三(さん)仏寺(ぶつじ)投入堂(なげいれどう) -地域のお宝さがし-92
在地:鳥取県東伯郡三朝町三徳1010
■三仏寺投入堂・愛染堂■
投入堂(平安時代後期、注1、図1)には、「修験道の祖、役行者(役小角)が空中に投げ入れてつくったところから、この名がついた」という伝承があります。また、年輪年代法による測定の結果、建立は、さらに1世紀ほどさかのぼることが明らかにされたそうです(注2)。
投入堂は近づくことも、内部に入ることも困難なので、堂に関する記述と写真とを照合してみましょう。
注1)文化庁編集『国宝・重要文化財建造物目録』(以下、目録1990年)による。
注2)『日本遺産』No46(朝日新聞、2003年)
■建設過程■
投入堂は、仏像が安置される身舎(もや、桁行前面1間・背面2間、梁行1間)と庇で構成されています。身舎の柱は円柱、組物は舟肘木で、柱の上下に、六葉金物が打たれた長押が設けられています。図1の①が身舎の前面の柱位置です(身舎背面の柱は見えない)。身舎の屋根も上から見えませんが、東西方向に棟を配した切妻造です(注3)。
身舎の前方に、大面取(おおめんとり)された角柱が建てられ、柱上部を桁で繋ぎ、身舎の屋根から垂木を延ばして、前面の庇が造られます(図1の②)。右側面に大面取された角柱が2本建てられ、上部を桁で繋ぎ、身舎の妻側に垂木を設けて庇が造られ、妻面は入母屋形式になります(図1の③)。さらに、前面右端の隅部に一段低い小庇を設けるため、大面取の角柱が建てられます(図1の④)。反対側は、写真では見えませんが、「正面側に渡りの庇がつけられる」(注4)や、「脇の庇を落屋根とする」(注5)との記述から、妻面の下部に全幅の庇が設けられていると思われます。そのため、屋根は「切妻」形式になります(注6)。
このように見ると、変化に富んだ複雑な投入堂の外観は、多くの匠の知恵と工夫で建設されて来たのがよく分かります、と言うのは簡単ですが、その工事の大変さが窺われます。
注3)文献には、「流造」とするものもあるが、「投入堂の構造」(注2)『日
本遺産』所収)では、切妻造で描かれており、解説でも、「屋根は本を 開いて伏せたような形の切妻造り」とある。
注4)『日本の美術』No.197「平安建築」
注5)岡垣頼和他「岩窟・岩陰型仏堂と木造建築の関係についての調査ノー
ト」(『鳥取環境大学紀要』第9・10号合併号、2012年3月)
注6) 大岡實『日本建築の意匠と技法』(中央公論美術出版、1971年)
■様相■
●身舎●
身舎の壁面は、前面と右側面の中央部に、六葉金物および八双金物が打たれた板扉が設けられています。前面から右側面に設けられた縁は、壁面に直角方向に板を張った切目縁で、柱間に設けられた高欄の最上部の架木は、長方形断面で珍しいといわれています(図2、注6)。
●庇●
前面の庇は、身舎柱の前方に建てられた大面取の長柱頭部の大面取された舟肘木によって大面取の丸桁が支持され、造られています。身舎とは、大面取の繋虹梁で繋がれ、軒は一軒です(図3)。これは、右側面の庇も同様で、軒も一軒です(図1の③)。前面右端隅部の小庇は、舟肘木によって丸桁が指示されて造られています。軒は一軒です(図1の④、図3)。
左側面の庇の下に、前面の縁より一段低く床が設けられ、階段によって愛染堂と連絡されています。この床と前面の縁との間に設けられた格子戸は、庇柱よりさらに前方へ突出させることで、厳重に仕切られています。(図3)
■愛染堂
愛染堂は、投入堂の左側に隣接し、岩に建てられた長柱の上部に組まれた井桁を土台とし、その上部に桁行1間、梁間1間、切妻造で、妻入の堂として造られています。柱は、大面取の角柱です。軒は一軒、垂木は、間隔の広い疎(まばら)垂木で、組物は用いられていません(図4)。壁面は、正面に板扉が設けられ、周囲には壁面と並行に板を張った、幅の狭い榑(くれ)縁が設けられています。
■閑話休題■
投入堂に関する記述を見ていると、「大面取」・「舟肘木」が多く出てきます。「面取」とは、角材の角を削ることで、一般的に古い時代のものほど、その寸法は大きくなります。面を大きく取ることで、角柱を細く、軽快に見せる工夫がなされています。また「舟肘木」は、組物の中では最も単純な形式です。山中での工事を考慮したのでしょう。
それにしても、この険しい山中に、このような美しい仏堂が造られる宗教的な情熱は、ヨーロッパのゴシック建築にも勝るとも劣らないものと、何度見ても驚嘆してしまいます。