建築家茂庄五郎の経歴① -地域のお宝さがし-98

■関西おける建築家の活動■
 関西における建築家の活動は、明治30年代後半になると、片岡安や河合浩蔵などの建築事務所があいついで開設され、建築事務所の興隆期と評されるほど活発になります。そして、それらに関する多くの研究蓄積がありますが、明治20年代では、滝大吉、茂庄五郎などが知られるのみです(注1)。         ここでは、建築家茂庄五郎の経歴や仕事などを紹介しますが、その前に建築家滝大吉をみておきましょう。
 滝大吉(図1)は、文久元年(1861)大分県日出町に生まれました。

図1 滝大吉

 明治17年工部大学校造家学科を卒業後、コンドルの助手を務めたりする一方で、造家学会(現日本建築学会)の設立に尽力しました(注2)。明治23年(1890)6月、大阪西区で建築事務所と工業夜学校を開設し、10月より「工業夜学校講義録」を創刊しますが、翌24年3月には陸軍省に奉職しました。滝が短期間で事務所を閉鎖したのは、仕事の依頼がなく、やっときたのは、「倉の庇をつけ替える仕事」であったといいます(注3)。なお、余談ながら、滝は作曲家滝蓮太郎の従兄にあたります。

注1)「関西における建築家の職能」(『近代日本建築学発達史』(以下、発達史)。建築家の職能や建築教育などに関する記述で、断らない場合は同書による。
注2)『日本の建築家』p23(『新建築』1981年)。図1は、同書より転載。
注3)坂本勝比古『商都のデザイン』(三省堂、1980年)

■茂庄五郎の経歴■

図2 茂庄五郎(左端)

 茂は(図2、注4)、文久3年2月6日、茂由五郎・峰子夫妻の三男として(注5)、長崎市大道小島郷に生まれました(注6)。
 地名や町名などは変更されることがあり、現在の位置を特定することは困難ですが、小島郷は、明治31年に長崎市に編入され、現在では、東小島町、中小島1~2丁目、西小島1~2丁目、上小島1~5丁目に該当します。その付近に○印を付けました(図3、注7)。

図3 旧小島郷の現在の概略位置

 長崎市には何度か訪れましたが、土地勘が無いため、詳細は分かりませんが、付近には思案橋や崇福寺があり、市街地付近とみてよいのでしょうか。

注4)茂とめ子氏蔵。写真の裏には、「明治 年 台北ニ於テ撮影」と記されているが、撮影年・撮影場所・人物名は不明である。なお、軍服は海軍下士官のようなので、茂が勤務した、呉海軍工廠時代の知人の可能性もあろう。
注5)茂セツ氏談
注6)『茂庄五郎君小伝』(以下、小伝)。同書に発行年の記載はないが、大阪府立中之島図書館は、大正3年10月に受納している。茂に関する記述で、断らない場合は同書による。
注7)ウィキペディア「長崎市の地名」。グーグルマップを加工。

●長崎中学校英文部●
茂の学歴については、以下の2項が確認されます。
A:「業を長崎中学校英文部に修め後東京に遊ひ工部大学校に入り次いて工科大学に移り建築学を専攻す明治廿四年業を卒」(前掲注6)。
B:「東京に遊学し明治二十四年七月帝国大学工科建築撰科を卒業」(注8)。
 この2項で共通するのは、明治24年に大学を卒業したことで、大学以前については、Aに「業を長崎中学校英文部に修め」とありますが、同校がどのような学校なのか不明です。そこで、「長崎中学英文部」を追いかけてみましょう。
 長崎における中学校は、安政4年(1857)、幕府によって設立された洋語伝習所に始まります。伝習所は、その後、英語伝習所・英語稽古所・洋学所・語学所と、所在地と名称を替え、慶応元年(1865)、済美館となります。

 済美館は、明治政府に接収され、広運館(明治元年4月)→ 第六大学区第一番中学(明治5年8月)①→広運学校(明治6年5月)→ 長崎外国語学校(明治7年4月)→ 長崎英語学校(明治7年12月)②→ 長崎県立長崎中学校(明治11年3月)③→ 長崎外国語学校(明治15年)と変遷し、明治17年、同校内に長崎県立長崎中学校が新設されます(注9)。
以上のように、明治元年からの長崎における学校の変遷過程では、広運学校以後、第一番中学(下線部①)から英語学校(下線部②)までは、短期間に校名が変更されていますが、当初の英語伝習所以来の、外国語教育という方向性は継承されていることが窺えます。しかし、「長崎中学校英文部」は見当たりません。
 そこで、茂の年齢から入学した学校を考えます。明治初期の外国語学校の入学資格は14歳以上、小学校卒業以上で、修業年限は4年でした(注10)。茂の生年は、文久3年ですから、14歳で入学したとすると、明治10年時点で存在するのは英語学校(下線部②)です。同校は明治11年に長崎中学校(下線部③)となりますが、茂は明治14年、18歳で卒業したと推測されます。ところが、この当時の中学の修業年限は3年で(注11)、修業年限が異なるため、同校には、英語学校生と長崎中学校生が併存していたと考えられますが、校名が長崎中学校にとったため、英語学校を「長崎中学校英文部」と称した、と考えるのはうがち過ぎでしょうか。

注8)橋本勉「故茂庄五郎君略伝」(前掲注1)『発達史』)
注9)茂住實男「英語伝習所設立とその後」。Wikipedia「長崎英語学校(旧制)」。
注10)「明治初期の高等教育」(文部科学省)
注11)「学制における中学校の制度」(文部科学省)

■閑話休題■
 幕末から明治初期、わが国は世界史の動きに巻き込まれ、混乱の中で、新たな道を模索します。明治政府は、政策面で「朝令暮改」を繰り返しますが、教育面でも、学校制度の整備に関連して、多くの変更がなされました。茂の学歴に関する一文の背景に、学校の複雑な変遷が窺えるように、当事者たる生徒は、その波に翻弄された被害者であったと思われます。

 次回は、茂が入学した工部大学校についてみていきますが、中学校同様、ややこしい事柄みられます。

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