「狭山藩陣屋」の武家屋敷 -地域のお宝さがし-82

植松清志

■武家住宅の遺構―笠原家住宅―■
●家柄●
 狭山藩笠原家の初代は、宝暦5年(1755)11月、医業により出仕した「笠原同竹棟里」と考えられます。その待遇は給人席(中級藩士に相当)で、医師・儒官を勤めました。2代目は「笠原玄白棟宜」、3代目「笠原玄龍」は「医業・学業両面において狭山藩医として充実した活動」を行いました。4代目の「笠原玄策」は、 嘉永7年(1854)、「評定所」に設置された学問所(「簡修館」)を担うとともに、「儒書詩文」を担当し、藩士の教育にも尽力した家柄です(注1)。

注1)『市史第一巻本文編』(P411~412、418)

●所在地●
 住宅は、「大町筋」に面した上屋敷の中央部、「簡修館」の南部に設けられ、旧藩時代からその位置は変わらず(図1)、狭山藩武家住宅として唯一残された貴重な遺構でしたが、平成3年(1991)9月、建て替えのため取り壊されました。

図1

図1 笠原家の位置(「上屋敷図」部分)

■当時の様相■
 笠原家は、「大町筋」(現、府道河内長野美原線)に面する「門」(図2)、敷地中央部の東西方向に「主屋」、その北西部に「ハナレ」(離れ)、南東部に「ナヤ」(納屋)が配置されていました(注2)。敷地は、安政4年(1857)に290坪(約957㎡)でしたが、現在は約450坪で、敷地の南側が拡張されたようです(図3)。

図2

図2 門

図3

図3 建物配置(屋根伏図)

各建物の屋根は、南に妻面を向けています(図4~6)。

図4

図4 門南側

図5

図5 ナヤ南側

図6

図6 主屋南側

注2)当家の来歴、建物・室の名称などは、当主の御母堂落合トシ氏による。

●建築時期●
 当家には、初代「笠原同竹棟里」が、狭山で百姓家(以下、農家)を購入したとの伝聞があります。しかし、「大町筋」の中央部に農家があったとは思われず、購入・移築したと考えられます。またこの周辺では、天明2年(1782)の火災によると考えられる焼土層が発見されることが多いようですが、当家の発掘調査では発されなかったことから、当家は同年の火災に罹災していない可能性があります。と
すると、18世紀中~後期頃の建築と推察されます。ただし、棟札などの建築年代が確定できる史料はありません。

■平面図■
 実測調査をもとに作成した各建物の平面図(図7)を掲げます。「主屋」は、東南に「ヨリツキ」、その背面に「ダイドコロ」、中央部に「ゲンカン」・「イマ」、北部に「ザシキ」・「ナンド」・「物入」、南部に土間(「イタノマ」・「ニワ」)が配された食違い五間取り、「ハナレ」は二間取り、「ナヤ」は2室で構成される、大規模な住宅です。ここでは、「主屋」を中心に見ていきます。

図7

図7 平面図

●主屋●
動線 日常の出入りには「ヨリツキ」を用い、「ゲンカン」は、北条氏が来訪された場合など、特別な日のみに用いられたといいます。とすると、来客の動線は、「ゲンカン」→「ザシキ」、家族の動線は、「ヨリツキ」→「ダイドコロ」→「イマ」→「ハナレ」などが想定されます。
増築 「ハナレ」は大正初期の増築だそうです。「ハナレ」の天井(根太天井)は、「ザシキ」の天井と形態が共通していることから、「ザシキ」も「ハナレ」は同時期に建築されたと考えられます(図8・9)。

図8

図8 「ハナレ」の天井

図9

図9 「ザシキ」の天井

 ところが、「ザシキ」東南部の押入の東壁に明治42年(1909)の大阪毎日新聞が張られていたことから、少なくとも同年まで増築時期を遡らせることができるでしょう。「ザシキ」は、昭和55年(1980)以降は使われていませんでした。
 「ナヤ」は、全体に新しい部材が使用されています。元が1室でしたが、内部を仕切り、「ヒガシノヘヤ」、「クラ」が作られましたが、増・改築時期は不明です。
痕跡 柱などに残された痕跡を見ていきます(図10)。

図10

図10 痕跡図

①「ザシキ」・「ナンド」・「物入」の痕跡
 「ザシキ」の柱(C)(図9)の北・東面、柱(D)の東面に風食があり(図11)、この縁側は元濡れ縁であったことが分かります。なお、「ザシキ」と「ゲンカン」境のカモイ・シキイは後補材です(図9)。

