとグレイン・オブ・パラダイスをそれぞれ4スクルーブル、ジンジャー3ドラムを用意する。スパイスを粗く砕き、ワインに3~4時間浸す。白砂糖1.5ポンドを加える。これを何度か濾すと完成する」(『The Oxford Companion to Sugar and Sweets』p.333)
屋敷ディラム・パークでは、1710年の様々な道具を記載した目録が残っています(この屋敷は、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの小説『日の名残り』の映画版の撮影地として有名)。
「ピューター(白鑞)製の蒸留器は、エッセンシャルオイルや蒸留酒のコーディアルを蒸留するためのもので、銅製のポットはコーディアルの原料を煮出すためのものでした。「コールドスティル」とは、おそらく気化した煎じ薬を冷やすための湯煎のことでしょう。また、特許薬に必要な微量の量を正確に測るための真鍮製の秤と錘もありました」(『Behind the Scenes: Domestic Arrangements in Historic Houses』p.55)。
化粧品も蒸留室で作りました。歯を白くしたり、普段から肌をすべすべにする化粧水、そして肌を白くみせるファンデーションなどもレシピが残っています。
化粧品に関してはエリザベス一世が非常に多く使い、宮廷の女性たちがそれに倣いました。女王は29歳の時に重い天然痘にかかって顔に痕が残ったため、それを隠すために美白の化粧をしたと伝えられています。
化粧品レシピには、髪の手入れ、髪のボリューム増量、はげ頭への対応、髪を染める、そしてムダ毛処理のためのものもあり、いつの時代も悩みはありました(『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』第7章「美容とファッション」)。
ご参考までに『女は男に従うもの?―近世イギリス女性の日常生活』で紹介されたのレシピを2つ取り上げます(くれぐれも真似をしないでください)。
「はげ頭に効くレシピ(『20の類まれな秘術の宝典』)
ハチ数匹を石炭すくいのようなものの上において焼くこと。そして、その灰をサラダオイルに入れて煮るように。それを髪の毛が生えてきてほしいところに塗ると、すぐに望みが叶えられるであろう」
「30分で髪の毛やあごひげを栗色に染める(『貴婦人がたの本当の喜び』)
硫黄で灰状にした鉛を少しと、生石灰を少し用意し、それらを水と混ぜて薄くしてこねなさい。それを髪に塗り込み、15分くらい乾かすこと。その後、数回きれいな水で洗い流し、最後に石鹸と水でよく洗うこと。そうすれば、とても自然な髪の色になるであろう。髪に塗り込んだ時間が長ければ長いほど、髪の毛はいっそう明るい色になる。この方法では肌に色がつかず、髪の色は長持ちする」
◯1-2. 食品の製作
蒸留室では、宴会に提供する砂糖菓子や、果物のジャムなども作りました。蒸留室で提供する飲料、そして砂糖類の味覚は16-17世紀の流行しました。
特に砂糖は、植民地支配が確立して輸入が急増して日用品になるまで、高額な希少品で、薬とも見なされました。ヨーロッパにも権威を持ったアラビアの医師イブン・スィーナー(アヴィセンナ、980-1037)は「砂糖菓子こそは万能薬である」と断言し、12世紀のビザンティン帝国の皇帝の侍医も熱冷ましにバラの花の砂糖漬けを用いました。かつ砂糖を使ったジャムにすれば、季節を過ぎた果物を味わえる保存品が作れました(『砂糖の世界史』p.63)。
先述した屋敷ディラム・パークの1710年目録では、「繊細な小さなプディング用の44個の砂糖菓子用グラスと6個のシラバブ用グラス」が蒸留室の備品目録にあり、この時代に提供されて品物がわかります。
他に、蒸留室で作られた食品は、ビスケット類、アーモンド菓子、香辛料入りパンなどでした。蒸留室は、屋敷のキッチンより湿気が少なく、夏でも炉を使って乾燥していたので食品・ハーブなどの長期保存に適しました。
「冬には乾燥したハーブを蒸留して、ミントウォーターなどのシンプルな水を作ったり、スパイスを加えたコーディアルを作ることもありました。摘んだばかりのバラの花びらを保存する方法もあり、バラの季節が終わってもローズウォーターを作ることができた。乾燥したスティルハウスは、ハーブを乾燥させるだけでなく、「ビスケット・ケーキ」と呼ばれる乾燥した甘味料や保存料を箱に入れて、瓶に入った小粒の甘味料やグラスに入った蒸留水と一緒に並べておく場所となった。固形の砂糖菓子は、作ったばかりの時に乾燥させることが重要である」(『THE COUNTRY HOUSE KITCHEN』p.136)
食品を直に乾燥させるため、扉のない食器棚がありました。棚にはブリキ・訛りを敷き詰めて、そこに結晶化・乾燥化・砂糖漬けにした、果物や花が並べられました。17世紀にはフランスから「ストーブ」(扉のない戸棚の形をして、金属線の網を使って暖気を循環させて乾燥を最大化させる)も導入されました。
食品の中で砂糖と同じく、蒸留室関連で言及されるのはスパイスです。カントリーハウスの勃興期は、スパイスが希少品で、それらを求めた大航海時代にも重なりました。スパイスワインは希少品を用いた贅沢な飲み物でした。スパイスは薬や、肉の保存にも使いました。冷蔵庫・冷凍庫がなく、食品流通も不自由だった時代にあって、贅沢な食事の作成に保存品は必須でした。
◯1-3. そのほか日用品
実験室とさえ言えるスティルルームでは、ビネガーといった調味料、ピクルスなどの保存品、そしてロウソク、磨き粉や石鹸、ワックスなどの日用品も作られました。それらの原材料を調合する・整えて制作するだけの備品が揃っており、屋敷の生産拠点だったと言えるでしょう。
■2. なぜ屋敷で作っていたのか?
