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【抵抗の手札】スーツを纏い、子供部屋から出ろ

2着で2万円

 最近のことだが、新しいスーツを買った。ずっと一張羅でやってきたのだが、腹は出てスラックスはきついし着倒してぼろっちくなるしだったので、必要に迫られてということだ。デパートの催事場で売っている2着で2万円というセール品ではあるが気に入っている。元々は1万5千円を超える値段がついていたものだ、決して質の悪いものではない。

 1着目は黒っぽい色のスーツで、よく見ると紫色のラインが薄っすら入っていてこれがいい。紫は私のテーマカラーだと勝手に設定しているし、目立たない程度に遊びを入れているのがカッコいい気がする。スーツは型が決まっているせいでかえって遊びを入れやすいように感じていて、ネクタイをこだわってみたりと色々試したくなる余地がある。

 2着目は紺色だ。個人的な好みを言えば、紺色は好きだが紺色のスーツとなると着る気が薄れてしまう。実はその理由がスーツを買いに行くまでわからなかったのだが、このたび原因も判明した。スーツのサイズを見繕ってくれたおじさま店員曰く、紺は若々しさをアピールするのにちょうどいい色だそうだ。それで合点がいった。これは維新の議員やブルシットジョブ(クソみてぇな仕事、の意)のコンサルが着る色なのだ。試しに音喜多駿で画像検索してみると、なるほど、確かに紺色のスーツを着ている写真が多いこと。紺色スーツへの嫌悪感は魂に刻まれたものだったのだろうか。

 とはいえ、若々しさを出すなら紺色、という見方はスーツ業界では基本らしい。くだらない理由で基本を毛嫌いするのもよくないだろうということで、思い切ってチョイスしてみた。実際買ってみると思っていたより悪くない。私のスーツは裏地が深いベージュで、それがインチキ臭い若々しさをうまいこと脱臭しているのかもしれない。若さを出しつつも大人びた落ち着きを演出するのに一役買っている、と思いたい。

 私の仕事はスーツ姿を必ずしも要求されないもので、せっかく買ったスーツの出番も多いとは言い難い。日々の業務ではなんだかんだいって動きやすい服装を優先してしまうため、スーツにはなかなか袖を通さない。とはいえ、スーツが好きなのも確かなので、機会を見て事あるごとに着ていこうと思う。

 ところで、私のスーツへのあこがれは、学者という職業へのあこがれと同じくらい人生の根幹の部分で芽生えたものだ、と言っても過言ではない。私がスーツという服装を始めて意識したのは、テレビドラマ『ガリレオ』に登場する福山雅治の姿を通してだった。

 彼はそのドラマで湯川学という物理学者を演じている。物理学者のステレオタイプに沿った奇想天外な言動と、それにそぐわないスタイリッシュなスーツ姿が印象的な役柄だ。私の父親はもっぱら作業服という職種で、住んでいるのはコンビニもない片田舎。そんな私がスーツを着た学者を知る機会はドラマしかなかった。

 その後、海外ドラマ『メンタリスト』で主人公パトリック・ジェーンを演じるサイモン・ベイカーの着こなしや、映画『キングスマン』での印象的な姿を見るにつれ、私の中でのスーツへの憧れは増していった。そうして昨今、晴れてスーツ姿の学者という、子供のころ夢見た職業についているというわけだ。福山雅治やサイモン・ベイカーとは似ても似つかないし、スーツを着る機会は少ないが。

 ともあれ、自分自身がスーツを着るような大人になって結構な年月が経ち、気づいたこともある。それは、いまの日本に「いい大人」が決して多くないということだ。

子供のような大人の大氾濫

 2022年11月15日、「まんだらけ」の2店舗にアダルト商品の販売を180日間停止とする行政処分が下された。これに先立って、同社はいわゆる「ビニ本」を販売したかどで書類送検されていたが、検察は起訴猶予処分としていた。(『「まんだらけ」にアダルト商品販売停止処分 「不可解」と会社側-朝日新聞』参照)

 これに関して朝日新聞の記事には「まんだらけ」のコメントが載っているが、驚くべきほど幼稚な内容だった。以下に全文引用する。

『本件は不起訴になった事件ですが、そこに行政処分が下されるという不可解な案件になっております。弊社としては素直に納得はできかねますが、起訴も行政処分もともに警視庁からのお達しと思われますので、よほどこの案件には思い入れがあるようです。弊社はあまりこの件にいつまでも関わって時間を浪費したくありませんので、甘んじてお受けさせて頂く所存です』

