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疑うより信じる方がむずかしい

「信じるか信じないかは、あなた次第」

と1時間で何回言うんだと言う番組がありますね。
僕はここ最近「信じる」と言うことについてあれこれ考えているのでこれからちょこちょこ書いていくかと思います。

今日はそもそも信じるか信じないかが問われることについてざっくり考えてみました。

信じ難いから信じるか信じないかが問題になるんだよねと言うことから入っていきます。

科学を「信じる」と言うか?

たぶん、僕は科学を信じていると言ったら違和感があると思います。科学は信じるとかそういうもんじゃないと言うはずです。

論理的に考えて今のところ一番矛盾がなく、再現性があるのが科学だというのが一応僕の認識です。宗教は信じるのが前提で、科学は疑うのが前提だと聞いたこともあります(真理とか美しさを信じているから疑えるのではないかという気もしますが)。

ともかく、科学がそういうものであるなら、やはりそれは「信じるか信じないか」という問題とは別の話になるでしょう。

現実と首尾一貫して整合しており、すべてに合理的に説明がついて納得できてしまうようなことに関しては、積極的な意味での信じるか信じないかという問題は現れることすらないのです。

ですから、起こる確率が非常に高いこととか誰もが納得していることについてもあまり「信じる」とは表現しません。

「明日も授業があると信じている」「エジソンは偉大だと信じている」とはあまり言いませんね。実際信じているのかもしれませんが、あまり信じているかを意識することにはならないということです。


信じ難いから信じるに値する?

「信じるか信じないか」という問題が切実に浮かび上がるのは、信じ難いことを対象にしている場合だけです。

ないとは証明できないけれど、ふつうに考えてありえないだろうと考えるようなことだから「信じるか信じないか」と意識することになるわけです。

その上で、どうも最近僕らは(僕と僕の周りの人だけなのかもしれませんけど)信じるか信じないかという問題をまじめに扱っていないのではないかと感じます。

試しに「神はいるか」ということについて、友達にどう思うかとまじめに尋ねてみてください。かなりの確率でテキトーに返事されるでしょう。「そんなの信じてるの?」と言われるかもしれません。

でも、その態度は賢いとは言えないのではないかと、僕は最近考えるようになっています。


信じる方が難しい

ここで、「信じる」という言葉を使うところをいくつか見てみます。

自分を信じろ
生徒のことを信じるのが教師の勤めだ
お前を信じよう
信じれば夢は叶う
神を信じる

こういうのが、日常的にはよく見聞きする「信じる」ではないかと思います。でもこれら全部、容易なことではありません。

もう一度よく見てください。
実は突き詰めて考えると非常に難易度が高いことばかりではないでしょうか?


自分を信じるってどこまでできているでしょうか?


ある一つのことを死ぬまで突き詰めた人の話が胸を打つのは、自分を信じ抜くことが難しいからではないでしょうか。


人を信じるのも難しいことです。そうではありませんか?


アニメのキャラクターは仲間どころか敵まで信じ抜くタイプが多いですが、それが難しいからこそ主人公に相応しいのではないかと思います。

ふつうは身内を殺した相手を許したり助けたりできません(『未来少年』のコナンとか『ドラゴンボール』の悟空とか『約束のネバーランド』のエマとかね)。


先ほど述べたように「信じるか信じないか」を意識するのは信じ難いからこそです。

客観的で筋道だった根拠がないのですから「信じる」ことには絶えず揺さぶりがかかるということになります。

「それでも信じる」という態度は狂っているとも見れますが、狂っている場合には信じているという感覚はなくなっているのではないかと僕は考えています。


狂気はなにも信じていないと思っていることでは?

信じるということについて、悪い印象として想像するのは盲信している人のことだと思います。何かを1ミリも疑うことなく信じていて、それで傷つく人がいても必然と受け止めているような・・・そんな感じではないでしょうか?

こういうイメージを持って、宗教を信じている人を敬遠したり、霊感を持っていると言う人たちをまったく相手にしない人がいますが、僕はそういう人たちの方もまた(このイメージで言うなら)狂っているのではないかと考えるようになりました(1時間前くらいから)。
彼らも頑なに信じていることがあって、それを信じていることに気づいていない状態であることが多いと感じます。


不倫が悪い、とか
あの先生が言ってたんだから、とか
私は〇〇な人間だ、とか
日本は素晴らしい、とか
幽霊なんているはずがない、とか

そのほかいろいろ、信じているだけなのに宇宙の法則みたいに思っている人は多い気がします。疑いの余地を残していない点でこういうのは合理的というより信仰的なんじゃないかという気がします(この場合は信じるより疑うことが難しい)。


このように考えれば、宗教だろうが幽霊だろうが(失礼な言い方ですみません)、信じている自覚のある人の方がよほど寛容だし、健全ではないかと僕は思うのです。

「信じている」と自覚している時点で疑いの余地を残しているし、本当にそうだろうかと思う出来事に対して敏感になるだろうからです。


最後に

ここまでガーッと書いてきましたが、この話題は非常に難しいです。すごく歯切れが悪い。明らかに僕の勉強不足だし、思考不足です。

でも、僕は直感的に「信じること」について今考えることを残すのはすごく大事なことではないかと「信じている」ので書きました。

これから時間をかけて積み上げていくと思います。

最後に言うなよという話ですよね笑


今日までいろんな人と関わってきて、優しくありたいと思う中で「信じることってなんだろう?」という問いが生まれたのは僕の中では割と必然のことした。

でも、まだまだわかりません。一生わからない気もします。

お墓とか、仏壇とか、霊感とか、神とか超能力とか、そういったものについてどんな態度で接すればいいのか?

これは学問として気になります。いろんな本を読んでじっくり考えてみたいことです。

自分はなにを信じるか?人を信じるってどんな態度だろう?

こういうことは経験から学んでいく必要があるのかもしれません。

ともかく、これから長い時間をかけて「信じる」ということについて考えていこうと思います。たぶん、信じることについて考えることが疑うことについても洞察を与えてくれると思います。それも楽しみです。


言い訳みたいな最後になってしまいましたが、決意だと受け取ってもらえると幸いです笑


最後までお付き合いいただきありがとうございました!



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