◯2-1. なぜ薬を作ったのか?
蒸留室で作り上げられた品々を見ると、現代人としては「なぜ、それを市販品として買わなかったのか」という疑問が生じます。特に、専門性が必要と思える「薬」をわざわざ屋敷で作っていた理由が、私にはよくわかりませんでした。
そこで、薬学や薬の流通の歴史を調べていくと、この時代には今の時代には当たり前といえる「薬」が十分に流通していないことがわかりました。薬の効果についても科学的知識の水準は高くなく、迷信・魔術とも重なりました。
ここで医療を取り巻く環境を整理します。いずれ扱うかもしれないヴィクトリア朝の医療理解にも繋がるので、テキストは少し長めになります。
・医学知識
医療の領域には、当時の大学で専門教育を受けた医師(内科医)がいました。彼らが大学で学んだ医学の知識は古代ギリシア医学の影響下にあり、医師ヒポクラテスや、ヒポクラテスの医学を集成した医師ガレノス(2世紀)の著作や彼が提唱した四体液説が主流でした。
ガレノスの四体液説は、ヒポクラテスの血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁といった四体液と、錬金術で言及した四元素(地・水・火・空気/風)と、アリストテレスが加えた「熱・冷・湿・乾」という要素を組み合わせた理論でした。
体液の「過剰・腐敗」が健康を害すると考え、外科医による体液の除去として「瀉血」(傷をつけて血を抜く、あるいはヒルに血を吸わせる)と、薬剤師による下剤(広義の下剤で、洗浄剤、嘔吐剤、発汗促進剤、利尿剤、食欲増進剤など)の投与を行いました。以下、四元素と体液の関係を整理したものです。
【四元素と体液の組み合わせ】
(『薬学の歴史 くすり・軟膏・毒物』から編集・作成)
ガレノスの四体液説に基づけば、元素や性質はすべての地上の存在を構成する要素でした。植物、動物、そして人間にも適用され、それぞれが上記の固有の性質を帯びました。
そうした「組み合わせ」から、症状が生じると考え、治療方法として「その反対の性質を持つ処方を行う」ことが、医学の根幹でした。
たとえば、「熱+乾」の性質を持つ体液の黄胆汁が過剰で症状と診断した場合、反対の性質を持つ「湿+冷」の性質を増やす必要があり、そのために両方の性質を持つ「スミレのシロップ」を投与しました。
「熱+湿」の体質を保つ血液が過剰とされる患者は、同じ性質を持つ「熱+湿」の食事を避け、「冷+乾」の性質を持つ「子牛、子羊、若鶏など」を食べることが推奨されました(『薬学の歴史 くすり・軟膏・毒物』「医薬品の概念の根底にある学説」)
ガレノスはまた、ワインも奨励しました。剣闘士の傷口の消毒や、体液の調整に用いました。ワインは「熱+乾」の性質を持ち、胆汁の促進を促し、粘液を抑えるとして、発熱している者(「熱+乾」の病気)に与えてはダメですが、風邪(「冷+湿」の病気)には有効とされました。
長く続いたガレノスの四体液説を否定したのが、パラケルススです。詳細は割愛しますが、医学者としてのパラケルススは人体を構成する元素の概念を「硫黄、水銀、塩」として、人体には錬金術で言及した生命の根幹「アルケウス」があり、それが病や毒から人を守っていると考えました。
パラケルススは、人体の均衡を崩して病を引き起こす要因を「天体因(七惑星の影響)」、「自然因(個々人の身体で決まる寿命)」、「精神因(精神不調の影響)」、「神因(神の救いでしか治せない)」と分類し、「硫黄、水銀、塩」のバランスが崩れた場合、均衡を取り戻す(と考えた)医薬を投じました。
パラケルススの医薬の中には、当時として革命的となる金属・化学物質がありました。事例となるのが、梅毒の患者に対しての水銀の蒸気吸入です。
ガレノスにせよパラケルススにせよ、「人間の状態」に対して「適切な処方」を行う点で一致しています。患者の状態を診断し、適切にバランスを整える手法として、外科手術や内服薬が存在しました。
とはいえ、「病気を引き起こす病原」に対して、直接的効果を発揮する処方を行えているわけではありませんでした。
◯2-2. 医療技術の信頼性と、医薬の流通
「医療や人体についての信頼できる情報は、残念なことに、16、17世紀にはなかった。魔術、いかさま治療、占星術、頼りにならない古典理論[四体液説]が、その代わりをしていたのだ。さまざまな治療師が薬を販売するか、専門医として患者に治療を施すことで暮らしを立てていたのである」(『女は男に従うもの? 近世イギリス女性の日常生活』p.51)
