琵琶湖ホテル②-地域のお宝さがし-42

所在地:〒520-0022 大津市柳が崎5-35

 前回は、琵琶湖ホテルの設計者、意匠の変更などについて紹介しました。今回は、計画されながらも実現しなかったダンスホールをみます。

■ダンスの普及■
 わが国におけるダンスホールの発祥の地は、大正3年(1914)に開園した横浜の遊園地「花月園」とされています(注1)。ダンスは、大正中期ころから広く普及しますが、大正12年の関東大震災で東京のダンスホールが大きな被害を受けたのを契機に、大阪で多くのダンスホールが開業します。しかし、大正15年12月、今上陛下(大正天皇)崩御の際にもダンスホールを営業したとして、昭和2年(1927)、大阪のダンスホールは閉鎖されます。
 ところが、昭和3~4年以降ダンスが大流行し、阪神間の国道沿線に車での来場を想定したダンスホールが林立します(図1・2)(注2)。

図1阪神会館外観

図1 阪神会館外観

図2阪神会館内部

図2 阪神会館内部

 図1・2は、杭瀬にオープンした阪神会館(ダンスパレス、昭和5年竣工)ですが、外観・内部ともにハイカラさが窺え、「ダンス文化の移入と普及。通俗のなかの洗練」という、この時期におけるダンス普及の特徴が窺えます(注3)。

 一方奈良県にも、昭和5年にダンスホールが出現します。場所は、大正3年の大阪電気鉄道(現近鉄)開通後、宝山寺への参詣人を当て込んで誕生した門前町です(図3)。

図3門前町

図3 門前町

 宝山寺は「生駒の聖天さん」とも呼ばれ、多くの参詣者があります。境内には、伝統的な寺院建築の本堂(図4)のほか、擬洋風建築の獅子閣(重文)があり(図5)、独特な雰囲気が醸し出されています。

図4宝山寺本堂

図4 宝山寺本堂

図5宝山寺獅子閣

図5 宝山寺獅子閣(重文)

 門前町は生駒新地とも呼ばれ、大正10年には県下一の花街に発展し、ダンスホールができた際には100名のダンサーがいたそうです(注4)。ハイカラな阪神会館と同年の開業ですが、「花街」での立地を考えると、宝山寺参詣後の精進落としにダンスホールを利用したのでしょうか。外観が不明なのが残念です。

注1)花月園横浜市
注2)図1・2:『近代建築画譜』より転載。
注3)野島正也「社交ダンスの社会史ノート(1)」文教大学生活科学研究部「生活科学研究」(Vol6、1984年)
注4)「続・生駒は哀しい女町」

■琵琶湖ホテルのダンスホール■
●設置の目的●
 昭和6年6月に大津市は、琵琶湖岸に歓楽地帯を建設する「遊覧都市計画」を公表します。また同月、国際観光政策の一環として、琵琶湖に出した船上において、外人を含む国際会議出席者が、県知事・大津市長によってダンスで歓待されています。さらに、8月に県知事が、大津市付近でのホテル(琵琶湖ホテル)建設構想を発表します。このホテルによって、京都に宿泊する外客、周辺の道路整備によって、車でダンスホールに来場する阪神間の客も取り込みたいとの目論見があったようです。美しいダンスホールの設置は、外客の誘致と外貨獲得と阪神間のダンス愛好者の取り込みの一挙両得をねらった構想といえるでしょう。ちなみに、昭和8年5月に京津国道が開通しています。

●設置の経緯と計画●
 本館と同時に進められたダンスホールは、本館と同様の3階建ての外観で、本館とは廊下で結ばれる計画でしたが、昭和7年6月、滋賀県のダンスホールは客の来集を目的とする営業所と同じにしない、地階または3階に設けないなどの規制により廃案となります。次に、昭和7年3月以降に作成された案は、鉄筋コンクリート造で、1階は平面が楕円形のダンスホール、事務室、喫茶室など、2階は観客席で、ダンス専用の施設であったと思われますが、付属室の構成などから実現しなかったようです。その背景には、県や警察の規制がありました。
 昭和8年にはダンスの最盛期を迎えますが、反面、ダンス教師によるスキャンダル(注5)が発覚し、ダンス業界への取り締まりが強化されるようになります。それでもダンスホールの設置をあきらめないのは、外客誘致の推進が、「国際観光ホテル」としての琵琶湖ホテルの矜恃だったのでしょう。
昭和8年末以降に作成された案は、木造2階建て、2階に高欄を設けた和風意匠の外観で、正面玄関の左右に塔が設けられています(図6)(注6)。

図6

図6 昭和8年末以降のダンスホール案

 平面は1階にホールと玄関など、2階の観客席にはホテル棟からの出入口が設けられています。
 昭和9年3月3日の案では、正面の塔がなくなり、唐破風の上に千鳥破風が設けられています(図7)。

図7

図7 昭和9年3月3日案

 これらの案では、ステージに劇場や映画館の機能が付随されており、ダンス専用の施設から多目的な使用が可能な施設へと質的に変化しています。
 昭和9年11月に琵琶湖ホテルは開業しますが、ダンスホールは実現しませんでした。以後、ダンス業界への取り締まりが強化され、昭和15年11月にダンス禁止令が施行されます。琵琶湖ホテルがダンスホールを計画したのは、ダンスが流行した時期ですが、スキャンダルが起こり、さらに世の中が戦争へ向かって進むなど、社会状況の変化がダンスホールの実現をはばんだものと思われます。

注5)不良華族事件『ウィキペディア』
注6)図6・7:砂本文彦『近代日本の国際リゾート』より転載。
主要参考文献 砂本文彦『近代日本の国際リゾート』(青弓社、2008年)

■閑話休題■
 もし、図7・8のようなダンスホールが実現していれば、本館とダンスホールが一体化した和風建築が湖面に映し出され、何とも瀟洒な、外客がエキゾチック!と感嘆しそうな景観が生まれていたのではないでしょうか。まさに、まぼろしのダンスホール、惜しい気がしないでもありません。

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