建築家大原芳知とコンペ④-地域のお宝さがし-64

■名古屋市庁舎コンペ(非装飾系)■
●コンペの概要●
 同コンペは、名古屋市庁舎の「建築意匠設計図案」を募集したもので、総数559点の応募がありました。募集の規定に様式の指定はなく、「各階略平面図」(1/300)が7枚提示され、実施の際に、入選案を「取捨変更スルコトアルヘシ」(注1)と明記されていることからも、このコンペが外観意匠(立面)のコンペであることが分かります。
 審査委員の佐藤功一は、平面は当局者が決めた「各階略平面図」によるため、まず全応募作品の「立面図の巧拙適不適」が審査されたが、これは、これまでの審査とは、「余程変わつたものであった」と、審査報告に記しています(注2)。

注1)『建築雑誌』(1929年9月号)。同コンペに関する事項で、断らない              記述は同誌による。
注2)「名古屋市廳舎建築意匠懸賞圖案の審査にたづさはりて」(『建築雑               誌』1930年2月号)。

■応募作品の傾向■
●外観●
 応募作品の立面を見た佐藤は、①大阪府庁舎(以下府庁舎)の当選図面に似たもの、②正面中央の奥に塔を立てるものが多いことから、府庁舎のような立面に塔を設置することを、多くの応募者が考えたのであろうと推察しています。
 このことから、12年前の府庁舎のコンペの入選案が、当時の庁舎建築の規範の1つになっていたことが窺われとともに、応募者は、塔が無い府庁舎に塔を設けることで、新しい庁舎の形態を提案したものと思われます。
●塔●
 応募作品の塔は、高いものは「二百尺」(約60m)におよび、形態は、「日比谷の公会堂」・「神奈川の県庁」・「早稲田の講堂」に似たものがあったが、応募作品は、それらから形態の「暗示を得た」もので、「窃剽(ママ)とは云へない」としています。「大連駅舎」のコンペにおいて、入選案の大部分に塔が設けられていたことからも(注3)、応募者が、「塔は公共建築のシンボル」になり得ると考えていたと推察されます。

注3)第63回参照。

●装飾●
 装飾は、当時のアメリカで流行していた「軒先に連続的な装飾」を施したものが「大変多かつた」と指摘し、それを「支那式」や「日本風」などの意匠にした例を図示しています。一方で、近年、若い層の一部で流行している、「横の線を沢山取扱つて窓を横に連続させる」ような図案は「甚だ少なかった」としていますが、これはモダニズムの意匠と思われます。

■審査委員■
 同コンペにおける建築関係の審査委員は、武田五一・土屋純一・佐野利器・佐藤功一・鈴木禎次です。そこで、佐藤が似た図案が多いと掲げたコンペの建築関係審査委員との重複を見ると、①大阪府庁舎(佐野利器・武田五一)、②「日比谷の公会堂」(佐藤功一)、③「早稲田の講堂」(佐藤功一)、④「神奈川の県庁」(佐野利器・佐藤功一)が確認されます(注4)。
 これらから、佐藤が指摘した府庁舎の外観に塔を設置した意匠は、審査委員の「顔ぶれ」から、応募者が読み取った解答案の1つと思われます。さらに、モダニズムによる提案が少ないのも、応募者がその「顔ぶれ」から、入選の傾向を予想したものと推測されます。

注4)近江榮『建築設計競技』p283~285(鹿島出版会、1986年)によると、各コンペの正式名称は、②「東京市政調査会館」、③「早稲田大学故大隈侯爵記念大講堂」(以下大隈講堂)、④「神奈川県庁舎」。コンペ関連の記述や入賞者は同書による。

●審査の経緯●
 1次の立面審査で選ばれた128点は、「何処へ出しても恥ずかしくない図案」と評されています。2次の透視図審査で61点が残されます。3次では、61点の全図面を並べての合議の末、24点が残りました。4次では、24点の全図面を壁に掲示して、各作品の前での審査委員全員による議論を経て、13点が選出されました。5次では、13点に「採点に依つて等級を定め」たうえで議論を行い、6次審査で当選者が決りました。なお、()内は、名古屋市庁舎コンペ以前の入選履歴です。

