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「人としてどうかと思う」なんて僕は言えない

「そこは人としてさ…と思ってあいつに注意しといた」

というセリフを先輩の口から聞いて、なんとなく寂寥を感じました。こうやって異物は同化させられていくんだなあと。

先輩がその人に対して注意した内容は至ってふつうのことだと思ったし、そりゃああれこれ言われても仕方ないよということではあったんだけれど、それでも寂しいものは寂しい。

自分が迷惑を被っていたとしても、
その人が注意されたら同じように感じるだろうと思う。

そういうところでグズグズと考えてしまう自分は注意できない人なんだなあとつくづく思う。「貧乏」と呼ばれようと「金なさそうな顔してるよな」と言われようと、ヘラヘラして許してしまう。すごく嫌ではあるんだけれど。だから余計にいじられる。


もちろん、ふつうというコード(こうするもんだ)を外れた人を注意してくれる人がいないと「ふつう」はどんどん曖昧になっていくものだし、曖昧になるといろいろ面倒になるのもわかります。自分が人に怒れないので、すごく助かるなと感じることだってあります。

だとしても、
僕個人としては、
やはり人に注意するのは苦手で、
注意されるのも苦手で、
もっと上手くやる方法はないものかと考えてしまいます。


世の中には、割とはっきり「それは人としてどうかと思うよ」的なことを他人に言える人というのがいて、ニコニコしながら受け流してしまう人がその何倍かいるような気がする。というより、同じ人の中でも両方の感覚があるのかもしれない。

あくまで今日の僕の見立てですが、この両者が綱引きしながら、誰かが許されたり、過度に責められたりしていて、それで世の中の常識が微妙に動いているのかなあと思います。なんとなく。


「それは人としてどうかと思うよ」と言う時、
その人は無意識に世の中のコードをより純化させようとしています。
それは、”ああすればこうなる””こうするもんだ”という法則を求めたい脳の安心を求める機能の表れなのかもしれない。

一方で、言えない時というのはその逆で、
コードにゆとりを持たせているように見える。ゆとりを幅とかひだとかいってもいいかもしれない。
そこから生まれるものは、コードを遵守することから生まれるものとは性質が違っていて、それ故にめんどくさかったり、面白かったり、優しかったりする、気がする。


僕が人に注意できないのは臆病だからかもしれないし、怠惰だからかもしれないけど、さっきの説で言うと実は単に役割の問題なのかもしれない。

苦しい時や不便な時、迷った時、僕はついこんなふうに考えて、自分を含め誰も強制して変える必要がないという気になって、ヘラヘラとしてしまうことが多い。それを優しいと言われたり、甘いと言われたりする。

だから、先輩が割と高頻度で人を注意できることに僕はちょっとマイナスな感情を抱いたんだと思う。

けれど、それを今日書いたように解釈して、口で言うよりじっくり時間をかけて文章にしていくことで綺麗なものとして処理している、ということなのかもしれない。



今回も最後までお読みいただきありがとうございました。



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