建築家葛野壮一郎の仕事④-地域のお宝さがし-51

大江ビルヂング 〒530-0047 大阪市北区西天満2-8-1

■倶楽部建築■
●目的と分類●
 葛野壮一郎は、昭和5年(1930)に「クラブ建築の目的と設備に就て」(注1)を著し、「クラブ」を「倶楽部」と表記した上手さに感心する反面、倶楽部建築(以下、倶楽部)でありながら、「華族会館」や「交詢社」(後述)などは、この建築の、「お互いが社交上の便宜を得ようとする」目的からすると、「~倶楽部会館」・「~社会館」とするのが妥当であろうと指摘しています。
 そして倶楽部を、①最も一般的の会員、②同種同業及び同一の会社員、③同学同窓の関係者、④同一地の居住者、⑤同趣味のもののように、構成員によって5種類に分類しています。ちなみに、華族会館は②、慶應義塾出身者を中心とする交詢社は③に分類されそうです。

注1)『建築と社会』昭和5年3月号。倶楽部建築に関する記述は、同論文による。

●萌芽●
 倶楽部の萌芽は、明治38年(1905)の日露戦争終結後のようで、葛野は、横河工務所(以下、工務所)在職中に、最初期の倶楽部である三井倶楽部や交詢社の建築に関係したと、「木造二階建」の大阪倶楽部(注2)を引き合いに出して述べています。三井倶楽部は、明治43年、三井家からJ・コンドルに設計が依頼され(注3)、大正2年(1913)に竣工しました。横河民輔が、三井銀行本店を建築して以来(注4)、横河と三井は信頼関係にあり、コンドルの設計を工務所が補助することは不思議ではありません。そこで、当時、帝国劇場(注5)の設計を担当していた葛野が、三井倶楽部に係わることになったのでしょう。何しろ、帝劇設計者が担当するわけですから、それなりに重要な部分の設計に携わったと推察されます。そうでなければ、わざわざ、三井倶楽部に関係したとは書かないでしょう。
 交詢社は、明治13年、福沢諭吉の主唱により銀座の地に創立された日本最古の社交機関で、社屋は会員によって寄付されたものです(注6)。初期の段階では、「会員も少なく其れで充分間に合った」のでしょうが、同社の発展とともに社屋が手狭になり、葛野が、「在来の煉瓦造住宅を模様換して木造の二階建を増築した」ようです。その時期は、葛野が工務所に入所した明治38年以降、退所する45年頃までと推察されます。

注2)設計:野口孫市・長谷部鋭吉、木造3階建てで、大正3年(1914)9月に竣工し、大正11年7月に焼失した。大阪倶楽部HP
注3)ウィキペディア「綱町三井倶楽部」
注4)竣工:明治35年10月(『明治大正昭和建築写真聚覧』p159、文生書院、2012年)
注5)竣工:明治44年2月、前掲4) 『明治大正昭和建築写真聚覧』(p127)
注6)銀座煉瓦街の宇都宮三郎邸。ウィキペディア「宇都宮三郎」。

●発展●
 木造の大阪倶楽部が、大正13年に鉄筋コンクリート造4階建てで建て替えられ(注7)、交詢社も昭和4年に新築されました(注8)。これらから、大正後期から昭和初期にかけて倶楽部が多いに発展したことが窺われます。葛野は、その要因として、都市の膨張にともなって相互の住宅が離れ、お互いが疎遠になったことを掲げ、緩和策として、社交の場(倶楽部)の意義を認めています。
 そのため倶楽部には、大集会室、食堂、談話室、応接室、図書室、新聞雑誌室、囲碁・将棋室、撞球室、酒場、理髪室などが必要される一方で、倶楽部がホテルの一部を兼営するのは、地方会員が多くなければ失敗すると注意を促し、経営の問題から、倶楽部の一部を仕切って貸事務所にすることも必要であると、提唱しています。

注7)前掲2)大阪倶楽部HP
注8)設計:横河工務所、鉄骨鉄筋コンクリート造6階建て『近代建築ガイドブック[関東編]』(p49、鹿島出版会、1991年)

■貸事務所の倶楽部■
 大江ビルヂング(以下、大江ビル)は、貸事務所でありながら倶楽部に分類されています(注9)。同ビルには、地階に食堂・理髪店、1階に大集会室、2階に売店、3~5階に貸応接室、さらに、大集会室の一角に、囲碁・将棋、新聞雑誌閲覧コーナーやバーカウンターなどと、倶楽部に必要な諸室が設けられ、ビル会社の直営による倶楽部組織「大江クラブ」が設立されています。
 設計者の葛野は、大江ビルのような小規模(延面積1,000坪内外)の貸事務所の相談が多くあると述べる一方で、同ビルは、大阪における「純営利的貸事務所」としては最初のものとしていますので(注10)、大江ビルの経営の成功によって、相談が多くなったと思われます。