 はっきりとわかるほどの嫌味と負け惜しみである。先生に叱られてふてくされる子供のような姿がありありと想像できる。しかし、これは中高生のTwitterでの負け惜しみではなく、企業が全国紙の取材に答えての発言だ。

 普通、問題を起こした後に企業のものとして出すコメントは形だけであっても謝罪が入るものだ。仮に行政処分に不服であれば、なぜ不服なのか会社の立場を明白にすべきであろう。それが責任ある企業の態度、成熟した大人の態度というものであるはずだ。

 本件は不起訴になっているが、それは嫌疑が不十分だからではない。事実関係は認められたうえで、刑事処罰は求めないと、ある種温情的に処理されたに過ぎない。「まんだらけ」のケースがどうなのかはわからないが、一般には、初犯であったり被害が軽微な場合、更生を期待してこうした処分をすることがある。しかし、それを受けて出すコメントが『よほどこの案件には思い入れがあるよう』『時間を浪費したくありません』では、更生は期待できないというほかない。

 そもそも、「まんだらけ」が警察に目を付けられる一因となったのは、女性向け雑貨店や病院の周辺でアダルト商品を、しかも店舗の外部から見てわかるようなかたちで販売したことだ。近隣店舗の交渉にも応じなかったと聞く。周りが一切目に入らなくなり頑固にも販売を続けたわけで、よほど思い入れがあったのは果たしてどちらだったのか。

 もう1つ、「子供のような大人」の例を挙げたい。2021年8月、松戸警察署がVtuber戸定梨香とコラボした交通安全啓発動画を公開した。この動画に待ったをかけたのがフェミニスト議連だったが、それにさらに待ったをかけようと試みた者たちがいた。ネット論客の青識亜論と大田区議の荻野稔だ。青識はnoteでも度々デマと曲解に富んだ記事を執筆しており、私がここで文章を書くことで少しでもプラットフォームの健全化に寄与したい、と考えたきっかけの1人でもある。

 彼らは議連に対する抗議と公開質問状という名目で署名を集め、その数は7万を突破した。彼らはその数字でもって議連に迫り、質問に回答せよと現在も騒いでいる。署名開始から1年以上経ったいまも、松戸市の市議会選挙をきっかけに騒いでいるのだから大した力の入れようではある。

 だが、彼らの公開質問状は、質問状としてはあまりにも稚拙であった。何しろ、議連が一切主張していないことを「言った」ということにして、その前提で話を進めようとするのだから。議連からすれば「そんなこと言ってません」としか反応できないだろうが、彼らは自分の気に入る反応がないといつまでも騒ぎ続けている。

 (この辺の詳しい話を書こうとするときりがないので、ここでは説明しないことにする。興味を持った方は、ぜひ、「必ず」議連とそれに対する公開質問状の「原文」を照らし合わせて読んでみてほしい。先入観を取り除き平均的な読解力で事にあたりさえすれば、私の言っていることがわかるはずだ)

 署名の代表者に地方議員が含まれていることを思い出していただきたい。市井の市民よりもさらに責任ある振る舞いを期待される人物であるにもかかわらず。やっていることは言った言わないの子供の喧嘩レベルである。いや、水掛け論はまだ、お互いが何を言ったか残っていないから厄介なのだ。松戸の件ははっきりと主張が残っているのに、議連にちょっかいをかけようとする集団は水掛け論レベルのことをやっているのだ。子供の喧嘩より酷い。

 挙句、最近になって、フェミニスト議連のメンバーである増田かおる松戸市議が、署名それ自体が議連に送付されていないことを明らかにした(『選挙中に訴えたことや嫌がらせなど-増田かおる通信』参照)。荻野は「抗議文は送った」と反論したが、署名は集約された人々の署名簿それ自体を送る、ないしは送ろうとして初めて効力を持つのであり、相手方へ送ることまでが署名を集める人に求められる役割である。そもそも、署名を送るという行為自体が一種のパフォーマンスであり、問題を周知する絶好の機会でもある。そうした考えに思い至ることすらなく、不貞腐れるように言い訳を重ねる人間が地方議員を務めているというのはやはり驚きであろう。

ハードボイルドの消失

 『いまの日本に「いい大人」が決して多くない』とは書いたが昔と比較しているわけではない。私は昔の日本を知らないので、いい大人が増えたのか減ったのか、数の増減はわからない。ただ、あえて昔と比較するなら、ハードボイルドと呼べる人間が現代では滅多にいないのは事実であろう。

 ハードボイルドは元来小説の一ジャンルを指し、人間の振る舞いを指している言葉ではない。だが、通俗的には「粗暴で反道徳的なところもあるが、決して逃げはしない大人」くらいの意味でも使われているとみてもいいだろう。実際、ハードボイルド小説の主人公がすたこらさっさと困難から逃げるさまは想像できない。