魔術と同じ扱いをされる医療の担い手は、16-17世紀には既に分業されていました。専門知識に基づく症状の診断と処方箋を書くのは医師(内科医)で、16世紀のなり手は主に聖職者でしたが、医療と宗教が切り離される中で、非聖職者へとなり手がシフトしていきました。
1518年創立の「王立内科医協会」は、ロンドンとその近郊の内科医を管轄する組織としてヘンリー八世が認可を与えました。協会は免許を与えたり、医療情報の統制・普及を行ったりしました。
外科手術(血を抜く瀉血、腫瘍・潰瘍・骨折・梅毒の治療、状態によっては患部切断、抜歯など)を行う外科医の領域には、歴史的に内科医の外科手術をサポートした理髪師も加わり、英国では外科医組合に理髪師を加えた「理髪師・外科医組合」が1540年に設立されました(時期・時代によって協会の構成は変化します)。
薬剤師の組合も存在し、人数は多く、薬を供給したり、診断して薬の処方をしたりしました。ただ、薬剤師の治療行為は認められないために診療報酬は得られず、あくまでも薬代が収入となりました。この時期の薬剤師には食料雑貨商も混ざり、医療の様々な業種の境界線も曖昧でした。
この医師や薬剤師の置かれた構造はヴィクトリア朝にも変化していきます(別の機会に扱います)が、公的認可制度を進める中で内科医は、様々な治療師(理髪師、外科医、助産婦、主婦、そして「ワイズウーマン」と呼ばれる伝統的民間医療にかかわる女性魔術師)を医療の現場から排除しました。。
ちょうど16-17世紀は「魔女狩り」が行われていた時代にも重なり、上述の「ワイズウーマン」の排除が魔女狩りの形で行われたとの指摘もあります。
女性医療家の排除をフェミニズムからの観点で論じた1970年代の古典的名著『魔女・産婆・看護婦 女性医療家の歴史』に、その考察が詳しくありますので興味のある方はご一読ください。魔女狩りにも話は繋がります。
話を戻すと、「専門家」たる内科医の医療知識にも、課題がありました。人体の理解に基づく医学知識水準や資格制度の管理を含めて「内科・外科・薬剤師の知識が信用できるのか」、さらに「彼らの専門性が担保されているのか」は別の話でした。
大学で学んだ知識は古代ギリシアから続くもので(途中、アラビアの知識などが加わったとしても)、現代から見れば適切ではないものが含まれます。
・ニセ医者と万能薬
今回扱う時代には「ニセ医者」が多くいたり、効果がない「万能薬」を売り捌く薬商もいたりしました。様々な症状に効くという「万能薬」は絶えることなく、ヴィクトリア朝でも販売され続けました。
医療提供者の水準についての参考資料『健康売ります イギリスのニセ医者の話 1660-1850』(ロイ・ポーター:著、田中京子:訳、)では、ニセ医者や過剰な宣伝でニセ薬の販売を行なった薬商人など「健康の売り手」を解説していますので、ここで少し紹介します。
ニセ医者の一人、ジョン・テイラー(1703年生まれ)は薬剤師の息子で、外科教育を受け、後に「眼科医」となってヨーロッパ各地を遍歴して治療を行い、各地の王宮にも出入りしました。著作『眼の仕組み』は専門性に富み、眼科知識と外科の腕も優れたものの、彼は「内科医」ではなく自称「医師」でした。
「ニセ医者」の顕著な特徴は、過剰なほどの自己宣伝でした。有力者との繋がりを強調して社会的信用を高め、医療で失敗して信用を失っても、新しい地へ移動して活動を続けました(『健康売ります』2章「ニセ医者の遍歴」)。
効果のないニセ薬の流通については、どうでしょうか。
商品の水準もさることながら、そもそも医師の診断に報酬を支払える人々は限られました。住む地域によっては病に苦しんでも医療人材がいない場合もあります。そうなると市販薬で済ませたいと思うのも、当然です。
そこに付け込む商売をしたのが「万能薬」でした。もちろん、そんな奇跡的な薬はありません。ニセ薬の製薬業者は流通網を幅広く広げ、卸業者や小売業者に商品を売りつけ、書店、靴屋、既製服屋、陶器屋などの店頭にも薬が並びました。新聞広告の発展も、ニセ薬の宣伝に寄与しました。
商店がない農村では行商人が売りました。適切な医療知識がなければ、誤った医療を受けたり、誤った薬を飲んだりする危険もあったのです。
・歴史に残る万能薬
「万能薬」は一種の奇跡的存在でありつつ、長く処方され続けたものがあります。まず、古代ローマ帝国と敵対したポントス王ミトリダテス6世(紀元前132-63年)の名を冠する解毒薬「ミトリダテス(ミトリダディコン)」です。
毒殺を恐れた王は少量の毒物を摂取し続けて毒への抵抗力を高めますが、ローマとの戦に敗れて自害する際、毒が効かずに部下に首を刎ねさせました。この王の宝物庫にあった抗毒剤とその処方を、勝者ポンペイウスがローマに持ち帰ったものが由来となり、アヘンを含め46種類の薬物を調合した薬とされています。
