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三田井親武が四男の行く末

高千穂町の観光地である『高千穂峡』

最近まで分からなかったので、知らない人が多いであろうスポットを紹介します。

高千穂峡を越え反対側の向山方面へ向かうすぐのカーブの所、ガードレール裏側に祠があります。

これは高橋元種に討たれた三田井親武公の四男、三田井鎮氏(長武)とその恋人、お亀の供養碑との事です。

三田井家の家紋は左巴紋らしいのですが、これは右巴になっており、豊後大神氏である大神惟基の次男、七男である『阿南氏』と『稙田氏』の家紋のようですが、ちょっとまだ調べ足りてない状況です。

https://images.app.goo.gl/k7XocYBfMbmoo41k6

親武公の三男である鎮信が家督を継ぎますが、大将の器ではなく、また高橋元種氏に降参している身なので以前の勢いはない状況。

その弟鎮氏(長武)は心荒く頼りなし、更に弟の重氏は大将の兆しありと期待されていましたが、弟2人の方が家臣からも信頼はされていたようで、それを面白く思わない鎮信は悪臣の讒言を聞き、長武を水牢に閉じ込めます。

それを聞いた十社大明神(高千穂神社)の別当寺の僧が「それは間違いかもしれないから十社大明神の前で異心のないことを誓約させましょう」と進言し、水牢から出されるも鎮信は突然家臣の折原美濃守に殺すよう命じますが、困ってしまいなかなかできずにいたところ、飯干但馬守が斬ってかかり、長武も5、6合戦するも長柄の槍で突き落とし首実検に備えました。

その後、恋人であったお亀という娘が御橋に馳せつけ自らも身を投げ心中したと伝えられています。

長武28歳、お亀18歳であったとされます。

その後、斬りかかった飯干但馬守は天罰か病で苦しみ、長武の祟りであると恐れて向山、稗の上という所に御霊社を建立しますが、その天罰で子孫は絶えたとのことです。

これは以前まとめていたのがありますので、こちらをご覧ください

https://note.mu/kucky918/n/nbf7c48c468ec

さて、この祠はその2人の供養碑との事ですが、ガードレール裏側なので、非常にわかりにくいですが、もし行く機会がありましたら、三田井家の最後を感じながらお参りしてみるのもいいよかなと思います。

地図にもあるように最後の五男鎮武はまた兄鎮信に追い詰められるのですが、最後諦め自害する際に兄と同じ菩提寺である義雲寺ではなく長福寺にしてくれと言い残し切腹したと言います。

昔のと今のを見合わせながらなので正しいかは分かりませんが、三田井氏を今名乗っているお寺教願寺を越え道なりに行く途中にある庚申塚がある場所が恐らく長福寺跡なのかなと思っています。

また、その丁度山手側には

御手洗甲斐氏のお墓もあり、この周辺の配置等を想像させてくれます。

面白し椎屋谷!!

今回、私自身が興味を持ったのは長武とお亀の悲恋物語でございました。

#高千穂 #三田井家 #高千穂峡 #御霊社

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