くしふるの峯 その2
【本組編第4弾】
さて、前回に引き続き今回もくしふるの峯にある史跡を紹介していきたいと思います。
くしふる神社右手側から道なりに下っていくと、看板が見えてきます。
まずは左側に進んで行きます。
少し坂道を登っていくと、まず高天原遥拝所があります。
ニニギの尊に従い御降臨された神々が国中からここ高天原遥拝所とくしふる神社に集まって、高天原にいる天照大御神始め、その他の神々を偲んで御遥拝され、また種々御協議されるところであるとされています。
石の祠があり、他に石灯篭もあります。
延岡の石彫師が作ったとされるものが残されています。
※ 余談かもしれませんが、以前、石の祠には十字が彫られていたと思いましたが、確認できませんでした。
この十字は何を意味するのか??
実は隠れキリシタンに関係するという説もあるとかないとか。。。。
さて、遥拝所を更に進んでいくと、四皇子峯があります。
四皇子とはニニギの尊の息子、山幸彦の更に息子ウガヤフキアエズの尊の息子、つまりニニギの尊のひ孫ですね。にあたる後の神武天皇となる御兄弟です。
長男から、五瀬の尊、稲飯の尊、三毛入野尊、神日本イワレヒコの尊(後の神武天皇)の後宮居の峯跡になります。
それが四皇子峯神社です。
四皇子峯は下方に参拝所があって、神垣が廻らされていて、中に入ることは出来ません。
前の宮司の話によると、直径30メートル内外の平地があり、その南端に石の祠があり高天原の方に向いているとのことです。
四皇子峯社は1906年(明治39年)に高千穂神社に合祀され、小社として祭祀されています。
ぐるっと回ることもできますが、ここ高千穂碑の広場に繋がります。
高千穂碑http://takachiho-kanko.info/sightseeing/
古事記・日本書紀に書かれている奈良時代から皇祖発祥の地と伝承された事を立証するため、風土記・万葉の古歌を刻した碑
「高千穂論争」
日本神話を研究する「国学」が盛んだった江戸時代、天孫降臨の地をめぐり「臼杵高千穂説」「霧島高千穂説」という二つの説で論争が行われた。高千穂の地が移動したという「高千穂移動説」という説もある。
観光協会サイトより転載
筑紫の日向の高千穂御三代を顕彰する為に、高千穂建碑協賛会が結成され、その名誉総裁に高松宮宣仁親王殿下を戴き、名誉会長に神道文化協会長神社本庁統理佐々木行忠氏、理事長に法学博士滝川政次郎氏、発起人に学習安部能成氏外75人の文人により6年間を費やし、昭和41年11月11日建碑除幕となりました。
これには甲斐徳次郎氏(旧岩戸村長・県議歴任・郷土史家)が「皇祖発祥の聖地に日向風土記逸文、万葉集の古歌を刻した碑を建て、民族精神興隆の一其石となさん」と身を挺して当代の文人を動かし、建碑されるに至ったのでした。
町立図書館にあった週間朝日の記事を読ませていただきました。
発行は昭和31年8月26日です。
ここには、天孫降臨の地は西臼杵郡の高千穂なのか、霧島の高千穂であるのかという争いの記事が掲載されています。
この当時は建碑されておらず、論争真っ只中。
宮崎と鹿児島の境にある高千穂峯。
宮崎県側から博士一行を連れ、境界線を一歩踏み出した途端に鹿児島県側が「これからは私たちが案内します」と、身柄を引き取り「実は高千穂はもと薩摩領だったが、宮崎県側で食い込んできた。頂上にある古宮跡は霧島神宮の奥宮に当たるから高千穂は鹿児島のものだ」とまくし立てた。とあります。
側で聞いていた宮崎側はカッとなって頂上で殴り合いのケンカ。人呼んで‘真昼の決闘’というそです。
今では信じられないことですが、勢力争いというものも、こういったことと同じなのではないかと考えさせられます。
さて、くしふるの峯についてはこの辺で終いにしようと思います。
参考文献
高千穂の故事・伝説民話
神々の里 本組 たかまがはら
週間朝日
高千穂村々探訪
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