医学の大家ガレノスはミトリダテスに手を加え、「ガレノスの解毒薬」として材料を足しました。材料はトカゲの粉、ケシの汁、各種香辛料、香料、ネズの実を抽出して取れるジュニパー・ベリー、生姜、ドクニンジンの種、干しブドウ、ウイキョウ、アニシード、甘草など71種類で、どんな毒にも効く万能薬としてワインと共に飲ませたと言います(『世界を変えた6つの飲み物』p.93)
もう一つ、万能薬として名を残したのは「テリアカ」です。テリアカは古代ローマ時代から第二次世界大戦後まで生き残り、近代の認可された薬局でも販売され続けました。
テリアカは「野獣を撃退する」という意味で、紀元前200年ぐらいに毒蛇などの毒への解毒薬として作られ、50-60年頃に皇帝ネロの侍医アンドロマコスが数十種類の薬剤を混ぜた「アンドロマコスのテリアカ」を処方しました。その後、ガレノスが著作内でテリアカを称揚し、ヨーロッパで長く使われる薬となり、痛みやペスト、赤痢に効果があったとされました。
使われ続けた万能薬は「数多く薬効成分を混ぜれば、より薬の効果は高まる」との「多剤療法」に基づき、テリアカの材料数も時を経て100を超えました。一方で、ミトリダテスとテリアカはアヘンを含有し、それが病状の痛みを弱めた主要因ではないかとの指摘もあります。
病状に有効な薬効成分を抽出した素材が大規模に流通するのはまだ先の話で、生物由来の原料から薬効だけを取り出すのに成功したのも19世紀初頭でした。
◯2-3. レシピと医療本
・古代から伝わるレシピ
屋敷で薬を作るためには、原料や生薬を入手して自ら蒸留する成分を取り出して加工する必要がありました。その調剤を助けたのが「レシピ」です。
自然の草木や動物などの薬効成分や、毒性を把握して危険を避ける知識は、書物の形で受け継がれました。
古代ギリシアのテオフラテス(紀元3世紀)が500種類ほどの植物を記載した『植物誌』(薬効成分の記載を含む)を書き、ディオスコリデス(1世紀)は薬用に特化した『薬物誌』を記しました。
ディオスコリデスと同時期にかなり広い範囲の知識を網羅的に集めたプリニウスの『博物誌』も、膨大な参考資料と民間伝承を収集し、薬効や毒物の情報を載せました。
ガレノスも知識の集約者の一人でした。
「宝石」「鉱物」の医療効果・薬効成分への関心も広がっており、中世キリスト教の偉人も本を書きました。12世紀半ばの聖ヒルデガルドは『フィジカ』(自然学)で、アルベルトゥス・マグヌスは『鉱物誌』(1250)で、自然の植物、鉱物などの薬効(宝石治療)を記しました。
古代ギリシアやローマの本を含め、本は写本の形で修道院や好事家の間で読み継がれ、15世紀の活版印刷技術の普及によって、幅広く広がっていきます。
・16-17世紀出版文化の広がり
同時代の医師たち(パラケルススも)も、様々な本を出版していきます。英国では17世紀に「薬剤師の秘密の暴露」を行う出版物として、ニコラス・カルペパーが『医療指針集すなわちロンドン薬局方』(1649)、『英国の医療』(1652)を刊行しました。
専門書では、『医術の心髄、すなわち人体のいくつかの部分についての学術的論説』(1640)、『家族の医療と家庭の薬方』(1676)、『至極の薬類術、本草学と生物学』(1678)や、英国王の医師を務めたジョージ・ベイトの『ベイトの調剤術』(1688年にラテン語版、1700年に英訳版)などがあり、17世紀の間に200点以上の医療書が出版されたと言われています。
主婦の悩みに応えるレシピ集も出版されていきます。古くは『便利な極意の宝典』(1573)、『種々様々な分野の多数の重要なこと』(1579)、『未亡人の宝物』(1582)、『貴婦人たちのお気に入り』(1600)と続編『貴婦人と淑女の小部屋』(1602)など、16世紀から続くものでした。
特に出版が活発になったのは、ピューリタン革命(1642-1649)の後に印刷物の検閲が緩和したことによるもので、医療のレシピ本も急増しました。
この時代の新しい傾向は、上流階級の女性によるレシピ本が増加したことです(実際の著者か、名前を勝手に借りたかは別として)。16世紀のケント伯爵夫人エリザベス・グレイに関連づけた『医療と手術の貴重な至上の奥義の選りすぐり処方集』(1655)、チャールズ1世の王妃ヘンリエッタ・マリアのレシピを載せた『女王の開かれた小部屋』(1655)が出版されました。『身体と外科手術の選りすぐりの役立つ極意』(1656)は「レノックス公爵夫人」が保存したレシピ集を、ジョン・スタッフォードが出版したものです。公爵夫人の肖像画を掲載し、レシピ集の信頼性を高めました。