 私はハードボイルドを称揚したいわけでも、そうなりたいわけでもない。暴力を振るい、酒を煽って煙草をふかし、女性を侮るというステレオタイプ的なハードボイルド像は現代にそぐわないし、健康にも悪いだろう。私は長生きしたいと思っているが、ハードボイルドな人間が100歳まで生きて老人ホームで暮らしている姿もやはり想像できない。それに、地球上の約半分の属性を下に見て生きるのはそれはそれで大変そうだし、無駄に敵も作りそうだ。

 ハードボイルドは現代において消失した。それは間違いないだろう。いや、我こそは現代のハードボイルドであるという人はぜひ手を上げていただきたい。まぁ、ハードボイルドがnoteを読んでいて、しかもコメントまで残すことはあり得ないだろうから、これはアンフェアな問いかけではあるが。ともかく、ハードボイルドな大人はレッドリストに収録され、ワシントン条約のせいで国家間の移動もままならないというのが現代である。それは確実だ。

 では、ハードボイルドの消失は日本社会に良い結果をもたらしただろうか。

 私はそうは思わない。なぜなら、ハードボイルドが消え去っても、ハードボイルドの欠点を抱えた大人は依然として大勢存在するからだ。それどころか、ハードボイルドの美点を失ったまま欠点だけを抱えて生きている大人がごまんといる。つまり、ハードボイルドな大人のように反道徳的で、暴力も好み、女性も下に見るが、ハードボイルドな大人とはうって変わって卑怯だし責任から逃げもする、という大人である。いいところがないではないか。

 「まんだらけ」でビニ本を売っていた大人たちは、きっとエロティックなものが好きなのだろう。そこはハードボイルドっぽい。だが、責任を問われたとき不貞腐れることしかできなかった。そこには固ゆで卵の堂々たる姿はなく、ただの腐った生卵だった。

 フェミニスト議連にケチをつけようと集まった人々は女性を下に見ていたのだろう。女ごときが口を出しよっての精神だ。だから、あの程度の支離滅裂な質問を投げつけてしまった。気の利いたセリフの1つもなく、武骨な乱暴さや傲慢さもなく、かといって理知によって議論を組み立てられるわけでもなく、ただただ中途半端に丁寧語でへりくだりその背後に傲慢さを隠そうとする情けない文章。無視されてまぁいいさと嘯く胆力もなく延々とちょっかいをかける軟派男の大騒ぎ。ハードボイルド小説なら主人公にぶちのめされ読者をすかっとさせる役回りだ。

 ハードボイルドが長所50短所50であれば、現代の大人たちは長所0短所50のようなものであろう。だったら、旧態依然と言われようが、まだハードボイルドのほうが断然いい。悪いところはあるかもしれないがいいところもあるのだから。「子供のような大人たち」には悪いところしかない。

こどおじ家父長制

 ここまで見てきた『子供のような大人』の重要な点は、「大人なのに子供である」ことでは、実はない。見落としてはいけないのは、『子供のような大人』たちが、精神性や能力においては子供のようでありながら、一方で大人としての支配力を振るおうとしていることでもある。

 特に、松戸市の件で『子供のような大人』として振る舞っている人々が顕著であろう。彼らは、フェミニスト議連の人々に質問状を投げつけ回答をせよと繰り返し迫っている。実際には、満足に回答できる体裁の質問を作りだせていないのにもかかわらず。これは、彼らが議連に回答を求めるというかたちで、彼女たちの行為を支配せんと試みているのだと解釈できる。実際には単に回答すればいいのではなく、彼らが望む形で回答しなければいつまでも「回答していない」ことにするだろうとは想像に難くない。

 『子供のような大人』であることは、実は大した問題ではないのかもしれない。『子供のような大人』ならば、どうぞ子供として振る舞ってくださいと言うだけだ。昨今は青年期が長くなっているともいうし、大人になるまでに昔より時間がかかることは必ずしも悪いことではない。責任はなく好き勝手に泣き喚くだけでも、子供として弱々しい立場にいるなら勝手にすればいい。

 だが、『子供のような大人』であるにもかかわらず一端の大人であるかのように振る舞おうとするのは大問題だ。なにせ、彼らは責任を取らないのだから。子供なら影響は軽微だが、大人の振る舞いはそうも言ってられない。だからこそ責任を取らなければいけないのだが、彼らはそれを拒否する。いわば、大人と子供のいいところ取りをしようとするのだ。たまったものではない。

