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高千穂八十八社 桑野内

五ヶ瀬町桑野内にある高千穂八十八社を紹介していく。

桑野内の名前の由来であるが、二つの説がある。

一つはこの地方に桑の木の自生する村、桑の木村。これが訛って、桑野内村となったと伝えられている。

もう一つは桑野内と押方の境の山は「米の内山」と言われ、高千穂側は昔から水田もあり、米もあり、山の向こう側が米の内、桑野内側は水田が無かったので米食わぬ内と言うようになり、桑野内のことを「くわぬうち」と呼んでいたと言う説。どちらもこじつけのような気もする。

桑野内地区は番所が置かれていた場所で、肥後との境界にあり、通行や貨物、物品の出入りを見分し、税を徴収していて、明治初年まで続いていた。

波帰という場所にあり、桑野内の奥側の集落で、更に奥へ行くと波帰の瀬という場所で川下へ下らなくてはいけない。その道路脇に小々波三郎水神があり、高千穂峡にある久太郎水神と兄弟の水神さまがある。

かなりの坂道なので、肥後や高千穂の田原方面からの行き来があり、桑野内の御番所近辺には屋敷名が「よくう」という場所があるそうだが、そこで旅人、通行人は一休みしていたようだ。(方言でよこうとは休憩するという意味がある。)

辺境地でありながら、また辺境地であるが故に重視していたのではないかと思われる。

ちなみに延岡藩有馬の時代の頃からの話である。

さて、桑野内地区には八十八社の内、二社がある。

その一つは手前の古戸野神社

ここは高千穂の芝原地区より移り住んできた芝原又三郎。

この地へ来て興梠性虎と名乗った。
興梠という姓に戻ったと言った方が正しいのかと思う。

彼については以前まとめたものを参照ください。

https://note.com/kucky918/n/n7f1dafee591d

興梠性虎が芝原神社(熊野三社権現)を勧請し、ここ古戸野神社とした。

祭神は伊弉諾命、伊邪那美命、迦具土命、菅原道真公。

古くは熊野三社権現と称したが、明治4年に古戸野神社と改名し、『日向地誌』によると、速玉男命、事解男命、伊邪那美命を合祀し、熊野三社権現といったとある。

この付近には樹齢400年以上の木がいくつもある。

この裏手の樺木岳には樺木岳城跡があり、桝形山もあり、周辺の阿蘇や三田井、三ヶ所からも連絡が取りやすくするために移り住んだと思われる。

また、陣や馬場という地区もあり、興梠性虎がいたその当時を思わせる。

馬場には厚福寺を建て菩提寺とし、それがいまではこのような形で残されている。

そして、もう一つは桑野内神社。

土生にある桑野内神社。

元は二上大明神といい、伊邪那岐命、伊邪那美命の二神を祀っている。明治4年より桑野内神社と改名。

二上山にあった二上大明神を山麓に下ろす際、高千穂の小谷内と三ヶ所の宮の原で誘致運動の末、結局双方に作ることとなり、その両社(二上神社と三ヶ所神社)の外宮をおき、その一つがここ桑野内神社である。ちなみに高千穂の二上神社の外宮は嶽宮神社である。

以前は土生ではなく、中山の迫にあった。

明治4年当時副戸長になった後藤大四郎氏は信仰家であり、積極性に富んだ人であり、上組(桑野内は大きく分けると上組、下組に分けられる)には古戸野神社もあり、2社あるのに対し、下組には寺も神社もないところから、庄屋だった後藤七郎氏に進言し、二上大明神を下組に勧請する運動を始め、現在の場所に移転を成し遂げたとの事。

後藤大四郎氏は元々庄屋の長男だったが、弟に譲って飛び出した人でら後藤七郎氏はその弟である。兄弟力を合わせて神社の統治に全力をあげたものと思われる。

以前の場所にも二神大明神として祀られている。

桑野内には稲荷神社、天神社、水神社、地蔵堂、観音堂、薬師堂等がいくつもあり、全体的にも信仰心の厚い場所だったのではないだろうか?

その中でいくつか紹介する。

下山の奥に打越水神がある。

奥までは行けていない。

また、北の迫には地蔵や天神社がある。

鰐口には享保12年(1727)とあり、その頃に建てられたと思われる。

桑野内は阿蘇五岳を展望する事ができ、景色の素晴らしいところである。

また、ワイナリーもあり、とても美味しい。

また、民泊も何軒かされており、是非、訪れてみてほしい場所だ。

参考文献 
傳承 桑野内  桑野内の歴史を語る会発行
日本民族発祥の地 高千穂郷八十八社名録  佐藤光俊編集

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