以降、数が多いので別の機会にリスト化しようと思いますが、ご興味のある方は典拠となる『英国レシピと暮らしの文化史』(第6章「売り出されたレシピ」)を、是非お読みください。
「レシピ本」の隆盛の中、知識を他者に伝えたい科学者の出版物も増えます。科学者ロバート・ボイルも、1692年には『医薬の実験、おおよそごく簡単に用意できる最適で安全な治療薬集』というレシピ本を刊行しました。
・ヴィクトリア朝のレシピ本へ
レシピそのものの歴史は、人が記録を様々な形で残した、それこそ古代の「粘土板」「パピルス」「羊皮紙などの写本」から続き、活版印刷が主流となった15世紀以降に、刊行点数を伸ばしました。
そして、私の専門領域たるヴィクトリア朝の頃にも、このジャンルの出版は続き、かつ英国メイドの仕事にも密接に関わってきます。
中流階級の家庭のバイブルと呼ばれた『ミセス・ビートンの家政読本』(1861)の登場です。冒頭のテキストとの繰り返しになりますが、商業的成功を収めたこの本には、中流階級として生活をする際、女主人が必要とする情報として、家事使用人の雇用やそれぞれの職種に求められる業務内容、料理のレシピからコース料理の順番、家事の様々な工夫、そして「家庭の医学(Domestic Doctor)」の項目がありました。
当初、私は19世紀が『ミセス・ビートンの家政読本』のような「家庭向けマニュアル本」が花開いた時代と考えていましたが、もっと前の時代から、粛々と家庭向けの本の出版そのものは行われていたのです。
◯2-4. 屋敷固有の体験知としての「レシピ集」
出版された「上流階級の女性たちが集めたレシピ集」の元になるような「お手製レシピ集」は、実際に様々な家の中で作り込まれ、編集され、知識をアップデートして、半ば家宝のような位置付けで各地の屋敷に保管されました。
信頼できない情報が流通する中、屋敷の主たちは自らレシピを集めました。情報源となったのは、医師から受け取った薬の処方、流通する本、そして一族や友人、近隣住民など個人的ネットワークの中で有効とされる「レシピ」(料理なども含めて)の記録で、それらをノートに書いて蓄積していきました。
このような「屋敷の知恵の結晶」といえるノートからなるレシピ集を研究したのが、主要参考資料『英国レシピと暮らしの文化史』です。同書は屋敷で生きた人たちが、いかに健康に気を配り、様々なレシピ情報を集め、レシピを実践して作った物を試し、評価し、改良を加えていたのかを描き出しました。
同書で紹介されるレシピ集の一例では、アーチデルマー・パーマー(1610-73)が14年の間に記した150レシピと、ベネット家のフィリップ(1725歿)とアン・ストロード(1735歿)の夫妻が40年続けたものが言及されます。これらには「日焼け、火傷、くる病、めまい、痛風、マラリア熱、脱腸、鼻血、歯痛といった多岐にわたる一般的な症状を緩和する治療法」が記述されました(『英国レシピと暮らしの文化史』p.31)。
興味深いことに、レシピ集を記載したノートの項目に「レシピの入手日付」「場所」「情報源」が細かく記載されました。『英国レシピと暮らしの文化史』によれば、ベネット夫妻のレシピ集には情報源として母親の方の親戚フローレンス・モンペッソンのレシピ集を底本として軟膏・オイル・薬の作り方を教わり、誰それが使ってどんな効果があったなどの評価情報も記載しました。
他にも、様々な一家が「レシピ集」を作り、底本からコピーし、家族内の独自ネットワークで情報収集し、いわば「レシピ集を育成」しました。このような著作の情報源と効果は一族で厳密に管理され、娘が結婚するときにレシピ集を持たせたり、相続の際にレシピ集を残したりと、貴重な財産のように扱われました。
レシピ集の書き手は夫や妻、あるいはその両方でした。資料で紹介されたベネット夫妻以外にも、ヘンリー・フェアファックス師と妻メアリー・チャムリー・フェアファックスのレシピ集は『フェアファックス奥義集』として残されています。レシピ集の管理のため、索引を巻末につけたり、症状別に書いたり、後で追記したりと、適宜、編集が行われました。
自家製薬のレシピ集には、自分たちにあった「適切な分量」の情報も現れました。屋敷リディア・パークを所有した17世紀のレディ・ジョアンナ・シンジョンは、ロンドンの邸宅に住み、必要な物資を取り寄せる際には領地がある屋敷の使用人へ事細かな指示を手紙で送りました。その手紙の中には、医薬や蒸留にまつわる詳細な分量の情報が含まれました。
