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鬼八とは一体何者?

【平井俊徳の村々探訪】

高千穂神社の祭神でもある三毛入野命(ミケイリノミコト)
※ 「三毛沼命」とも書く

神武天皇の兄でもあり、五瀬命、稲飯命、三毛沼命、佐野命(後の神武天皇)、四兄弟の三番目である。

霜宮とされ、霜を司る神とされる鬼八。

鬼八はまたの名を「鬼八法師」「きはちぼし」そして、文久3年(1863年)の高千穂庄神蹟明細記 (樋口 種實著)では「走健(はせたける)」が本名と書かれている。

素顔としては、阿蘇家伝、阿蘇写略記共に健磐龍命が五穀豊穣のために「霜宮」と祭られたとされ、「鬼八」の名はない。
肥後国志には、大明神の使臣「鬼八法師」が出てきて霜を降らせ「霜宮」と祭ったとある。
高千穂神社に残されている文治5年(1189年)の旭大神文書と合わせ考えてみると、「きはち」は旭大神文書には登場しており、1番古い文書であるため、これが肥後へ伝わり「霜宮」と結びつき、それが逆に高千穂へ移入され、“霜宮鬼八”となったと考えられる。

鬼八は二上山の麓、乳ヶ窟に住み、祖母岳明神の娘稲穂姫の子、鵜ノ目姫(別名阿佐羅姫)を無理やり妻にしてかくまった。

ある日、三毛入野命が五ヶ瀬川のほとり七つヶ池の辺りで水鏡に映った鵜ノ目姫に出逢い、鬼八に捕らわれているので助けてくださいと訴える。

早速、丹部宗重、若丹部佐田重などを従え、44人の家来と共に乳ヶ窟へ出かけた。

7日攻め、42人は討たれているので、大変激しい戦いだったことが想像できる。

鬼八は二上山から三ヶ所、内の口、諸塚、飯干、椎葉山から米良、八代、阿蘇、豊後、川原から祖母山。それから、上野、窓の瀬から押方へ渡り、一の堀で退治された。

上野の鬼切畑には鬼八を鬼切丸という刀で一太刀切りつけたが太刀は外れその割れ目が太刀の跡とされる岩がある。


鬼八は池に埋められ、八尺の石をかけ、その上に土をかけ埋めたが、鬼八は蘇るため、三つに切り三ヶ所に分け埋めたとされる。

1つは神殿公民館近くの首塚

猪掛け祭りの際は神事の後、ここに猪の肉を木に掛けることから猪掛け祭りという。(※猪掛け祭りについてはまた後日)

2つ目は旅館神仙の敷地内にある胴塚


3つ目は道の駅高千穂の横、淡路城の中腹にある手足塚

また、写真はないが、高千穂峡には“鬼の力石”という岩があり重さ200トン。鬼八が三毛入野命に向けて投げ、力自慢をしたとされる。

http://www.pmiyazaki.com/takachiho/nw/log/eid14.html

ここまでは高千穂で有名な話、伝説とされている。

高千穂神社付近、神殿(こうどの)地区には鬼八にまつわる地名が多い。

高千穂観光ガイドの高藤氏に案内してもらった。

このマップをもとに歩いてみた。

鬼八は三つに分けられたとあるが、実は八つに分けられたという説があることが分かった。

なんと神社付近には池の窪という水神様がいくつか祀られている。

鬼八は池に埋められたとあるので、この水神様は何かしらの関係があるのかもしれない。

ベスト電気入り口


その先の民宿おがたまを越えた角のところ


そこから、左手に回り、神社までの道の脇

高千穂神社境内、神楽殿の向い側


そして、水神ではないが、高千穂神社より高千穂峡のほうへ下ると右手、吉田鈑金さんの向かい側に鬼八の男根塚ではないかといわれる祠があった。

神社を取り巻く様にあるこれらは、鬼八の祟りを抑える所謂結界のようなものだったのか!?

それほどまでに、鬼八の祟りを恐れたのか、反対に実は慕われていたのか。

疑問が残る。

また、周辺には鬼八が妻(鵜ノ目姫)に逢いたいと願ったとされる妻恋坂や鬼八が傷ついた血を草で拭き取った所を千草町という場所がある。

鬼八とは一体何者なのか?

恐らく地元にいる豪族だったのではないかと考える。

実は鬼八と鵜ノ目姫の関係は本当に夫婦で三毛入野命に奪われた!?という考えもできる。

歴史は勝者が都合良く作る傾向があるために悪者とされたのではと私は考えている。

阿蘇の方では鬼八は金八とも呼ばれており、鬼八とは当て字であると思われる。

早霜を降らせることで農業に影響があるため、鬼八の祟りとして霜宮としたのは後の事ではないだろうか?

朝鮮語では畑のことをハツと訓む。

鬼(き)または金をキリの訛言とみれば「吉」の字に当たるので「キリハツ」は畑を祝福する神という見解をした学者もいる。

また、鬼八と三毛入野命の戦いは稲飯の末裔と言われる漆間氏と豊後境の祖母山にうば岳大明神を祭った大神氏との勢力争いではなかったと捉える学者もいる。

先住の漆間氏を追放し、三田井に十社大明神を祭り、主神を三毛入野命としたと見解している。

高千穂神社の前には御神馬が祀られている観音堂がある。

なんでもここを移動させようとすると、なんの祟りか、事故が起こったり、死者が出るなどの話があり、この場所を動かせないそうだ。この御神馬はたいそう暴れ馬だという話。

ただし、以前のこの観音堂は今の高千穂神社の札所のところにあったそうだ。

御神馬なのに、なぜ祟り。

これは個人的な想像だが、これは鬼八自身の魂がここにあって、それを押さえつけているのではないかと考えている。

さまざまな見解があるとは思うが、どちらにしても、退治されたのではなく、戦いに敗れたというのが正解に近いのかもしれないと私は考える。

災いを抑えるために悪鬼として捉えられやすい鬼八ではあるが、高千穂人にとっては霜を司る神として、大切に思われている事は間違いない。 高千穂の人にとっては鬼八というものは馴染みの深く愛されるキャラだからこそ、いくつもの名所が今でも残されているのではないだろうか?

また、熊本県高森町にある上式見熊野座神社の後方には大風穴がある。

阿蘇大明神が弓を楽しんでおり、阿蘇山頂より矢を放たれた。それを鬼八法師に取りにいかせていた。面倒くさくなった鬼八は100本目の矢を足の指に挟んで投げ返した。これを怒った大明神は追いかけて来たため、逃げ出した鬼八は目の前に立ちふさがった岩を蹴り飛ばした。
これがこの風穴で「穿戸岩(うげといわ)」という。

阿蘇の方では弱々しい印象がある。


高千穂神社の祭神については、また改めて。
鬼八は私が歴史にハマる一番のきっかけとなった人物である。


参考文献

高千穂の猪掛け祭りについて 西川功変
高千穂の故事伝説・民話 高千穂町老人クラブ連合会、社会福祉協議会

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平井俊徳
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