永ノ内は長野内
岩戸地区には八大龍王水神がある永ノ内地区があります。
戦国時代、戦用の馬を育てていたところで、長い野があったところから、「長い野内」ということで、昔は「長野内」と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか現在の永ノ内となったそうです。
昭和の初め頃に、宛先が「岩戸村 長の内」と書いてあったのを郵便物が時々、岩戸村長の家に届けられるという笑い話があり、それで当時の人が「永ノ内」と変えたのでは!?という説もあります。
さて、永ノ内には岩戸城があり、初代城主は富高將監太夫昌重。
彼は元は県(今の延岡)を治めていた土持一族の分かれです。
子孫存亡の為、兄弟が三田井家を頼って高千穂へ入ってきたという説があります。
そして、富高(日向市)に先祖が住んでいたこともあり、富高を名乗った。
当時は富高と書いて「とだか」と読みます。
現在の戸高氏はここから変わったのかなとも思っています。
2代目は富高大膳大夫重長。
三田井氏の仲山城が延岡藩高橋元種に落とされ、ここ岩戸城も攻められます。
城と言っても山城であり、多勢に無勢とても防げるものではなく覚悟を決めた大膳は老人婦女子を奥山へ逃し、自らも氏神の森へ逃げるも、家臣と共に自害しました。
八大龍王水神から右手に行くと「中の園」という地区がありますが、そこに墓所がありまして、それはとてもとても立派な五輪塔があります。
これが富高將監のお墓です。
高千穂内でも1ではないかと言われるくらい大きくて立派です。
しかしながら、血筋途絶えずに、名前を変えていた富高氏の子孫は岩戸の庄屋に取り立てられました。
また、年代によって別々になったようですが、再び土持を名乗る者、富高と名乗る者、母方の佐藤と名乗る者に分かれたそうです。
なお、土持氏が入ってくるまでは工藤氏が支配していたそうで工藤氏も永ノ内には何件かおられます。
さて、永ノ内、布城地区には観音堂があります。
現在はありませんが、大きな森の中にかなり大きなお堂があったそうですが、今は道端に移され小さなお堂になっています。
一説によると、富高大膳が建立したものと伝えられていますが、岩戸城落城の時に今のところに自ら飛んできたという説もあるそうです。
または、富高大膳の信頼を受けていた円覚坊が戦火をさけ、奉じてきたという説もあります。
富高大膳が自害した際にお経を唱え殉死した人であると言われています。
子安の観音様として昔はあちこちからお詣りがあったそうです。
ここにもいくつか五輪塔が並んでいました。
参考文献
伝承 あまのいわと 伝承天の岩戸編さん委員会
高千穂村々探訪 甲斐畩常著
日向戦国史 土持一族の光芒 荒木栄司著
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