図11

図11 柱D東面の風食

 「ナンド」では、柱(E)の西面にヌキ穴とコマイ穴(図12)、南西部の柱(F)の北面にもヌキ穴が認められます。さらに、梁(G)が後補材で、柱(F)の北延長上と、柱(E)の西延長上の交点の梁上面に上部材を支持する短柱があることから(図13)、この位置に柱、その間には壁の存在が推察されます。

図12

図12 柱E西面のヌキ穴・コマイ穴

「物入」は、新しい部材で増築したことが明らかです(図14)。

図14

図14 「物入

 このように、「ナンド」には複数回の増・改築が窺えます。
②「ヨリツキ」・「ニワ」の痕跡
 「ヨリツキ」と「ニワ」境のカモイ・シキイは後補材、「ヨリツキ」の柱(H)の東面と、柱(I)の西面にコマイ穴、両柱の足元にヌキ穴が残されていることから、元は壁、また、「ヨリツキ」の柱(J)と柱(K)の南面、北面の足元にもヌキ穴があり、やはり元は壁であったと推察されます。「ヨリツキ」と「ダイドコロ」境のカモイ・シキイは後補材で、シキイの下から3本溝のシキイが発見されました(図15)。「ヨリツキ」は、元は室であったと推察されます。
 となると、「主屋」の入口がありませんが、入口は「ニワ」の東部にあったのでしょう。それが、「ナヤ」を増築して、「ニワ」と「ナヤ」が接続されたため、「ヨリツキ」と「ニワ」が壁で仕切られ、「ヨリツキ」が日常の入口になったと思われます。

図15

図15  3本溝のシキイ

③「イマ」・「ダイドコロ」・土間(「ニワ」・「イタノマ」)の痕跡
 「イマ」と「ダイドコロ」境のカモイ・シキイは後補材で、柱(N)の西面のシキイ位置に彫込みがあり、元は、溝が彫られていないムメであった可能性があります。さらに、「ダイドコロ」西面のカモイ・シキイも後補材です(図16)。

図16

図16 「イマ」から「ダイドコロ」・「イタノマ」

 「ニワ」の柱(L)の東面の足元にヌキ穴、カモイ部分に彫込みがあり、同柱より東側に壁もしくは出入口の存在が推察されます。「ニワ」の柱(B)の南面にヌキ穴があり、同柱より南側に壁もしくは開口部の存在が推察されます。
 「イタノマ」は、大部分が新材もしくは後補材で、元来「ニワ」と一体の土間でした。「イタノマ」の梁(M)下面のホゾ穴から、柱の存在が窺えます。「イタノマ」と「ダイドコロ」境のシキイの下からムメが発見され、この位置には建具が入っていなかったと考えられます。
④「ニワ」・「ナヤ」接続部の痕跡
 「ニワ」と「ナヤ」接続部の土壁(A)は後補で、主屋の軒先部分に樋が残存していることから(図17)、「ナヤ」は「主屋」より後に建築され、「ニワ」と接続されたと考えられますが、後補の時期は不明です。

図17

図17 「ニワ」・「ナヤ」接続部土壁(A)

■推定復原平面図■
 調査の結果、全体的に後補材や新材が多く見られ、また床下には転用材が用いられていることから、数度にわたり増改築が行われたことが窺えました。これらを考慮して、推定復原平面図(以下、復原図)を作成しました(図18)。

図18

図18 推定復原図

 復原図によると、本来の「主屋」は、土間(「ニワ」・「イタノマ」)・「ヨリツキ」「ダイドコロ」・「ゲンカン」・「イマ」で構成されていたと推察されます。「主屋」には間仕切りが少なく、農家の平面(食違い四間取り)に類似していることが分かりますが、笠原が農家を購入し、移築する際に、給人席住宅の間取り(図19)に近づけて改築した可能性もあるでしょう。

図19

図19 給人席住宅平面

 復原図には、図19の離れ(「3畳」)はありませんが、「ヨリツキ」と「ダイドコロ」境の間仕切りを半間西へ寄せ、土間に面して「上り口」を設けると、図19と類似の平面になります。「ゲンカン」は、来客を迎えるための室名称で、「ザシキ」が増築された後に、呼称されるようになったと思われます。

■閑話休題■
 実測調査により作成したその他の図面を掲げます。なお、図3も同様です。

図20

図20 南立面図

図21

図21 東立面図

図22

図22 断面図

図23

図23 門東・南立面図

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