絵図を読む①「大阪狭山藩陣屋図」 -地域のお宝さがし-79

植松清志

■陣屋ってなに?■
 陣屋とは、江戸時代における、1~2万石の無城の小大名などの屋敷をいいます。城郭に準ずるものですが、石垣はなく、周囲に土塁や堀をめぐらせ、御殿(居館)・役所・藩士の住宅・調練場などが配置されていました。

■大阪狭山陣屋は上・下に分かれていた■
 狭山藩の藩主北条家は、戦国大名後北条氏に続く家柄で、藩祖氏規(うじのり)は、伊豆韮山城主でしたが、天正19年(1591)河内に移封されます。慶長5年(1600)、初代藩主氏盛(うじもり)の時に11,000石の大名となり、元和2年(1616)、2代藩主氏信が現在の大阪狭山市狭山三・四丁目に陣屋を構築します(図1、注1)。当時、この場所は、東除川(ひがしよけがわ)が狭山池から出る河口の東北地帯にあたり、東の中高野街道(なかこうやかいどう)と西側の御庭池(上・中・下池、上・中池は現在の東幼稚園と東小学校の校庭にあたる)にはさまれた要害地で、少し西では、西除川が狭山池から流出する景勝を備えていました。

図1

図1 狭山藩陣屋の位置

 上屋敷は、寛永14年(1637)、3代藩主氏宗の代に完成しましたが、天明2年(1782)の火災で焼失、同6年に藩主御殿が再建され、以後、整備されたようです(図2)。
 下屋敷は、宝永6年(1709)、5代藩主氏朝の代に、上屋敷の南西部に建築されました(図3)。天明2年の火災で類焼したようですが、明確な再建年代は不明です。なお、昭和13年(1938)、下屋敷跡に「さやま遊園」が南海電鉄によって開園され、戦後も続きますが、平成12年(2000)に閉園しました。

図2

図2 上屋敷図

図3

図3 下屋敷図

注1)記述事項は、断らない限り『大阪狭山市史第一巻』(2014年)よる。             図は、同書より転載・加筆。

●上屋敷の町割り●

図4

図4 上屋敷町割り概念図

 陣屋(上屋敷)の町割りを見てみましょう(図4)。上屋敷は、中央部を南北に「大町筋」が通り、南端に「大手門」(南表門)、北端に「裏門」が設けられています。「大町筋」の東側は、東南部の「東門」に通じる「東門筋」、それと並行に配された「横小路」が東部の「東小路」につながり、画地が形成されています。道路幅は、「大町筋」が幅5間(注2)、「東門筋」が3間、他は2間で、「大町筋」の両側と他の小路の片側には、石垣で築かれた排水溝が設けられています。なお、「大手門」は、西本願寺堺別院の正門として現存しており、往時の様子が窺えます(図5)。

注2)道路幅は、京間(1間=6.5尺)で計画すると約10m、江戸間(6尺)             では約9m。

図5

図5 西本願寺堺別院正門

 「大町筋」の西側は、「水門」に通じる小路、その中央部から南部へ小路が通り、「袋町」が形成され、北部には、「西門」に通じる小路が配されています。「枡形前」(広場)に面して藩主の御殿がある「内郭」が設けられています。

■陣屋図の様相はいつ頃?■
●諸施設の配置●
 上屋敷の周囲には、東部に「元馬場」、「大町筋」の東南部に植林が行われ、西南部には「元練兵場」が設けられています。西部には「上池」(注3)・「下池」が配され、その西面も植林され、西北端部・東北端部・東南端部・西南端部には「砲台」が築かれ、「大手門」・「北裏門」の脇には「門番」を設けて、門の開閉や通行人の取締りを行うなど、防禦機能を向上させています。なお、「東門」・「西門」には「平日〆切」とあり、普段は閉じられていました。
 上屋敷内には、「桝形前」に面して「御殿表門」(図2のA、以下同じ)・「内廓」が位置します。「内廓」には、御殿・正庁・御金蔵などが設けられていましたが、その位置が判明するのは、「大町筋」沿いの七つ蔵(B)だけです。廓外では、「桝形前」の南部に藩校「簡修館」(C、それ以前は評定所)・「御作事場」(D)・中央部南方に「槍術稽古場」(E)・東部に「撃剣道場」(F)、北西隅に「牢屋」が設けられています。「内郭」北部の余地は、「舟越仲」・「舟越司」の宅地になっています。
 下屋敷は、西北面を狭山池に面し、中央部に「御馬場」、北西部に「的場」・「御殿」、東部に藩士の住宅や「鉄砲製造場」、南東部に「煙硝蔵」が設けられています。

注3)池は当所、上・中・下池に分かれていたが、中池の境界が取り払わ                 れ、中池が上池となった(『狭山町史第一巻』p554、1967年)

●作成年代●
 「御家中順席人員」(明治2年[1869])では、上屋敷図の全52家の大半が確認されます。「簡修館」は、嘉永7年(1854)の設置。「井出俊造」(G)は、明治29年の「旧藩人現在員」に見えます。また、下屋敷図の全41軒は明治2年に確認されることから、両図に描かれているのは、嘉永7年から明治2年以降の陣屋内の景観で、明治29年頃に作成されたようです。

■閑話休題■
 柏原陣屋(丹波市)には、長屋門・御殿が残されています(図6)。門・塀越しに御殿が見える景観は、上屋敷の内郭のイメージに近いかも知れません。

図6

図6 柏原陣屋長屋門・御殿

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