1等:平林金吾(建築学会会館[大正11年]1等・3等、大阪府庁[大正11年]1             等・佳作)
2等1席:荒木栄一(齊藤報恩会館[昭和4年]佳作)
2等2席:杉原啓一郎(齊藤報恩会館2等)
3等1席:村野嘉壽夫、2席:山田昭、3席:竹橋敏太郎、
  4席:池田正巳・田丸潤身(大隈講堂[大正12年]佳作、共同)、
  5席:杉原修蔵・大塚軍二
※1~2等入選者の略歴はすでに掲げましたが(注5)、3等入選者は不詳です。

注5)第62回参照。

●1等入選案●
 図1は、1等入選案の透視図です。

図1

図1 1等入選案透視図

 平林は、名古屋城を思い浮かべながら、コンペ案の着想を得たそうです(注6)。設計にあたっては、当時、建築界に台頭していた「東洋趣味、日本趣味」を加味し、「名古屋城の櫓」を高塔に表現したといいます。審査委員の土屋も、高塔は「名古屋城天守閣をかたどったもので」、非常に優れたものと評価しています。そして、実際の市庁舎も、「ほぼ原案通りの外観で完成」しているそうです(図2)。

図2

図2 名古屋市庁舎

 佐藤の審査報告にあったように、外観を府庁舎とし、塔を設置するのが傾向とすると、府庁舎コンペで1等を獲得した平林は、外観意匠の手法などは心得ていたでしょうし、塔を設けることも織り込み済みだったでしょう。ただ、塔の意匠に、地元の名古屋城を意識した点に、平林の見事さがあったと思われます。

注6)瀬口哲夫「故郷に錦を飾った建築家・平林金吾」。平林に関する事項
          で、断らない記述は同論文による。なお、同論文では、平林を「コン            ペの建築家」と評している。また、募集要項に東洋趣味の規定があっ            たこと、審査委員長は佐野利器であったとの記述があるが、既に見た            ように、様式の指定は無く、審査委員長名の記載も無い。

●大原案●
 図3は北側立面図、図4は断面図(横・縦)です。

図3

図3 大原案北側立面図

 北側立面は、中央部に車寄せを設け、その上端に合わせた水平線で下層と上層を区切って仕上げを変え、車寄せの上部の壁面に付け柱(ピラスター)が設けられています。この意匠は、「横断面図」から、正面(西側)も同様と分かります。外観はコンペの傾向をとらえていますが、様式は近世式でまとめられています。

図4

図4 大原案断面図(横・縦)

●日本趣味建築の流行●
 神奈川県庁・名古屋市庁舎のコンペでは、瓦屋根をかけた「日本趣味」の提案が増加傾向にありますが、これ以後の軍人会館・東京帝室博物館などでは、さらに増えます。これについて、審査委員の「顔ぶれ」で規定に「日本趣味」が加えられたことが指摘されています(注7)。名古屋市庁舎では様式の指定はありませんが、応募者が、「顔ぶれ」からコンペの傾向を読み解いたとすると、コンペによって多彩な様式を駆使した手腕が評価されるべきと思います。

注7)前掲4)『建築設計競技』p82。

■覚王山日暹寺コンペ(寺院系)■
●日暹寺の概要● 
 覚王山日暹寺(にっせんじ)は、名古屋市にあります。当寺はどの宗派にも属さないため、各宗派の管長が3年交代で住職を務める唯一の寺院です(注8)。寺院は、シャム国(現タイ王国)から寄贈された「真舎利」(釈迦の遺骨)を奉安するため明治37年(1904)に創建、シャム(暹羅)国から日暹寺と称されましたが、昭和14年(1939)のと国号変更(タイ[泰]王国)により(注9)、昭和16年に「日泰寺」と改称されました。

注8)ウィキペディア「覚王山日泰寺」
注9)「歴史【公式】タイ国政府観光庁」

●コンペの概要と入選者●
 同コンペは、日暹寺の鐘楼案を募集したもので、応募総数149点、審査委員は、武田五一・土屋純一・山田奕鳳です(注10)。

注10)『建築雑誌』1927年12月に入選者、1928年1月号に1~3等入選作                 品が掲載されている以外は不詳。審査委員は、前掲4)『建築設計                 競技』p283。

