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佐藤越後守

ついに天正6年、大友と島津の争いが始まった。

まずは秋月と繋がりがある吉村氏(旧姓が秋月氏)が守る玄武城を攻めた。これは、三田井氏を倒し高千穂を奪うため、土持氏と密に通じていたと評が流れていたからであるが、秋月氏は大友氏とも対立関係にあったものによるのが1番だと思う。

玄武城を落とした大友勢は島津方と通じている日向の入り口を阻む土持氏をは倒そうと縣の松尾城へ兵を向けた。


ところが、大友本隊が着く前に支隊が功を焦って先に攻め寄せた。これに高千穂勢も加わっていた。

すると、松尾城は堅固により逆に撃たれてしまった。

4月11日、松尾城落城4日前に三田井氏の軍で従軍していた岩戸山裏村(現上岩戸集落)の佐藤越後守親信は討ち死にした。


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岩井谷集落の道端にあるが、意識しないとわかりづらいと思われる、墓が2基ある。

これが佐藤越後守親信の墓で2基並んでいる。

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上岩戸登尾地区にある山道肥前守の碑。

現在でもこの地区には山道さんという方がおられるそうだ。

昔武芸に優れた豪傑であったという。

ある一説によると、この人物が権力をふるい行状は目に余るものがあり、困り果てた村人は、黒葛原(つづらと読む)の佐藤上総守、岩井谷の佐藤越後守、秋元の甲斐丹後守らに山道肥前守を討ってくれるよう頼みこんだ。

3人は話し合いをし、策を得てなんとか討ち取ることができたという。

なぜ、討ち取らなくてはいけなかったのかは、定かではない。

この碑には山道肥前『守』ではなく、『神』と書かれていることから、『神』として祀られていることから、その怨念を恐れ、神として祀り鎮魂させ、大切にされてきたのだと思う。

今でも子孫と思われる人たちがいるのであれば、完全な悪ではないと思われるのは私自身の個人的な考えである。

甲斐丹後守という武士は槍の名人で、近郷には右に出るものはいないという。

ちなみに向山地区にも秋元地区はあるが、ここ上岩戸にも秋元地区はあるので一応付記しておく。

高千穂の佐藤の祖とされる佐藤道元のお墓のある西の内地区の手前の集落で日向秋元という地区。

佐藤越後守はこの佐藤道元より4代後の忠頼の子で親範の子。つまり道元より6代後ということかと思われる。

※ 系図もいくつかあり、兄弟だったり、子だったりと相違があるので正しいことは分からない。別の系図では8代目と思われる。

その後も大友に仕え、大友の字「鎮」を頂く人物もいるほどで、佐藤氏がその後も活躍し、今なお佐藤の姓が多いことでも理解できる。

また、高千穂領主三田井氏の奥方で何人も佐藤氏から出ているということである。

ちなみに黒葛原の佐藤上総守なる人物は分からない。

大友と土持氏の戦いの中で高千穂の佐藤氏も絡んでいたという話は、よりリアルに身近に感じられる。


【参考文献】

高千穂太平記 増補版 西川功著 1987年発行

高千穂村々探訪 甲斐畩常著 1992年発行

伝承あまのいわと 伝承天の岩戸編さん委員会発行 1989年発行

高千穂の古事伝説・民話高千穂町老人クラブ連合会 1990年発行

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