切幡寺大塔(住吉大社神宮寺西塔)-地域のお宝さがし-53

切幡寺 〒771-1623 阿波市市場町切幡字観音129

■切幡寺■
 徳島市の西部に位置する高野山真言宗の切幡寺[きりはたじ]は、四国八十八箇所霊場の第十番札所として知られています。同寺に、初層・上層の平面が正方形の大塔が残されているとの話しを聞き、ネット検索したところ、「大阪住吉大社神宮寺の西塔を明治初年に移築したもの」(注1)との記事がありました。
 建築の変遷をみると、奈良時代には、多くの神社に寺院建築の影響がみられるようになり、神社には寺院[神宮寺]、寺院には神社[鎮守社]が設けられ、明治初年に神仏分離令が公布されるまで続きます。ですから、住吉大社に神宮寺があっても不思議ではないのですが、現在の住吉大社の景観に見覚えがあることから、神宮寺の存在にまで気が回りませんでした。

注1)文化遺産オンライン

■大塔■
 切幡寺の説明板によると、大塔(図1)は、豊臣秀頼が慶長12年(1607)に再興した、住吉大社神宮寺の「西塔」でしたが、神仏分離令によって廃寺となったため、当寺が買い受け、明治6年(1873)から9年かけて現地に移築したそうです。

図1切幡寺大塔外観

図1 切幡寺大塔外観

 初層は、柱間五間(柱間が5つ)の正方形で、正面の中央部三間に両開き板唐戸、端部は連子窓、他の面は、中央部のみ両開き扉板戸、残りの柱間には連子窓がはめられています。軒は、地垂木[じだるき・下段]と飛檐垂木[ひえんだるき・上段]で構成される二軒[ふたのき]、軒支輪[のきしりん]が設けられていますが、軒天井はありません。壁面は、最下部に地長押、その上部に腰長押・内法長押、柱の頂部には頭貫が設けられています。組物は、柱上部に一手先(出組)、中備[なかぞなえ]は、束の下部の幅が広い撥束[ばちづか]、木鼻は、外形線の鋭い拳鼻[こぶしばな]が備えられています(図2)。

図2

図2 初層細部

 上層は、三間の正方形で、各面の中央部に両開き板唐戸、端部は連子窓がはめられています。軒は二軒で、軒支輪・軒天井が設けられています。組物は、台輪の上部に四手先、中備は、撥束に装飾が施された蓑束[みのづか]が備えられています。屋根には、九輪の上部に四葉・六葉・八葉の請花[うけばな]を重ね、頂部に火炎宝珠を置き、四方に鎖を渡した多宝塔形式の相輪が設けられています(図3・1)。

図3

図3 上層細部

●多宝塔と大塔の違い●
 多宝塔は、天台宗や真言宗の密教寺院に設けられる、初層が正方形、上層が円形平面の2層の塔です。通常は初層の柱間が三間ですが、これを五間とし、初層内部に、上層を支える12本の柱で囲まれた円形平面の内陣をもつものを大塔といい、根来寺大塔がその例です(図4)。多宝塔は、中世に広く分布するようになります。

図4

図4 根来寺大塔初層

 切幡寺の大塔は、初層の柱間五間、内陣は12本の柱で囲まれた正方形(図5、注2)、上層も三間の正方形平面で、形態(外観)ともに特異な遺構である点が評価され(注1)、わが国唯一の形式の塔として重要文化財に指定されています。

図5切幡寺大塔平面

図5 切幡寺大塔平面

注2)小野木重勝他「元和造営の住吉神宮寺西塔について」(『日本建築学会論文報告集第63号』1959年10号)

■移築された建築物■
●神仏分離●
 明治初期の神仏分離令により、廃寺となった施設や仏像が近隣の寺院などへ移された例はよく耳にします。ここでも、内山永久寺(天理市)の鎮守社の拝殿が、石上神宮へ75円で売却・移され、現在は、摂社出雲建雄神社拝殿(国宝)として残されていること、興福寺五重塔(国宝)が、古物商に25円(もしくは250円)で売却され、古物商は金属製の九輪を回収するために焼き払おうとして、近所の猛反対にあった結果、現在残されていることなどを紹介しました(27回目参照)。
 切幡寺大塔は、住吉大社の神宮寺からの移築ですので、前者の寺院(内山永久寺)から神社(石上神宮)への移築とは、逆の経路による事例です。移築に9年もかかっていますが、どのように運んだのか、気になるところです。大阪で解体し、海路を徳島へ、そこから当時の南部を流れる吉野川を利用したのでしょうか。

●神仏分離以外●
 廃仏毀釈以外の移築では、春日出新田会所(大阪市)が売却されて、三渓園(横浜市)に移築されました(32回目参照)。解体された部材は、明治39年頃に、汽車で運ばれたそうです(注4)。三渓園には、多くの重文建築物が移築されており、明治村のような、野外博物館の嚆矢となる施設です。
 一方、明暦の大火(明暦3年=1657)で、江戸屋敷が焼失した小室藩では、小堀遠州が大坂南小幡町(現大阪市北区西天満)に拝領した屋敷を解体して江戸へ運び、屋敷の復興にあてたようです。これは、売却ではなく自藩のためでした。大坂屋敷の跡地は、銅細工職人が住む職人町に変貌します(注5)。

注4)西和夫『三渓園の建築と原三渓』(p102、有隣堂、2012年)
注5)拙稿「小室藩大坂蔵屋敷の成立と解体」(『大坂蔵屋敷の建築史的研究』所収、思文閣出版、2015年)

次回は住吉大社を見ます。

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