「シトロン水を作るためにシトロン8個とレモン12個を送ります。蒸留方法のレシピも同封しますので、ミスター・ゴラムに蒸留してもらい、あなたも必ず立ち会ってください。すでに送ってあるガラスの容器に入れて、ワインは屋敷にあるものを使い、そちらにある棒砂糖で事足りなければ、マールボロで白氷砂糖を調達してもらわなくてはいけません。ぜひアランビック器での蒸留をお願いします」(『英国レシピと暮らしの文化史』p.92)
ジョアンナは柑橘類を用いたレシピを所有しました。その効果は、湿疹や吹き出物、そして肌を美しくなめらかにするというものでした。そしてこの念入りな指示の背景には「自分の裁量で作る」ことへの意欲があり、「独自に作ることで最良の薬草を使い、体質に合わない材料を避けられる」「好みの甘さ・アルコール度数にできる」「琥珀のような効果な材料を使う場合も家庭で作れば盗まれない」など、信頼性を担保しようとする意欲が垣間見えました。
同時代の医療分野でも同じように「自家製の製薬」を行うメリットとして、当時の本『家族の医療と家庭の薬方』(1676)では「田舎の薬剤師たちが新鮮ではない材料を使って得意客たちを騙しているかもしれない」と述べます。
同じ『家族の医療と家庭の薬方』では、薬剤処方のレシピを暴露した『ロンドン薬局方』からレシピを厳選して抜粋した上、読者が買い物で騙されないように「薬剤師・薬屋などから買い入れる際の薬や薬効植物の適正価格まで掲載する」念の入れようでした(『英国レシピと暮らしの文化史』pp.94-95)。
医療情報の信頼性、流通する医薬・材料の信頼性、さらには賢くお金を使い、さらに自分たちのために医薬をカスタマイズして最適化する。それが、当時の一部の人々の行動でした。
レシピ集の著者たちの中には、実際にレシピに従って作った薬の効果を試し、結果を見て、薬の量や成分を調整したり、様々な新しい情報を取り入れたりする「改良実験」も記録しました。これは「科学者」のような行いです。
◯2-5. 贈与ネットワークの中の「レシピ集」
私が「レシピ集」にこだわるのは、『英国レシピと暮らしの文化史』で「レシピの引用元」を記述した理由に「贈与経済」があったからです。役立つ情報の提供は、見返りを期待でき、社交上のつきあいを有利にできる「ギフト」でした。謝礼として、別の「役立つ知識」もギフトになりました(同pp.56-60)。
贈与、すなわちギフトあるいはもてなしこそ社交であり、屋敷の存在意義のひとつでした。元々、英国でカントリーハウスが発展して様々な機能を持った背景の一つには、「有力者のもてなし」がありました。
ここでカントリーハウス発展の背景を説明すると、中世には常備軍がなかったため、王は自身の兵や、貴族や有力者たちが抱える私兵を頼りにしました。
カントリーハウスが勃興していくテューダー朝(1485-1603)では王権強化が進み、私兵を制限して国王指名の州統監に軍を統括させたり、地方の司法・行政を治安判事に委ねてジェントリ出身者を起用したりと、敵対する貴族や有力者を弱体化させる政策が進みました。
その結果、「社交」の重要性が増しました。王権が主導する宮廷生活へ上流階級を導き、その見返りとして、法律に基づく政治的・社会的優遇・特典を与えたからです。王を中心とした宮廷政治で認められる方が、(法で禁じられた)軍事力で権力を目指すより有効な手段となり、王とその周辺の有力者をいかに近付くかが重要となりました。特にエリザベス一世は、父のヘンリー八世よりも、臣下の屋敷訪問を好みました(女王を迎えるには莫大な費用がかかり、経済的ダメージを受ける側面もありましたが)。
有力者との関係性が重視される環境では、私兵も不要・軍事拠点たる城も不要となり、有力者(と地元の領民)との関係性を強化する「もてなし」のため、そして自らの生活環境を向上させるため、「カントリーハウス」が建てました。
もてなしの手段として最もわかりやすいものが「他では食べられない特別なごちそうの提供」や、病気の悩みを解決して命をも救う「医薬の情報」でした。その活動の一翼を担ったのが、「蒸留室」でした。
「特別な果物や特別な薬草」を作るために自らの庭園での生産も行われました。これもカントリーハウスの歴史の一つです。
さらに、レシピ集には、誰から恩恵を受けたかを示す社交上のつきあいが記録されました。レシピを記載したノートの行間や余白には受け取った贈り物や、送り主が欲しているものなど、社交上のやりとりのメモが見つかっているのです。これらを『英国レシピと暮らしの文化史』では「社会的信用と恩義の記録台帳」と呼びました(p.190)。当時の交友関係を照らし出す上でも、限りなく、貴重な資料です。
■3・誰が管理していたのか?
