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「平等と公平」の画像で平等より公平が適切であると勘違いしてはいけない理由

■有名な「平等と公平」の画像

人権に関わる話題で「平等と公平」に関する画像を頻繁に目にします。
その画像は以下のようなイメージです。

平等と公平を説明する画像のイメージ

その画像では、塀のある外野席から野球観戦をする身長の異なる3人に、箱が与えられた2つの場面を描いています。
箱が3人に1つずつ与えられ、塀より背の低い人が観戦できない状態を「平等」とし、背の高い人の箱を低い人に譲り皆が観戦できている状態を「公平」としています。
2つの場面を対比し平等と公平の違いを直感的に理解させます。

そして、この画像を見た人は、全員が観戦できる状態である公平が平等より適切であると考えるようになります。
事実、この画像を根拠に「公平がより適切」と主張する意見が溢れています。
しかし、私は必ずしも「平等より公平が適切」とは思わないので、このNoteで理由を説明したいと思います。


2021/12/22 Googleでの検索結果

■「平等」と「公平」とは何ぞや

理由を説明する前に、まずは「平等」と「公平」の概念について、簡単に認識合わせをしたいと思います。

「平等」は「等しく平なこと」で、扱いが同じことです。
「公平」は「公に平らなこと」で、公の視点で扱いが同じことです。

平等は「扱いが同じ」状態全般としての言葉ですので、公平は公の視点を取り入れた、言わば平等の一形態に過ぎません。

とは言え、それでは平等と公平の違いがわかりにくいので、対比させる目的で平等を「公の視点がない、扱いが同じ状態」を指す言葉としましょう。

公の視点が付与されることで、人々は結果を想像し、登場人物全員が観戦できるよう調整するようになります
つまり、この画像で言うところの公平とは、結果を想像した平等であり、所謂「結果の平等」を指しています。
そして、それに対比される平等とは、「機会の平等」を指していると言えるでしょう。
改めて画像を見ると、「機会の平等」と「結果の平等」になっていることが分かると思います。

平等と公平を説明する画像のイメージ

要するに、この画像で言う平等とは「機会の平等」であり、公平とは「結果の平等」を指しています。

■「平等と公平」の画像で見落とされているもの

その上で、この画像は、野球観戦の場面を用いて平等と公平の違いを説明しています。
野球観戦の場では、観客全員が観戦できる状態が望ましいでしょう。
全員が観戦できる状態とは、全員が同じ結果になる状態であり、公平が望まれる場面であると言えます。

では、例えば野球の選手を描いた場面でも、公平が望ましいとの結論になるのでしょうか。
選手は他選手よりも良い成績を、すなわち他人とは異なる結果を目指します。観客も贔屓の選手やチームが活躍することを望むでしょう。
謂わば同じ結果になることが望まれない場面です。
そのような同じ結果が望まれない場面で、公平の視点から、選手の成績、身長や年齢で、同じ結果になるよう、例えばバットを0、1、2本と選手によって振り分けるべきでしょうか。

野球選手を公平に扱う


当然、答えは否です。
競技の場面では、公平を用いて同じ結果とすることは不適切です。
個人の努力によって違う結果を生じさせるために、全員に同じ機会だけを与えることこそが適切です。

平等と公平は、場面によって適切にも不適切になります。
例の画像は、あくまで公平が適切な場面だけを描写したにすぎません。
競技の場面を用いていたならば、公平は不適切に見えていたでしょう。
例の画像は、平等と公平にとって、それぞれ適切な場面があるとの視点を見落としています。
平等と公平を説明するのであれば、それぞれに適切/不適切な場面があることも伝えるべできです。

結果の平等が望まれない視点を踏まえた、平等と公平を説明する画像

その説明が不十分なまま画像だけが独り歩きし、まるで平等(機会の平等)より公平(結果の平等)が優れているかのような勘違いが広まってしまっています。
平等と公平は、使い所を弁えてこそ、正常に機能するものなのです。

■平等と公平の適切な使い方

では、平等と公平にとって適切な場面とは何でしょうか。

答えは、先ほどの野球場の例から想像することができます。
先の例では、同じ結果が望まれる場面では公平(結果の平等)が適切で、違う結果が望まれる場面では平等(機会の平等)が適切としました。

違う結果が望まれる場面は、競争の場面でした。
競争の場面では、皆に同じスタート(機会)を用意し、あとは個人の能力によって異なるゴール(結果)になるのが適切でしょう。

同じ結果が望まれる場面は、適切な言葉であるか悩ましいですが、いったん保護の場面とします。
保護の場面では、皆がなるべく同じような結果になるようにすべきで、人によっては保護を受ける必要(機会)がないこともあるでしょう。

つまり、競争の場面では機会の平等が適切で、保護の場面では結果の平等が適切なのです。
逆に競争の場面で結果の平等を目指してしまうと、それは不適切な結果の平等となります。

下の図はそれらをまとめたものです。

平等と公平の適切な使い方

機会と結果の平等を意識できず誤用されたケースは、歴史において多くあると私は考えています。

日本で一時期議論の対象になった「徒競走で並んでゴール」も、競争の場面で「結果の平等」を目指した誤用です。
子供の「公平(結果の平等)」を尊重する心を育みたいのであれば、競争のスポーツを選ばなければ良いのです。
少なくとも誤用した形で教えるのは不適切でしょう。

また、誤用の最たる例が共産主義だと思っています。
共産主義は、経済が明らかに競争の場面であるにも関わらず、「同一労働・同一賃金」なる結果の平等を目指しました。
これも「結果の平等」の誤用で、共産主義が失敗した根本的な原因だと感じます。
経済は複雑で必ずしも競争の側面だけではないので、「機会の平等」だけでは不足で「結果の平等」についても考慮する必要があるのですが、それでもやはり軸足は「機会の平等」にあるべきなのです。
多くの人がそれに気付き作り上げたのが修正資本主義であり、それでも結果の平等から軸足を抜けないまま調整したのが社会主義市場経済だと私は思います。

そのようにして人類は、経済で「機会の平等」を目指す資本主義と、「結果の平等」を目指す共産主義に分かれ、長いあいだ殺し合いました。
「機会の平等」と「結果の平等」の適用箇所をめぐる争いは、人の命が関わる問題にも発展します。

では、「人権」を語るにあたり、どちらが適切な場面なのでしょうか。
人権と言っても、表現の自由や、差別の禁止など様々です。
競争と保護のどの場面であるかを見定められずに進んでも誤り、不適切な平等を選んでも誤りです。
どちらだとの答えも誤りで、両方をバランス感覚をもって取り入れる中道こそが正解である可能性もあります。
私たちは、「機会の平等」と「結果の平等」の違いを理解した上で、多くの議論を深め、より良い未来を目指す必要があります。

一方の場面のみを切り取った画像により、平等(機会の平等)より公平(結果の平等)が優れているとの勘違いが蔓延することは、本当に危険なことだと感じます。


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