表現の自由の限界-SNSで2人以上が去る不快な表現もSNS側は保障するべきか-

先日、手嶋さんから「表現・ファンと炎上社会」の感想記事として以下のNoteが公開されました。

記事内の冒頭「まえがき」にて、以下の主張があります。

キャンセルカルチャーについて「イメージが悪くなった(悪くされた)表現が、企業や地方公共団体といった主体の判断によって取り下げられるのは、やむを得ないのでは?」等と、普段は表現の自由を応援する立場を取りながら、急に敵対勢力に転身する人も散見されます。

また、クレジットカード会社や大手ソーシャルメディア企業、EC業者による「自主規制」もほぼ同様の課題を抱えています。「自主規制は企業側の自由であり、表現者は嫌なら他所へ行くか、自分で起業すればいい」という(現実的には相当に乱暴な)意見を採用する人も珍しくありません。

こうした意見が表現規制派や、あるいは熱心な資本主義者から提示される分には何の不思議もないですが(「思想が違う」と理解できます)、基本的人権としての「表現の自由」を守りたいという思想を持つなら、相反するものでしょう。

しかし、こうした人たちは、特別な悪意をもって表現者の自由を奪おうとしているというより、単なる無知・無理解に起因するところが大であると(やや希望的観測も込めつつ)推察しています。

手嶋海嶺 【感想記事】表現者・ファンと炎上社会 ー女性と性表現2ー :「現場編」シンポジウム

端的に要約すると「企業や公的機関が表現を取り下げることを支持する人は、表現の自由の思想と反している」と主張されています。
私はそうは思わないので、以降で理由を述べたいと思います。

1.企業がユーザーの表現の拡散に協力しないことを支持することは、表現の自由に反する行為か

権利を語る上で重要な要素として、形式的権利と実質的権利があります。

形式的権利は、法律上の手続きによって認められた権利のことを指します。一方、実質的権利は、法的に保護される権利の中で、その実際の効果や内容に焦点を当てた権利のことを指します。
嚙み砕いて言うと、形式的権利は"そもそもの権利の有無"で、実質的権利は"権利を達成する力"です。

権利は形式的権利により権利が発生し、実質的権利によって充足され、この2つが揃ってこそ達成できます。

簡単に例示すると、人は生存権を法律により形式的に有していても、食べ物(=生存する力)がなければ生存権を実質達成できないので食べ物を受け取る権利、例えば生活保護を受ける権利も有します。

しかし、実質的権利は必ずしも保障されるとは限りません。
経済活動の自由を成すため企業する起業する権利を有していても、起業する力たるお金は必ずしも保障されず不自由を余儀なくされます。
学問の自由を成すために学ぶ権利はあっても、学力が足りなければ希望する学校や研究機関に入れず不自由です。

実質的権利の達成に国も私人も力を貸してくれず、往々にして自助努力が求められることがあります。
ちなみに、私はウマ娘でガチャを引くお金が保障されず幸福追求権の不充足を感じています。

国にすら国民の実質的権利を保障することはないので、当然私人間で保障する義務は基本的にありません。義務付ける場合は個別の法律が設定されます。

そのため、我々は今まさに力尽きようとしている他者の法律的な生存権を認めても、救急救命を施さず生きる力(実質的権利)に協力しない場合があります。
取引相手の経済活動の自由を形式的に認めても、敵対的経済活動により相手の経済活動の自由を実質的に無力化することも許されます。

相手の形式的権利を認めることと、相手の実質的権利に協力をするかは別問題です。

表現の自由においても同じことが言えます。

我々は自由に表現し発信する形式的権利と、表現の自由をより実質的に達成するために発信力や影響力を得るような実質的権利があります。
インターネットのない時代の我々一般人は、表現の自由を形式的な権利として有していても、発信力や影響力に乏しく基本的には表現が力を持たず実質的にはほぼ無力だったのですが、誰も実質的権利の保障をしてくれませんでした。
当時は少なくない額を支払って本を出版したり、テレビに広告を出したりしてようやく発信力や影響力を得ることができましたが、国や出版社やテレビ局の協力は当然ではありませんでした。

つまり、我々は他者の発信力や影響力など、表現の自由における実質的権利に協力する必要はありません。

企業も同じで企業が表現を取り下げたり自主規制したりする行為は、クリエイターの形式的権利には全く影響を与えず、表現を発信する力すなわち実質的権利に対して非協力とする行為です。
彼らの行為は表現の不自由を起こしますが、表現の自由への侵害では決してなく非協力なだけで、そしてその非協力は許されます。
私がインフルエンサーにこの記事を紹介してとお願いして当然のように無視されても、それは権利の侵害ではなく非協力であり許されるのと原理は同じです。

我々は、大変残念ですが、私が貴方にブルーアーカイブのガチャを引く幸福追求権における実質的権利の保障を求められないように、表現の自由においても発信力のような実質的権利の保障まで求めることができません。