●入選者●
1等:城戸武男

図5

図5 1等入選案立面図

 寄棟屋根の頂上に相輪を立てた2層構成で、上部に高欄が回されています。高欄腰壁の装飾、下部の柱頭などから、アジア(東洋)風が感じられます。
 城戸は、大正9年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)卒業、竹中工務店に入社。コンペ入選時は名古屋支店の設計部主任で、入選を機に城戸武男建築事務所を開設しています(注11)。入選案の相輪から図6を連想しました。

図6

図6 タール寺仏塔(中国・西寧)

2等:山本延次

図7

図7 2等入選案立面図

 寄棟屋根の頂上に宝珠を載せ、基壇に高欄が回されています。面取りされた角柱の下部に礎盤、上部にメダリオン風の装飾、貫には水平線を施してアジア風を演出する反面、貫中央部の蟇股が和様寺院を感じさせます。
 山本は、これ以前、神戸市公会堂コンペ(大正12年)で2等に入選しています。

3等1席:森口三郎

図8

図8 3等1席入選案立面図

 入母屋屋根の破風に懸魚が施され、破風の壁面には連子窓が設けられています。基壇両脇の壁面を石張りとする一方で、入口の火灯曲線、貫中央部の笈形、曲線の鋭い木鼻などから、重厚さのなかに賑やかさが感じられます。
 森口は、大江新太郎(明治神宮宝物殿[大正10年]の設計者)の弟子筋で、扇湖山荘(昭和9年、鎌倉市)の設計を担当したそうです(注12)。

3等2席:大原芳知

図9

図9 3等2席立面図

 入母屋屋根の破風に懸魚が施されていますが、破風壁面に装飾はありません。両脇の壁面は豪快なL字形、礎盤上の柱は上下に粽が施され、繰形をもつ挿し肘木で貫を支え、中央部に蟇股が備えられています。装飾は全体に控えめです。

選外佳作:草間市太郎・島川精・松永阡一郎(不詳)・忽那仁作・渡辺仁
 佳作は、氏名のみが公表されています。入選者の経歴などを見てみましょう。
草間市太郎は、東京会館(大正11年)の設計者です(「田邊淳吉」と連名)(注13)。田邊は、明治37年東京大学卒業、清水組に入社(注14)。両者の関係は不祥です。
島川精は、「教育塔」の設計者で、大阪市営繕課に勤務しています(注15)。

図10

図10 教育塔(昭和11年、大阪市)

忽那仁作は、建築学会会館コンペ(大正11年)で3等、大隈講堂で佳作、大江橋・淀屋橋([大正13年]、大阪市)で佳作に入選しています。
渡辺仁は、明治45年東京帝国大学卒業、鉄道院・逓信省の勤務を経て、大正9年渡辺仁工務所を設立。これ以前、日清生命社屋コンペ[大正5年]2等、正徳記念絵画館[大正7年]2等・3等に入選しています。

注11)ウィキペディア「城戸武男」
注12)「長尾資料館本宅と別荘扇湖山荘」
注13)『明治大正昭和建築写真聚覧』p220(文生書院、2012年)
注14)『日本の建築家』p27(『新建築』1981年12月臨時増刊)。同期生に               佐野利器・佐藤功一・大熊喜邦らがいる。
注15)懸賞設計で原案が募集され、島川案が当選した。『近代建築ガイドブ
      ック[関西編]』p87(石田潤一郎他、鹿島出版会、1984年)

■閑話休題■
 仏舎利の寄贈が契機で創立された日暹寺ですが、その仏舎利を納めた奉安塔(大正7年)は伊東忠太が設計しました(図11、注16)。明治43年には伽藍計画も行っていますが(図12)、実施されませんでした(注17)。実施されていたら、タイ風の伊東建築を見ることができかも知れないと思うと、残念でなりません。

図11

図11 日暹寺奉安塔

図12

図12 日暹寺伽藍計画図

注16)鈴木博之編『伊東忠太を知っていますか』p116(王国社、2003 
     年)。図11・12は同書より転載。
注17)『伊東忠太建築作品』(国会図書館デジタルコレクション)p127の                 作品年表には、「不実施」と記されている。

次回は、軍人会館・東京帝室博物館・東京市庁舎のコンペの図面を見ます。

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