 このような大人たちの振る舞いについて、ドイツ文学・思想を専門とする長谷川晴生は「こどおじ家父長制」という概念を提案している。

 この概念はけだし慧眼というべきだろう。家父長制というのは、平たく言えば父親を家庭のリーダーと規定しそれ以外の構成員をその下に置く、奴隷制度の変種である。家父長制において、父は妻にも子供にも、そして年老いた親にさえも支配者としてその権威を振るうのである。

 本来の家父長制は、(表面上のものかもしれないが)家長に家庭のリーダーたる責任を求めている。夫が外で稼ぎ家族を養うというのは最もわかりやすい例だろう。それが出来なければ家長としての資格を失い、内外から激しく責められる。家父長制は家長にとっても過酷な側面があり、日本の長時間労働や男の不健康はその名残だと解釈することもできる。

 翻って、こどおじ家父長制である。ここでは、家長たる男は未だ「子供」である。故に、家族に対する責任はない。一方、支配力は求める。このため、彼らこどおじ家長に責任を求めたが最後、強烈な逆ギレにあうこととなる。「子供にそんな責任を求めるな!」と。彼らが子供ならその主張は正しい。つまりそういうことである。

 そしてここが重要なのだが、家父長制は天皇制の元で広まった制度であり、天皇制は国家(ひいては全世界)を「天皇を家長とする大きな家族」としてみなす制度であった。八紘一宇はまさにこうした考え方を表現するフレーズである。この点が、家長としてのこどもおじさんの振る舞いを理解するのに大きな役割を担うのではないかと思う。

 天皇制の元では、家長は単に家族のリーダーというだけではない。社会の支配者である。言い換えれば、家長や家長になる資格のある男たちは社会全体に対する支配力を行使する権利を持つ……と導き出せる。そのため、こどおじ家長は自分が社会に物申す権利があり、社会はそれに従う義務があると考える。自分は子供だから、家長として振る舞う能力を欠いているにもかからわず。

 このような考え方は、特に女性への攻撃が苛烈になる一因を説明できる。家長は常に男であり、女性は常に家長から「指導」される側だからだ。こどおじ家長は自分が男であるというその一点だけで女性に言うことを聞かせられると思っているし、女性は女性であるというだけで家長たる男に従う義務があると思っている。だからこそ、「まんだらけ」の経営者たちは「女子供」の抗議を聞く必要がないと考え、青識や荻野といった署名の関係者や賛同者は「女」が自分の質問に応じる義務があると考えているのだろう。

 もちろん、仮に彼らがこどもおじさんではない大人だったとしても、家長として家族や他者に振る舞うことは正当化されない。昔ならいざ知らず、現代ではあらゆる人間は平等であり、父親や夫であることは彼らの要求が家族のその他の構成員の主張に優越することを意味しないからだ。

 とはいえ、彼が本当に家族を引っ張るだけの能力を持ち、そのように貢献しているのであれば、彼の話に耳を傾けようという尊重をする人は少なくないだろう。貢献が本物であれば頼りにされるのは必然である。そのような家族のあり方は現代的ではないと批判されうるものではあるが、感覚として理解できなくはない。

 こどおじ家長は違う。貢献も能力もないが、支配者としての出しゃばりだけはあるただの厄介者である。ここでもハードボイルドと同じ構図がある。真に頼りになる家長には長所と短所があるが、こどおじ家長には短所しかない。

キングギドラと思いきやヤモリ

 最近、日本語ラップに凝っている。そんなおり、キングギドラが「THE FRIST TAKE」で新曲を公開した。キングギドラは有名なグループで、どれくらい有名かと言えばここ1年でラップにはまった程度の私でも名前を聞いたことがあるくらいのものだ。大御所と言っていいだろう。

 キングギドラの曲をこれまでに聞いたことがなかったので、早速聞いてみた。『Raising Hell』という曲名で、動画のコメント欄では『先が不透明なこの時代において論争を呼ぶことで「問題提起」をし、人々を覚醒へと促す新作』と説明されている。

 HIPHOPに明るくない人でも知っていることだが、HIPHOPは黒人カルチャーを出発点としており、必然的にその中身には権力批判や差別へのカウンターが含まれている。言ってみれば、生誕から政治的作品であることを運命づけられたカルチャーである。

 一般に、日本のクリエイターは政治的メッセージの扱いが得手ではない。だからこそ、大御所がはっきりと政治的要素があると明言する作品で、こうした要素がどのように扱われるか期待が高まった。おそらく、私のようなにわかが想像しないような手法で華麗に仕上げてくるのだろうと思った。

 そして、実際に聞いてみて、期待は失望に変わった。内容があまりにも幼稚だったからだ。

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