注9)橋爪紳也『倶楽部と日本人』(p210、学芸出版社、1989年)、設計:葛野建築事務所、竣工:大正10年9月、階数:6階、地階及塔屋付、様式:近世式、構造:鉄筋コンクリート造『近代建築画譜』(p139、不二出版、2007年)
注10)葛野壮一郎「小事務所の経営」(『建築と社会』昭和5年11月号)

●逆転の発想●
 従来は、社交機関としての倶楽部が設立され、その結果、会館としての倶楽部が建築される場合が多いようですが、大江ビルは、敷地(約307坪、400円/坪)を購入するため、出資者(株主、1口1,000円)を募って組合を組織し、建築された貸事務所から株主配当を得ようとしています。1口1,000円の適否は不詳ですが、例えば、同時期の銀座の地価が1坪1,000円、総理大臣の月給1,000円、大学の授業料(年間)は100円です(注11)。
 葛野は、大江ビルの計画に際し、貸室面積・賃貸料・設備など、様々な点を検討します。そして、採算の良否は空室の多寡に関わることから、「一割内外の空室程度ならば必ず算盤は採れる」と判断した結果、完成した大江ビルに対する「今日迄の処は評判が良い」ことから、「一室十坪内外、賃料百円内外と言ふのが一標準と見て良からふ」と判断します。しかし、失敗もあったようで、地階に設けた約100坪の食堂(調理室共)や、1階に設けた約50坪の舞台付広間は賃貸率が低く、毎期の配当率が低いことを吐露しています。
 これらのことから、「大江クラブ」は、大江ビルの株主のために組織され、倶楽部に必要な諸室が設けられたと考えられます。このように、大江ビルは、敷地購入→株主募集→事務所の建築→倶楽部の設立という順序で実現されています。葛野は、経営の面から、倶楽部の一部を仕切って貸事務所にすることも経営上必要であると提唱していますが、大江ビルでは、貸事務所の一部に倶楽部が設けられていることから、これまでの、会員→倶楽部の設立→倶楽部の建築という順序とは、逆の発想から生まれた倶楽部とみることができる、と妄想しています。
葛野は、大江ビルの計画・設計の成功点や失敗点を考慮して、自身の「クラブ建築」に対する計画・設計論を確立し、中央電気倶楽部の設計につなげたものと推察されます。

注11)『値段の明治大正商風俗史』(p111、朝日新聞社、1986年)。

●外観●
 大江ビルの正面は、全体(5層)を2層と3層で水平に区切り、左右に幅広の壁面を配し、中央部は縦方向に3分割し、左右の壁面と柱はオーダーに擬されていますが、柱頭飾りはありません。頂部は、ブロークンペディメントで段差をつけて、正面性が強調されています(図1)。

図1南正面

図1 南正面

図2東側面

図2 東側面

 側面は、1階部分を基壇扱いとし、壁面は垂直方向に分割され、柱に溝彫り(フルーティング)を施してオーダーに擬されていますが、柱頭飾りは無く、矩形の文様が施されています。全体を見ると、壁面が平滑で様式的な装飾が少なく、矩形の文様が施されていることから、葛野が得意とする、セセッションもしくはアール・デコ的な意匠でまとめられています(図2~4)。

図3南側面

図3 南側面

図4南側面

図4 南側面見上げ

■閑話休題■
 倶楽部は、西欧のclub(クラブ)が会合や結社と訳され、当初は苦楽をともにする「苦楽部」、さらに、楽しみだけをともにする「倶楽部」、すなわち、club→苦楽部→倶楽部と表記されるようになったそうです(注12)。このような、本意を損なわずに漢字で表記した例に、塔があります。塔を意味するstupa(スツーパ)は、→卒塔婆(そとうば)→塔婆(とうば)→塔と表され、その当て字と字義の妙に感心させられます。
 葛野が、三井倶楽部や交詢社に係わった経歴を、大阪倶楽部をひきあいに出しながら披瀝したのは、最初期の倶楽部に携わり、倶楽部に関しては一日の長があるとの自負ではなかったのかと想像しています。そして、大江ビルにおける計画・設計が経営の成功につながり、その理念で中央電気倶楽部が実現したと思われます。

注12)前掲9) 橋爪紳也『倶楽部と日本人』(P44~48)

次回は、中央電気倶楽部を紹介します。

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