屋敷のもてなしを含めた家政の管理を担ったのは女主人たちでした。その責任範囲は広く、家庭内の健康管理も含まれました。蒸留室は、「食物」「薬」と、女主人の仕事を助ける拠点でした。
当時のある男性は、主婦の医療への関わりを支持する表明をしました。
「家庭の務めや責任は、女性の肩にかかってくるのだから、女性は日頃かかりやすい病気の薬や軟膏に精通し、薬を納戸に常備しておいてほしい。そうすれば、必要なときにはいつでも夫やおさな子やサービス人の治療に役立てることができるし、また医者を呼びにやったり、薬剤師からなんでもかんでも購入する必要がなくなる」(『女は男に従うもの? 近世イギリス女性の日常生活』p.57)
英国の長い歴史の時代ごとの台所の歴史を扱った『台所の文化史』では16世紀の主婦の役割としての医療を、次のように説明します。
「家庭の主婦は身分の高低を問わず、だれも等しく薬草園と蒸留室を持ち、効能立証済みの調剤法を記したノートを持っていた。薬草採集は主婦の仕事で、下女仲間ではだれが奥方の調薬や化粧品・家庭用染色剤の調合を手伝わせてもらえるか多少競い合うところがあった。
簡単な内服薬や治療薬を調合・投与する方法を心得ていることは、淑女のたしなみの一つとされた。荘園の領主夫人ともなれば、効能の方はさておき、村中の人を独自のシロップ剤や軟膏でしばしば治療して回った。田舎の女たちは田舎道の庭にハーブを植え、自家製の強壮剤を調合したい人にこれを売ったりした。カルミレ、カッコウチョロギ、ルリヂサ、キバナノクリンザクラ、ツチグリなどの野生植物がよく用いられた」(『台所の文化史』p.94)
上流階級の女性は、病気になった家人・使用人を世話する責任に加え、貧しい病気の隣人の世話もしました。蒸留した薬やハーブウォーターの提供を通じた治療行為は、贈与経済といえるでしょう。
そして、上記引用内には、ハーブを植えて売る「田舎の女性たち」の存在も示されています。先に紹介した、領地へ事細かな指示を伝えたレディ・ジョアンナ・シンジョンの手紙にも、このような女性が現れます。
使用人への手紙の中で「ウルフォードのおかみさんに頼んで森からスミレを取ってきてもらうように」との指示があり、複数の手紙の中にも登場する「おかみさん」は頼られる存在でした。
これも地元のネットワークの一つでしょう。
■4. 蒸留室の転換点
最後に、「蒸留室」の名を冠したスティルルームメイドの仕事という視点でその仕事の変化を見てみましょう。
・屋敷の飲み物ビール
スティルルームメイドの職務から「蒸留」が消え、「保存品・お菓子の作成」が残り、そして「紅茶の準備」が新しく加わりました。これは時代の流れの中で紅茶文化が広まり、英国の習慣が変化したことによります。
「蒸留」と似て屋敷から消え去った仕事に「ビール醸造」があります。当時の生水は衛生状態が良いと言えなかったため、屋敷では水そのものを蒸留したり、ビール(基本的にエールビール)の醸造を行ったりしました。水より保管が効き、衛生面でも良く、17世紀末までは上流階級も日常の飲み物としてビールを飲んでいました。
ヴィクトリア朝になっても、ビールは水分補給に最適な飲み物として、家事使用人へ支給をし続けた屋敷もありました。
蒸留と同様に一般家庭でもビールを作る習慣は続きましたが、農地の囲い込みによって使える燃料の確保ができなくなったり、産業革命・商業革命を経て市販品が流通しやすくなることで、次第にこの自家醸造の習慣は途絶えました。
さらに「家庭の飲み物」たるビールの地位を奪う喫茶の習慣が台頭します。
・喫茶習慣の広がり
茶は17世紀には英国へ入ってきます。当時は輸入量が少ない希少品で、上流階級向けの高級な飲み物として、また薬効も期待されました。
茶に関する名著『茶の文化史』「イギリスに定着した紅茶」の章では、ロンドンのタバコ商トーマス・ギャラウェイが1657年に茶を売り出し、店でも茶を提供した最初の人物として紹介されます。店での茶の宣伝文句には「茶を飲めば健康になる」「精力増進、頭痛、不眠、胆石、倦怠、胃弱、食欲不振、健忘症、壊血病、肺炎、下痢、風邪などに効く」とありました。
1662年には、国王チャールズ2世に嫁いだポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンサが王宮に東洋の茶を持ち込みました。茶はアルコール飲料に代わる飲み物として上流階級に受け止められ、ロンドンの薬剤師も茶を薬品リストに入れるようになりました。
当初の「茶」は「紅茶」ではなく「緑茶」だったとされています。18世紀に緑茶と紅茶の両方が輸入される中で、次第に紅茶の比率が上がりました。
