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【抵抗の手札】序文:⤵カードを1枚引き、その後カードを1枚捨てる

泥の中に戻る

 noteでの執筆を再開しようかと思った。きっかけは私の主戦場であるブログ『九段新報』で『部外者の立場からColaboデマを検証する』という記事を書いたことだった。

 そこでは、女性支援団体に対する数多くのデマを批判・検討した。内容は当該記事を読んでもらうとして、注目すべきなのは、デマの多くがこのプラットフォームで流布されていたことだ。

 現実問題として、noteは素人が文章を売るという点で日本最大手の市場であることは間違いない。それは必然的に、デマと差別を広めることで富と名声を得たい人たちに都合のいい市場であることを意味している。

 私は『【九段新報総集編】進化心理学が「本物の科学」になる日』を最後に、noteでの執筆を止めていた。noteという場を持てあましていたのも事実だが、noteの経営にかかわる人々の振る舞いが信用できず、使用を止めていたのもある。

 だが、その結果はどうだろうか。プラットフォームから人権を気にする人が消えた一方、気にしない人が残って大騒ぎを続けている。その成れの果てのひとつが、女性支援団体へのデマ攻撃だったのかもしれない。考えてみれば、女性蔑視の言説で金を儲ける青い眼鏡も白い饅頭も手のひらも、みなnoteを使っているのだった。

 noteの執筆を止めてから2年が経った。noteの問題が解決したかは定かではない。しかし、特定のプラットフォームで流布される攻撃的で差別的な言説に対抗するには、同じフィールドで「まともな」文章を紡ぐほかないのだろう。そう思って、私は泥の中に戻ってみた。悪貨は良貨を駆逐するという言葉があるが、逆も起こり得ると信じて。

 私は蓮の花が好きだ。蓮は根を張る沼が濁っているほど綺麗な花を咲かせるという。せめて、この連載を大輪の花としたい。

文章的方針:いつでもだれでも読むものを

 『九段新報』での執筆スタイルは「感情を表に出す」と「出来るだけ時流に乗る」だ。かなり気に入っているので、これを変える気はない。一方で、そのスタイルに限界があることもいい加減理解しつつある。

 私は、怒りをきちんと怒りとして表現すべきだと考えている。故に、『九段新報』ではかなり荒い言葉を使うことがある。それが悪いとは思っていないが、とはいえ、荒い言葉は読者を選ぶこともこの10年ほどの間に学んだ。それと、あの砕けて荒れた文章を地方議員や大学教員のようなお堅い立場の人に拡散されると気まずい思いをすることも学んだ。ゼロから始めたブログがそういう人に読まれるまで育ったということでもあるのだが。

 そこで、この連載では極力感情は出さないようにした。冷静であることが最重要だとは思わないが、ここでは落ち着きという戦術を取ることにする。読者をあまり選ばない文章を目指す。

 もう1つ、ブログは時流に乗るものだった。私は時流に乗るというのが苦手で、最新の研究動向はチェックし忘れるし、ドラマやアニメの初回は見逃すし、好きになった漫画のグッズはもう売っていないという人間だ。それでも、ブログはTwitterからネタを探すことが多いこともあり、わりあい時流に乗った記事を書いてきた。

 時流に乗ると、ベストなタイミングで多くの人に読んでもらえるというメリットがあった。しかしそれは、タイミングを逃すと忘れ去られるというデメリットと一体でもあった。ブログはそれでもいいが、どうせならここでは違う性質の文章が書きたい。

 というわけで、ここでは時流に乗らず、いつ読んでも価値があるものを書くことととした。いや、ブログの文章だっていつ読んでも価値のあるものを書いてきたつもりだが、ここではより一般化した文章を書くことにする。

 感情を表に出さない、時流に乗らない。2つの方針を一言で言い表せば、いつでもだれでも読むものを書く、ということになるだろう。

金銭的方針

 noteで書くことの利点のひとつは、マネタイズのしやすさである。noteを離れて以降マネタイズの方法を検討したこともあったが、結局noteに勝るものはなかった。利用者が多いことは、商業においてすべてに優越するのだ。

 とはいえ、色々考えてはみたものの、どういう方針を取るべきかは自分の中でも定まっていない。少なくとも、駄文を連ねた月1000円のマガジンを始めるというような暴利を貪る行為をするつもりがないのは確実だが、全部無料公開と割り切れないのも事実だ。ちょっとはお金が欲しいと思ってしまうのも事実ではある。第一、無料公開はブログで十分やっている。

 かといって、金を払わなければ読めない部分が多すぎる、というのでは誰も読まないだろう。誰も読まない文章を投稿する意味も薄い。

 そういうわけで、当面は記事の最後の方を有料にするという何とも半端な方針を取ってみることにする。これは途中で変わるかもしれないし、だらだらとこのままいくかもしれない。現状の考えでは、無料公開の部分だけでも最低限の主張は伝わるようにし、有料分では金銭的価値に見合うように頑張って技巧を凝らそうと思う。

抵抗の手札

 本連載の名前の由来はカードゲームから来ている。カードゲームにおいて、手札はすなわち取り得る選択肢の数である。手札が多ければクリーチャーを召喚するか、敵のクリーチャーを破壊するか、装備品を場に出すか、ライフを回復するかなどを選ぶことが出来る。手札にクリーチャーしかいなければそれを出すしかない。

 現実で物事を考えるときも同様ではないかと思う。例えば、どうしても目の前の問題を女性差別の観点から考えることのできない人がいる。彼は恐らく、手札にフェミニズム属性のカードがないのだろう。だからカードを切ることが出来ず、的外れなカードでその問題に立ち向かうほかない。

 ところで、この記事のタイトルである「1枚引いて1枚捨てる」はそのまま実在のカードに記された効果であり、MTG(マジック:ザ・ギャザリング)で言うところのルーティングという動作を表している。

 カードゲームにおいて、手札を揃えるという行為は一般に強力なものだ。デッキは厳選されたカードのみで組まれているが、ゲームの序盤に欲しいカードと終盤に欲しいカードは異なる。カードを引けば引くほど、いまこのときに欲しいカードを呼び込める確率が上がる。

 ルーティングは純粋なドローに比べると見劣りする動作ではある。引いた枚数と同じだけカードを捨てるのだから、手札の枚数は増えない。しかし、現実に立ち返ったとき、捨てるという動作は存外重要だと思う。

 カードゲームは厳選したカードだけでデッキを組むが、現実はそうではない。情報収集すればどうしようもない「ゴミ」が手札に紛れ込む。差別、偏見、冷笑、デマ、陰謀論などなど。カードゲームにおける「いらない手札」は「このターンには使わない」だけであとのターンには必要かもしれない。一方、現実の「いらない手札」は本当に不要なもので、それどころか、そんなカードを切ったが最後大損害を被る恐れすらある。積極的に捨てなければならないものだ。

 だから、この連載ではカードを引くのと同時に、カードを捨てることも提案する。良質なカードで手札を満たし、悪質なカードは墓地に送る。ルーティングを行うための場がこの連載だ。

 さあ、社会の山札から新しいカードを引こう。そして、手元に残る古臭いカードは捨ててしまおう。自分の手札を、迫りくるものから抵抗するためのもので満たすのだ。

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