どこに行ってもどこにも行けないような、どこにいてもどこにでも行けるような

くどうはなえ

おしりについた白い粉を払うと、辺り一面にチャイムの音が鳴り響いた。

夕昏よりも、もう、真夜中のようだった。
甲州街道近くの団地。道の先で
トンネルに入るオレンジ色の強い光が見える。
コンビニエンスストアのやけに広い駐車場の中で
白い息をもくもくと上げながら喋っていたわたしたちは
誰ともなく手に持っていた菓子パンの袋を回収しはじめたのを合図に、
自転車の止め具に足をかけたり、ゴミ箱にゴミをつっこんだり、
ラケットバッグをしょったり、マフラーを巻きなおしたりしはじめた。

サドルの上から仰いだ空に点々と光る大きかったり、小さかったりする星は今その時がすべてだと時間よりもその身すべてでわたしたちに教えてくれていた。

中学2年生、14歳。
強い人しか持ってはいけないような気がしていたラケットバッグを
わたし以外の誰しもがいつからか当たり前のように背中にしょっていて
それをその時は眩しく、けれど少し悔しく思っていた。

わたしは、明日、26歳になる。
あの時芽生えた感情が劣等感、と呼ぶべきものだったことも、今は分かる。

悔しいことも、情けないことも、悲しいことも、その時は
そのまままるっとただ、悔しかったり情けなかったし、悲しかったし
楽しかったな、と思う。

今、この時この瞬間にも世界はごとりと音を立てて回転していて、
電車の中にいつの間にか公衆トイレが出現していることも、なんだか
見慣れて当たり前になっている。感度を鈍くすることが大人になることだと、
誰に教わったわけでもないのに、何故か思っている。

白いイヤホンから、「ばらの花」の前奏が流れてくる。

―安心な僕らは旅に出ようぜ。
思いっきり泣いたり笑ったりしようぜ。

日々、自分たらしめるものを揺らがせるセーターの糸かのようにほつれていく「何か違う」という感覚は大きくなるばかりでとめどがなく、その感覚をすぐに正しい行動によって紡ぐこともできず、いつも面白いほど何かを間違え続ける。言葉は何も伝えずにどこかに行ってしまう。情けなくて笑えないことも笑うことで、なんとか紡ぎ続けている。

そんな日々の中でも、突然吹いた風の中に14歳のなんでもない1シーンがふいに呼び起こされるようなことがある。懐かしい匂いがあたりに充満して、わたしは体操着姿でサドルにまたがり、あの時と同じように空を仰ぎ、今ならどこへでも行けるような、でもどこに行ってもどこにも行けないような、不思議な気分になったりもする。

―安心な僕らは旅に出ようぜ。
思いっきり泣いたり笑ったりしようぜ。
くるりの岸田さんはあたかもわたしたちはいつだってどんなときだって
まるっとただ悲しいだけだし、情けないだけだし、楽しいだけだとただ、
今、ここで、許すように歌っている。

ふっと何かの拍子にこの世界から、そっとつまみ出されたような気分になるわたしは、コンビニの傘立てにささっている自分の傘の先が何もしていないのにいつのまにか泥まみれになっていることにむかついて、傘をそのままにして、雨降りの中走り出す。
誰とも喋りたくないはずなのに、雨宿りして文庫の文字列を追っている頭の中には本当は心の底から笑い合えるはずだった人との叶わなかった美しい情景が水泡のように浮かんでは消えていく。

走ると、少しだけ自由になれる感覚がある。
世界のすべてがわたしに味方してくれているような気がする。

たった一回口火を切るタイミングを逃したばかりに
わたしの体液は、永遠に淀んだままになってしまうんじゃないか、と思ったりもする日々の中で、目の前でふくらんでいるカーテンのように、吹いている風にただ身をゆだねて生きたい。ただそれだけなのに。
それだけが、いつになっても、いくつになっても全然全く一向に上手くいかない。

わたしは、ジンジャーエール買って飲んでいつまでも、
「こんな味だったっけな?」と
首をかたむける自分でありたいだけなのだ、と思いながら、わたしはきっとばらの花を掲げるタイミングもいつまでも間違え続けるのだろう、と思いながらそれでもここぞという時、掲げられる人でありたいと思っている。

わたしはこれから一体どこへ向かっていくのだろう。

PS:相鉄線ムービーが好きすぎる気持ちと、それに合わせて改めて『ばらの花』を聴いてとても良い曲だな、としみじみ思った気持ちが脈々と記事に織り込まれてて単純だな自分、と思いました。単純ってめちゃくちゃ良いなと思います。

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