『茶の文化史』では英国で茶が受け入れられた背景として、フランス・イタリア・スペインなどの国々ほど日常的飲み物のワインが普及していなかった上に、古くから花や草を煎じた薬用茶が普及していたことが「喫茶の習慣」を受け入れやすくしたと推測しています。
次第に、紅茶は植民地の拡大と大量輸入によって安価になり、一般大衆まで幅広く普及しました。
労働者たちにも紅茶を飲む習慣が広まった理由について、産業革命以降に増加した都市住民(労働者)の生活環境の悪化も指摘されます。きちんとした朝食を準備する時間も設備もない人々は、お湯を沸かすだけで準備できる紅茶と、それに足す砂糖で、カロリーとカフェインを摂取できたからです(『世界の食文化17 ギリス』pp.115-117)。
紅茶と砂糖は、出現した当初は上流階級の贅沢品・嗜好品・薬として位置付けられましたが、帝国支配の中で安価な「日用品」となりました。
結果として、紅茶を飲む習慣を確立させた変化が、「蒸留室」の役割を変質させたと言えるでしょう。
◯終わりに
以上、「蒸留室」を通じてカントリーハウスの歴史と、それにまつわる様々な事物を解説・考察しました。視点が蒸留室中心のため、書き足りない領域も多々ありますが、ヴィクトリア朝の「スティルルームメイド」に行き着くまでの歴史とその広がりについて思いを馳せ、楽しんでいただけたならば幸いです。
■主要参考文献
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スーザン・W. ハル、佐藤清隆/菅原秀二/滝口晴生:訳『女は男に従うもの? 近世イギリス女性の日常生活』刀水書房、2003
トム・スタンデージ、新井宗嗣:訳『世界を変えた6つの飲み物』合同出版、2007
モリー・ハリスン、小林祐子:訳『台所の文化史』法政大学出版局、1993
リチャード・B. シュウォーツ、玉井東助:訳、江藤秀一:訳『十八世紀ロンドンの日常生活』研究社出版、1990
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川北稔『世界の食文化17 イギリス』農山漁村文化協会、2006
角山栄『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』中央公論社、1980
村岡健次『近代イギリスの社会と文化』ミネルヴァ書房、2002
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ピーター・J. フレンチ、 高橋誠:訳『ジョン・ディー エリザベス朝の魔術師』平凡社、1989
フランセス・イエイツ、内藤健二:訳『魔術的ルネサンス エリザベス朝のオカルト哲学』晶文社、1984
ローレンス・M・プリンチーペ、ヒロ・ヒライ:訳『錬金術の秘密: 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」』勁草書房、2018
吉村正和『図説 錬金術』河出書房新社、2012
◯医学
シンガー・アンダーウッド、酒井シヅ:訳『医学の歴史1:古代から産業革命まで』朝倉書店、1985
バーバラ・エーレンライク、ディアドリー・イングリシュ、長瀬久子:訳『魔女・産婆・看護婦: 女性医療家の歴史 増補改訂版』法政大学出版局、2015
ルチャーノ・ステルペローネ、福田眞人:監修、小川熙:訳『医学の歴史』原書房、2009
ロイ・ポーター、田中京子:訳『健康売ります イギリスのニセ医者の話 1660-1850』みすず書房、1993
小川鼎三『医学の歴史』中央公論社、1964
◯薬学・科学
イヴァン・プロアール:監修、日仏薬学会/日本薬史学会『薬学の歴史 くすり・軟膏・毒物』薬事日報社、2017
石坂哲夫『薬学の歴史』南山堂、1981
ルネ ファーブル、ジョルジュ ディルマン、奥田潤/奥田陸子:訳『薬学の歴史 文庫クセジュ』
古川安『科学の社会史 ルネサンスから20世紀まで』筑摩書房、2018
◯博物誌・本草学
大槻真一郎、澤元亙:編『ヒーリング錬金術1〜4』
大槻真一郎、澤元亙:編『西洋本草書の世界 ディオスコリデスからルネサンスへ』八坂書房、2021
大槻真一郎、澤元亙:編『西欧中世宝石誌の世界 アルベルトゥス・マグヌス『鉱物書』を読む』八坂書房、2018
プリニウス、大槻真一郎:監修『プリニウス博物誌 植物薬剤篇』八坂書房、2009
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