建築家小笠原祥光の仕事① -地域のお宝さがし-83

 建築家小笠原祥光(以下、小笠原)は、大正6年(1917)2月に関西建築協会(現日本建築協会)の創立に参加し、同協会理事、材料委員会幹事、住宅改造博覧会場委員会幹事などを歴任し、また、『近代建築画譜』(同書刊行会、1936年)の刊行後援者にも名前を連ねるなど、戦前からその存在が知られ、論考(注1)などにも取り上げられていますが、詳細については不明な点が多くあります。
 そこで、今回から小笠原の経歴・設計活動・作品の意匠などを紹介します。

注1)石田潤一郎「大阪建築家列伝」(『SPASE MODULATOR』50号所収、日        本板硝子、1977年)。『近代建築ガイドブック』(福田晴虔他、鹿島出        版会、1984年)p60「原田産業(株)」の項では、小笠原の作品は、「意        匠密度が高く、配置やプロポーションに独特のバランス感覚を示す作品        が多い」と評されている。

■経 歴■
 小笠原(図1)は、明治8年(1875)12月27日、小笠原釟太郎の長男鈅(ますみ)として、愛知県中島郡稲沢町に誕生。「鈅」という名前では病気をするという理由から、昭和10~11年(1935~36)3月頃に「祥光」に改名したそうです(注2)。

図1 小笠原祥光『建築と社会』
(大正11年11月号より転載)

 小笠原の経歴などを表1に示します。小笠原の建築活動は、大きく鉄道院時代(明治31年7月~大正2年)、住友総本店時代(大正4年2月~大正10年2月)、建築事務所時代(大正10年3月~昭和12年)の3期に分けることができます。

●工手学校入学年●
 わが国の工業教育は、明治6年に開校した工部省工学寮工学校に始まりますが、明治10年に工学寮が廃止されたため、工学校は工部大学校と改称され、同年3月に新校舎が完成します。明治18年に工部省が廃止されたため、同校は文部省に移管され、翌年の帝国大学令の交付により、東京大学工芸学部と合併して、帝国大学工科大学(現東京大学工学部)となります(注3)。
 工手学校(現工学院大学)は、工部大学校や帝国大学出身の技術者を補助する工手の養成機関として、明治21年2月、商法講習所(現一橋大学)の一角を仮校舎として開校します。(注4)。設置学科は、土木・機械・電工・造家・造船・採鉱・冶金・製造舎密学科です。造家学科の教員は、大熊喜邦・片山東熊・中村達太郎など、工部大学校や帝国大学の卒業生でした(P48)。
 修業年限は、1期を5ヶ月とした3期制の1年半です。第1期は予科、以降を本科としました(p40・42)。明治25年9月に予科が1年に延長され、修業年限が2年になり、明治37年には本科が1年半に延長されています(注5)。
 小笠原は、明治31年7月に工手学校造家学科(明治36年に建築学科に改称)を卒業しました。入学年は、関東大震災などによる資料散逸のため不明ですが(注6)、小笠原の蔵書『建築学提要 全』(図2)の巻末の、「明治三十年七月二日京橋区日吉町九番地建築書院ニ於テ之ヲ購買ス」との書き込から(図3)、明治30年7月に予科を終了した小笠原が、同年9月から始まる本科の講義用に購入したと考えられ、入学は明治29年9月と推測されます。

図2 『建築学提要 全』表紙
図3 巻末の書き込み

 なお、『建築学提要 全』は、東京帝国大学工科大学教授工学士中村達太郎が校閲し、臨時陸軍建築部技師千葉温也が編纂したもので、当時中村は、工手学校において地形・建築材料を担当しており(注7)、テキストに使用していたと推測されます。
 
●工手学校以前●
 工手学校の開校時にすでにあった工業教育機関は、以下の2校です。
①攻玉社(文久3年[1863]、現攻玉社学園):明治8年9月に航海測量練習所を
 設置し、測量術を教授(注8)。明治21年に土木科が設置され、同34年に土木科を工学校と改称、大正9年に建築科を設置。
②東京職工学校(明治14年、現東京工業大学):建築係学科の設置なし(注9)。
 このように、①・②ともに建築系学科が設置されていなかったので、工手学校の必要性が窺われます。
 明治27年に「実業教育費国庫補助法」が制定されると、以下のような、工業学校が設立されます。東京府職工学校(明治33年)、関西商工学校(明治35年、現関西大倉学園、第61回目参照)、東京工科学校(明治40年、現日本工業大学)・東京電気学校(明治40年、現東京電機大学)など(p162)。
 こうして見ると、官立(国・公立)学校の設置が遅れていることが分かります。ちなみに大阪では、明治41年に市立大阪工業学校(現大阪府立都島工業高校、注10)・大阪府立職工学校(現大阪府立西野田工科高校)が開校しています。

注2)ご子息小笠原祥介氏による(聞き取りは、以下同じ)。
注3)『近代日本建築学発達史』p1802、1816(1972年)
注4)茅原健『工手学校』、p80(中央公論社、2007年)。以下、工手学校に         関する記述は同書の頁数のみ記載。
注5)前掲注3)p1828
注6)工学院大学専門学校のご教示による。
注7)伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』p42彰国社、1982年
注8)『攻玉社百年史』所収「攻玉社百年史年表」(攻玉社学園、1975年再           版)
注9)前掲注3)p1822
注10)大阪の市立高校は、令和4年(2022)4月1日より大阪府に移管され、
  「大阪府立」となった。

■閑話休題■
 小笠原は、工手学校卒業後、鉄道院に奉職します。これは、『近代建築画譜』所収の小笠原建築事務所の「経歴」(注11)に「鉄道院技師」とあることから、そう表記しました。一方、小笠原建築事務所『経歴書』には、「鉄道省ニ就職」とあります。鉄道省は、明治4年の工部省鉄道寮に始まり(注12)、明治10年1月鉄道局に改組(注13)、工部省の廃止(明治18年)により、明治26年逓信省鉄道局となります。その後、明治41年12月に内閣鉄道院が新設され、官制改正により、大正8年に鉄道管理局となり、大正9年に鉄道省に昇格します。
 こうみると、卒業後の奉職先は、「逓信省鉄道局」とすべきですが、鉄道院時代に「東京ステーション及ステーションホテル」に携わったことから、「鉄道院技師」と記したと思われます。
 
注11)「建築主要関係業者紹介欄一覧」p4、(『近代建築画譜』不二出版、             2007年)
注12)ウィキペディア「鉄道省」。組織の変遷などは、断らない限り同記事            による。
注13)アジ歴グロッサリー「鉄道寮」

次回は、小笠原の鉄道院時代の仕事をみます。

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