違和感を追いかける

バズっているこの記事を読んだあと、良記事なんだろうなとは思いながらも、ぎしっとした感触が否定できなかった。例えて言うなら、チョコレートを食べたけど、銀紙の端を噛んでしまったような。
たまたま別のタイミングで下のツイートを見たばかりでもあって、

違和感があったら必ず言語化しろというのになるほどなと思ったばかりだったので、このぎしっとした感触の言語化を試みてみようと思う。

パッと思いついたのは、これがユニクロの話だから、ということだ。個人的に、ユニクロで買い物をするのは避けている。


例えばこんな記事や


こんな記事が記憶に新しい。


これはまあ、そりゃあ、こういう過去のニュース知っていて、あんなにきらきらした青年を初めてのバイトに快く送り出すのは、私にはちょっと難しい。社会とはそんなものだよ、企業には色んな顔があるものだ、きれいごとばかりじゃないんだなんて、わかったような顔をした大人にはなりたくない。(だから生きづらいのかもしれないが)

でも、それだけでもないような気がする。そしてもちろん、この『それだけでもない』のを追いかけるのが本題だ。

志望動機というもの

ここで働きたいという熱意を示せ、というアレに、自分自身がげんなりしているという点は否めない。
誰だって、やる気のある人と働きたい、という意見には賛成だ。でも、働くつもりで応募した人たちがばたばた辞めていくのはなぜかといえば、その多くの理由が『わりに合わないから』になるのではないかと思う。何が何に合わないかって、苦労に対価が見合わないのだ。そのわりを熱意で補わせようという。
それを人は、やりがい搾取と言う。

さて、また脱線したが、再度人気記事の青年とユニクロの話に戻りたい。多分このあとも脱線が予想される。志望動機というものへのげんなりした感情だって、私個人の印象の話だ。どうもこの記事は、私の中にもやもや漂っているネガティブなもののエッセンスを結構持っているらしい。

仕事と一生懸命

初めてのバイト、初めての履歴書、初めての面接。不安いっぱいながらも、頑張って働きたいという意欲に満ち溢れた青年と、その意欲に応えたnote主、そうして見つけ出した素晴らしい志望動機と、ゲットした採用。

イイハナシジャン!と思考停止したくなるが、ぐっとこらえて考えてみよう。いい記事だしいい話だけど、私の中に湧いた違和感をまだ放っておけない。 

先に言っておくが、彼の一生懸命さや熱意を否定したいわけではない。

けれど、バイトの志望動機に、ポスターにできるような素晴らしい志望動機が必要だろうか。通いやすいから、ではなぜいけないのだろう。お金が要るし働きたいし、ここの服が好きだから、ではなぜいけないのだろう。

そんなに熱意を求めておいて、どうしてときに、企業は人を、使い捨てるようなことをするのだろう。

奈良に住む18歳の青年が、ユニクロのバイトに受かっただけの話。

元記事のこのフレーズが、私の違和感への一つのヒントをくれた。

思い出してほしい。初めての仕事ならなおさらだけど、履歴書を書いて面接を受けて仕事に採用されるって、大抵の人にとって、人生の一大事なのだ。だから一生懸命悩んで書いて、しぬほど緊張して面接に行くのだ。それだけのことなんかじゃない。些細なことなんかじゃない。

なのに、雇う側にとって、人一人が些細なことでありすぎるのだ。全ての人の一生懸命に、雇う側はきちんと応えるべきなのだ。どうして働く人が、働くべき時間働いても生きていけるかどうかみたいな給料で買い叩かれねばならないのだろう。もしくは、給料の方に労働時間を合わせるかのごとく、こき使われねばならないのだろう。それは本当は不誠実なことだ。けれど、お値段以上を求めるというのは、そういうことだ。雇われて働くとき、人はお値段以上の働きを求められる。

これがお手本になるということ

『就活する全ての人に読んでほしい』みたいな惹句が、ツイッターでついていた。noteでも、『就活』『就活エール』のタグがついている。バズってツイッターのオススメにもあがっている。かなり読まれているだろう。

私の中で淀んでいる違和感のひとつめは、これが『みんなこうすべき』『みんなこうあるべき』お手本のように扱われつつあるということだ。このエピソードはR君と島田さんのセレンディピティが成し遂げたもので、すばらしすぎてオーバーキルな志望動機なはずじゃないのか。

書いてて嫌になってきた。一生懸命することの何がいけないんだ。すばらしすぎるならすばらしいじゃないか。みんなでそのレベルを目指すことの何が悪い。皆向上すべきだ。頭の中で誰かが怒鳴っている。

違う、そうなんだけど違うんだ、と脳内で怒鳴る声に反論を試みている。一生懸命働いて、でも生きていくのにお金が足りなくて、私の一生懸命の価値はこんなものだということか、生きる価値もないということか、と泣いた日々のことが忘れられない。

たぶん、私の感じた違和感とはこういうことだ。働く人が精一杯一生懸命やるということと、雇う側がきちんと報いることは全く別のことなのに、その温度差があることを知っているがために、これから一生懸命やろうときらきらしている青年と、まっすぐに応援している人の姿を手放しで称賛できない。

素直じゃないな!と思う。

卒業式の歌が、ここ数年で嫌いになったのと少し似ている。全ての未来に輝かしいものがあるかのような幻想を与えてこの社会に放り出そうとするアレが、嫌で仕方がない。(直接聴く機会はないので、シーズンになると思い出して嫌になるだけなので放っておいてよろしい。あしからず。)

また話が脱線した。
アルバイトに限らず、働くということに、あまり一生懸命を求めない方が良いのではないかと時々思う。手を抜けというわけではないしサボれという話でもない。けれど、持続可能な力加減を探ることは必要じゃないか。

できる限りのギリギリまで一生懸命にやっていると、それが当たり前になってしまう。当然、自分がやっているんだから、他人にもその頑張りを求める。それは結局、世界を窒息させることになってはいないか。

全然違う話になってしまったような気もする。でも、違和感とはそういうものなのだろう。真っ正面から矛盾するようなものではなく、全然ベクトルの違う面の、辻褄の合わなさのようなものなのかもしれない。

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