あれら企業の行為が表現の自由に反する行為かと問われれば、形式的には反しておらず、実質的には反しています。
ただ、実質的に反していても、それは私人間では許されても良いのではないのでしょうか。
私を含む企業の権利を訴える人たちは、表現の自由の形式的権利を尊重するが、協力の強制による実質的権利の保障まではやりすぎであったり、慎重であるべきだと言っているのです。
他者の生存権を尊重するなら、私人間の救急救命を義務化し実質的権利の保障をせよと主張に対し慎重論を唱えたら生存権に反すると反論されるようなものです。
手嶋さんは企業の権利を訴える側の人間を無理解としましたが、私からしたら手嶋さんこそ、この点において無思慮に感じられます。
表現の自由以外の権利もそうであるように、実質的権利の領域においては表現も一定量不自由であって然るべきとの前提を持つならば、企業の非協力の容認はむしろ自然な流れです。生存権が保障されなければ表現の自由をも達成できないので生存権の方がより重要とも言えるのでしょうが、その生存権ですら実質的な権利の私人間保障を求めません。
表現の自由においてのみ他者の実質的権利まで保障せよとする方が異常なのです。

悪辣な言い方である自覚はありますが、生存する力を失おうとする女性に対してAEDを使用しないことを問題視しない表現の自由界隈の方は大勢います。表現の自由界隈で有名なヒトシンカさんも、患者の実質的な生存権につながる薬をダイエットに用いて問題ないと主張されていました。
憲法で定める他者の生存権の実質的な権利への非協力を繰り返し宣言し、いざ表現の自由の話題になると実質的権利への非協力を問題視する姿勢です。あまりに都合がよすぎます。
我々は私人間において実質的な生存権への非協力が許されるならば、実質的な表現の自由への非協力も許されるべきなのです。

2.表現の自由で発生するデメリットを、発信に協力する企業や公的機関が当然負うべきなのか

実質的権利を語る上で重要な要素として、力や金(コスト)の問題があります。
生存権があっても、食料を得る力や金がなければ生存権は達成できません。
経済活動の自由も権利があっても、金がなければ自由を達成できません。
形式的権利は天賦人権により無限に沸き出でても、実質的権利には金による限界があります。この権利の限界により権利は不自由になります。

現代社会においては金が凡ゆる力に変換可能であるため、金が多くの実質的権利を保障します。
しかし、金で腹は膨れません。
金はあくまで他者の協力を引き出す交渉手段や力であり、より本質的には他者の協力と自助努力があってこそ実質的権利は達成されます。

表現の自由も同じです。
表現物の作成は金がなくてもできますし、発信もできますが、より強力な発信力を得るなら金ひいては強力な発信力を有する出版社やテレビ局、プラットフォーマーなどの協力が不可欠です。
強力な発信力を得るためには金が必要です。

あわせて、表現の結果としてコストがかかる場合があります。
例えば、従業員が客に触法にならない暴言を吐いた場合、販売の機会損失やクレーム対応などのコストがかかります。
国の偉人の肖像画や宗教の聖典を燃やす表現は、他国との関係悪化なる現実的な損を発生させます。
表現の結果、金が必要になります。

もう少し複雑な事例として、例えば出版物にプラスマイナスで2人以上のユーザーが去る1人の不快な表現があったとします。
不快な表現によりユーザーが減ることで出版社は一種のコスト(損)を抱えることになります。
この表現を削除や自主規制しなければ、出版社は次第に発信力と収入を失い運営できなくなり、出版社にとっての表現の場が失われます。
これは誰もクレームを入れたり、キャンセルカルチャー的な動きをせず、ただ不快な表現が嫌いだと言う理由だけでユーザー去るだけでも起こる現象です。

客への暴言、聖典を燃やす表現、他の客が去る表現など、不快な表現には大きな損(コスト)が発生します。
これらの損(コスト)は負えないラインを超えると、表現できなくなります。
表現の自由には金による限界があります。
国民全員を生活保護できないのも生存権の限界で、私がプリンセスコネクトでガチャを引く基本的人権を保障されないのも幸福追求権の限界だからです。

この損(コスト)を表現者自身のみが負うのであれば問題ありませんが、表現の発信に協力する出版社やプラットフォーマーも損を発生させます。
これらの損は企業や公的機関、もしくは無関係な他者が負うべきでしょうか。

もちろんコストのかからない表現はありません。
しかし、コストを許容できるライン(限界)が必ずあります。
その許容できるライン(限界)は企業や公的機関によって異なるのだから、他者がどうこう言うべきではないのでしょうか。
繰り返しますが、企業や公的機関は他者の表現の自由に協力をしている立場なので、どの程度協力できるかは彼ら次第であるのは致し方ないのではないのでしょうか。

そして、これは手嶋さんが言うような資本主義的な話ではありません。
生存権は金がなければ達成できないのと同じように、表現の自由も金がなければ達成できません。
表現の自由の話しであっても実際に表現の場を保守・運営する上で、どうしても金の話しも必要になるのです。
生存権を実質的に守るためにはどうしても金(食料)が必要だと主張に対して資本主義者だと指摘されているような状態です。
手嶋さんは表現の自由の実質的権利と金(コスト)を切り離せないことに意識が及んでないようにすら思えます。

我々は商売に絡めて強力な発信力を得るための代償として、金に制限されて権利の限界を迎え不自由になるのは構造上当然あるべきなのだと思います。
この限界による権利の不自由すら許さないとする姿勢は、正直表現の自由を現実的に運営する立場を考えていないと指摘せざるをえないと思います。

表現の自由界隈の方々はプラットフォーマーやカード会社は、エログロ児ポのような表現に対して、どのようなコストを背負うのか、一度しっかり考え調べたうえで、それでも彼らがコストを背負うべきかを判断してみたら良いと思います。
赤字になるユーザーの表現は、彼ら企業が当然コストを支払うべき対象なんでしょうかね。


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